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第25話 夏の夜の夢

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 次の日、起きたらもう、慶二は居なかった。
 慣れないテーブルマナーで頭を使ったせいか、グッスリでちっとも気付かなかった。
 枕元に、ピカルくんのスワロフスキーをペーパーウエイトにして、またメモが残されている。

『おはよう、歩。父さんに気に入られるのは良いけど、気に入られ過ぎないようにしろよ。お前が毎日女装するようになったら、キスも出来ない。それだけは避けてくれ。慶二 ×○×○』

 署名の後には、『キスハグ』を意味する記号。僕は思わず、唇に指先で触れた。寂しい。
 ……待って。今日も女装するから、今日もキス出来ないってこと?

「慶二……」

 僕は呟いて、唇を噛み締める。慶二に触れられないことがこんなにも寂しくなるほど、僕はもう慶二を愛してるんだって気が付いた。
 でも、孝太郎さんと三沙くんと会うのに、スッピンでなんて出られない。
 失礼なのもあったけど、お化粧をしなきゃ、人前で前髪なんて上げられなかった。

 冷凍食品をチンして、気晴らしにアサリのお味噌汁を作って、朝ご飯を手早く摂る。

 その後は、平良さんにアパートに送って貰って、また女装した。
 今日は、白いレース編みのついたツーピースに、淡いピンクのパンプス。
 メイクは昨日の要領で、派手になりすぎないようにした。でも服が白だから、少しだけピンクのアイシャドウを入れる。
 平良さんは、また一礼して言ってくれた。

「お綺麗です、歩様」

「ありがとう」

 でも、何処か空しかった。慶二とキスも、何もかも出来ないんだと思ったら。

    *    *    *

「こんにちは、歩さん。今日も綺麗じゃな。こんな綺麗な娘と歩けるだけで、ワシは幸せもんじゃ」

「こんにちは、お父様。お上手ですね。姉に仕込まれて、メイクが上手いだけです。普段は、化粧もしないんですよ」

 今後、メイクしないでも会えるよう、上品に口元を覆って、さり気なく断りを入れておく。
 
「ほう。お姉さんが居るのかね」

「はい。六歳年上の姉が居ます」

「ご結婚は?」

「あの……一度、失敗してるんです」

 どう言えば上品になるかなと、言葉を選んで僕は言う。

「そうか。苦労してるんじゃな」

 癖なのか、孝太郎さんは口髭を撫でた。

「慶二は不器用な奴じゃが、強引に交際するほど好いた相手は、歩さんだけじゃ。その点は、安心してくれたまえ」

「はい」

 それはきっと、真実だ。小鳥遊っていう蜜に寄ってくる蝶は、巨万(ごまん)と居ただろう。
 最初は契約結婚だったし、誰でも良かった筈だ。でも今は、「愛してる」って、僕の好きな声で囁いてくれる。

 大講堂の片隅に腰掛けると、小学校の学芸会以来の、舞台の幕が上がる前のざわざわした喧噪が心地良かった。

「歩さんは、演劇に興味があるのかね?」

 思わず騒ぐ胸を押さえていたら、孝太郎さんが横から覗き込むようにして訊いてきた。

「あ……はい」

 いけない、いけない。楽しみ過ぎちゃ駄目だ。
 慶二のメモが脳裏をよぎる。

「社会的教養とは別に、こういった趣向は、人生を豊かにしてくれる。良い事じゃ。出演したことは、あるのかね」

「あの……ほんの、子供の頃に」

「ほう。どんな風じゃったか、この老いぼれに話してくれんかね」

 瞬間、鮮やかに、舞台上から見た景色が蘇る。家族以外に、この経験を共有した人など居なかった。

「新宿バードランドで、アトラクション案内係のお姉さんが楽しそうにしているのを見て、憧れて……小学校では毎年、演劇を選択していたんです。配役は、オーディションで……小学校五年生の時に、やっと主役に抜擢されて。嬉しかったです。廃校になる小学校のお話で、子供たちが子供なりに悩んだり、話し合ったり、衝突したりして。最後は、僕の演じる努(つとむ)の出した案で、みんなが一つになって卒業していくっていうお話でした。客席の笑顔と拍手を、舞台の中央で受けたのが、今でも忘れられないんです」

