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第38話 ご神託
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前室で口をすすぎ手を洗って、肩にかかる長い黒髪に櫛を通す。
先代は、これが最後のお勤めだと言った。これさえ我慢すれば、未来は開ける気がする。そう思わなければ、やりきれなかった。
慣れた仕草で襖に膝を向け、僕は三つ指をついて声をかけた。
「参拝者様。お待たせ致しました。皇城充樹にございます」
家人が、両側から襖を開けてくれる。
お勤めの間はもう、燃えた畳や布団が入れ替えられ、何事もなかったように金糸銀糸の広い布団が敷かれていた。
五十代の背広の男性が、正座して待っている。初めての方だ。
「お勤め、よろしくお願い致します」
決まり文句を言って平伏し、僕は血の滲む思いで問いかけた。
「衣は、わたくしが脱ぎましょうか? それとも、脱がせとうございますか?」
だけど参拝者様は息を荒らげる事もなく、穏やかに問い返してきた。
「君が、珠樹くんかね?」
「は……はい」
参拝者様は、僕の事を『神子様』と呼んだし、『珠樹』の名前を知るのは皇城の人間だけだったから、僕は驚いて視線を合わせた。
奥二重の眼差しは真摯な色で、この方はお勤めをする気はないんだろうと思われた。
――ぴかっ。ごろろろろ……。
奥まったお勤めの間にさえ、雷鳴が轟く。
「政臣を、愛してくれているかね?」
僕は、こくりと唾を飲み込んだ。
「……はい。心から」
「政臣は、子供の頃から、我が儘を言った事がなかった。いつも兄たちの陰に隠れ、優秀でない自分を恥じて、私からも遠ざかって育った」
初めて会った日を思い出す。政臣さんは、「父から放逐されて育った」と言っていた。でも今、政臣さんの事を話すこの人の目は、こんなにも優しい。
「その政臣が、初めて私に我が儘を言った。叶えてやりたいと思うのが、親心だ」
――ごろろ……どんっ。
ああ、雷が何処かに落ちた。そんな風に、心静かに情景を感じていたら、不意に屋敷の中が騒がしくなった。お勤めの間に近付いてくる。
「珠樹、珠樹!」
「政臣さん……!」
僕は顎を上げて、入り口を見た。破らんばかりの勢いで、襖が開く。
「珠樹!」
「政臣さん!」
僕たちは駆け寄って、ひしと抱き合った。
政臣さんはずぶ濡れで、前髪から雫が滴っている。
先代が、足音高く後を追ってきた。
「政臣さん! もう貴方は、皇城にとって害を成す人間だ。結婚は破談だ。お引き取り願う!」
「それは、こちらの台詞ですな」
参拝者様……いや、藤堂さんが、座したまま重々しく語る。
「そちらから縁談を持ちかけておきながら、一方的に破談とは何事ですか。愛情をねじ曲げ、弄ばれるおつもりか。政臣と珠樹さんとの縁談が上手く運ばなければ、今後、皇城のご神託は誰も占いに来ないでしょう」
「なっ……!」
先代が絶句した。
政臣さんは、僕の髪を梳くように撫でてくれる。
僕は、急いで付け加えた。
「充樹と、笹川さんの縁談も」
「君の、双子の兄弟だね」
「はい」
「そういう事だ。皇城さん、選んで頂こう。皇城家の断絶か、政臣たちの結婚か」
ぎりりと、先代は奥歯を噛み締めた。長い長い沈黙が落ちる。
「……よかろう……」
僕たちは、またきゅっと抱き締め合った。
「充樹にも、知らせてきます!」
「ああ、待て。俺も行く」
そして政