「……ほう。歩さん、心が豊かなんじゃのう」

 ハッとした。気付くと、夢中で話してた。僕、変なこと言わなかった……?
 孝太郎さんの顔を盗み見る。その表情はにこやかで、失言はなかったんだとホッとした。

「すみません。子供の頃の話なのに……」

「子供の頃の思い出を大切にするのは、良いことじゃよ。……はて……」

 孝太郎さんが、時計を見る。慶二はシルバーに輝くダイヤの敷き詰められた時計だったけど、孝太郎さんのはその斜め上を行っていた。
 着物の袂(たもと)から、鈍く金色に光る、アンティークの懐中時計を出している。金の光り方が玉虫色で、僕でも凄く高いんだろうなって分かった。

「おかしいの。開演時間を過ぎているんじゃが」

 席はもう埋まっていて、歩いている人も居ない。開演するのに何の躊躇いもないように見えた。
 その時、舞台袖から、明らかに舞台衣装の人物が現れて、会場が少しざわついた。
 見る見る内に、長髪を後ろで括った、中世貴族風の白い衣装を身に着けた男性が近付いてきて、孝太郎さんに声をかけた。

「父さん! 助けて!」

「どうした、三沙」

 この人が三沙くん? 確かに、目元がちょっと小鳥遊の顔だ。
 大学生って事は僕より年下の筈だけど、平均身長以上で僕より大きい。

「ヒポリタ役の女の子が、地下鉄止まっちゃって来られなくて、衣装が入る代役も居なくて……」

 と言いながら、視線が僕に釘付けになる。

「父さん、このコ借りても良い?」

「これ、三沙。お前の姉さんになった方だぞ。歩さんだ」

 聞いた瞬間、パッと顔が輝いた。

「あ、貴方があゆちゃん?」

 あ、あゆちゃん? 僕はビックリして、どもってしまった。

「は、はい」

 三沙くんは、早口に滑舌良く喋る。

「初めまして、あゆちゃん。俺、慶二兄(にい)の弟の三沙。今、ピンチなんだ。黙って立ってるだけで良いから、ヒポリタ演ってくれない? 俺が相手役のシーシアスだから、エスコートするよ。『夏の夜の夢』知ってる?」

 いっぺんに色んなことを言われて、僕は混乱して黙ってしまう。
 代わりに、孝太郎さんが答えた。

「ああ、歩さんは演劇に興味があるんじゃ。ちょうど良いの。歩さん、『夏の夜の夢』は知ってるかね?」

「あ、はい」

「ならば話が早い。三沙を助けてやってくれんかの、歩さん」

    *    *    *

 舞台を観に行くお金はなくても、演劇への興味は尽きなかったから、シェークスピアは一通り読んでいた。原文で。

 『夏の夜の夢』は、『ハムレット』に代表される悲劇の印象が強いシェークスピアの戯曲の中にあって、コメディタッチの有名な作品だ。

 悪戯好きの妖精パックが、妖精王オーベロンの命令で惚れ薬の花を男の目に振りかけるけど、二組のカップルを取り違えてしまい、好きだの嫌いだのと大騒ぎになる喜劇。
 それとは別に、大公シーシアスとヒポリタのカップルが居て、ヒポリタはシーシアスに無理やり連れてこられた、敵対する国のアマゾネスだ。

 何で僕、こんな所に居るんだろう……。
 僕は、嵐のように渡されたシルバーのシンプルなドレスに慌てて着替え、金髪の巻き毛のウィッグをつけられて、裸足で舞台上に立っていた。
 メイクは、ライトに負けぬよう、アイラインだけ濃く引かれた。

 でも、ドキドキするけど、嫌なドキドキじゃない。
 子供の頃の、舞台上から見た景色が、再び目の前にあった。みんなが一心に、舞台上の一挙手一投足に見入ってる。

 『夏の夜の夢』のストーリーは頭に入ってる。ヒポリタは、それほど重要な役じゃない。
 少ない台詞を全部省いて、三沙くんのシーシアスがエスコートして台詞を補うから、黙って立ってれば良いと言われた。
 でも始まってすぐに引き込まれ、僕は僕なりに、登場時、物憂げな表情や仕草を作って、役に入った。
 ……楽しい! 僕は、演じる喜びを沸々と感じていた。

『殺すべきか? 殺さざるべきか? それが問題だ』

 三沙くん……シーシアスが、苦悩する。思わず僕も応えていた。

『身体は生きたまま、心が死ぬのか? 心が生きたまま、身体が死ぬのか? 結婚か? 死か?』

 一瞬、舞台上の全員が息を飲んだような静けさがおりたけど、何事もなかったように舞台は進む。

 シーシアスは、手に入らないヒポリタの心に恋い焦がれ、苦悩する。
 一方ヒポリタは、心の底ではシーシアスを愛し始めているのだけれど、無理やり連れてこられた状況に、素直になれないでいる。

 滅茶苦茶に混乱していた二組のカップルの恋模様が落着し、自分たちを含め、三組の永遠(とわ)の契りを確約するシーシアスに、ふと僕は俯いていた顔を上げる。
 シーシアスは、『父親の決めた相手と結婚すべし』という国法を曲げてまで、二組の若いカップルを守ったんだ。
 感動している僕に、シーシアスが声をかける。

『……どうした? おいで、ヒポリタ』

 僕は初めて、シーシアスに自分から近付き、そっとその若い頬に触れようとした。驚き、立ち竦むシーシアス。ハッとして、僕は手を引っ込めた。
 数瞬、愛しさの募る眼差しで見詰め、何か口にしようと唇を震わせて……泣きそうな角度に眉尻を下げて、シーシアスを追い越して足早に去る。
 舞台袖で振り返ると、シーシアスは呆然と僕の方に手を伸ばしたけど、きゅっと拳を握り締めて、冷静を装って後を追ってきた。

 そして、婚礼の祝いの余興、職人たちの劇中劇を観劇する。
 その不慣れな演技や、内容の馬鹿馬鹿しさに、僕は怒って席を立つ。

『こんなつまらない芝居、初めてだわ!』

 だけどシーシアスは、優しく引き留める。

『芝居というものは、所詮は影。想像力で補うものだ』

 僕は自分の心の狭さを反省し、シーシアスの優しい笑みに心打たれて、再び席に腰掛ける。
 やがて、若い恋人たちを描いた恋物語は、悲劇で幕を閉じる。
 僕は、舞台の中央に進み出て、呟いた。

『この悲しい物語のように、ならないよう……シーシアス』

 シーシアスは、また固まってる。
 僕は再び手を伸ばして頬に触れようとして……熱いものに触ったみたいに、一度、ビクリと手を引っ込める。シーシアスが、落胆して細く息を吐いた。
 僕は勇気を出してもう一度手を伸ばし、初めてその頬に指を這わす。そしてそのまま、安らかな表情で、シーシアスの胸に頬をうずめた。
 シーシアスは、感動に震える手で、僕を大切に抱き締めてくれた。

『さあ、恋人たち。この先七晩、夜毎宴を催そう。深夜の鐘が零時を打った。仲睦まじく、新床へ!』

 シーシアスが僕の肩を抱きながら、朗らかに宣言して、この舞台は幕となる。
 僕は少し照れて初めて微笑み、シーシアスと情熱的に見詰め合う中、緞帳(どんちょう)が下りてきた。
 一瞬の空白の後、拍手が鳴り響く。緞帳が上がり、中央で台詞を言ったあとだから、結果として中央で、いつか見た笑顔と拍手を受ける事になった。

「あゆちゃん、お姫様の礼して」

 シーシアス……三沙くんが、耳元に囁く。僕は、膝を折って優雅に一礼した。呼吸を合わせて、三沙くんも胸に手を当てお辞儀する。
 拍手が、大きくなった。鳴り止まぬ拍手の中、緞帳が再び下りた。

「あゆちゃん、凄いよ。言っちゃ悪いけど、元々のコより上手い!」

 言葉とは裏腹に、ちっとも悪くなさそうに大きな声で言われ、僕は慌てて顔の前で小刻みに両手を振る。

「とんでもない! 立ってるだけで良いって言われたのに、出しゃばってごめんなさい!」

「いや、上手いよ。ねえ、センセ?」

 先生ってことは……!

「うん。ぶっつけ本番なのに、大した度胸だね、君。何処の生徒さん?」

 去年の春まで廊下ですれ違ってた准教授が、感心した風に訊いてくる。
 良かった。直接、話したことのある先生じゃない……! 

「あゆちゃんは、社会人だよ。俺の兄貴の、お嫁さん」

「これは、失礼。何処かで演技経験でも?」

「な、ないです。学芸会くらいで……」

 興味深げに質問を重ねようとしてくる准教授から逃れて、僕は急いで着替えをしに舞台を降りた。
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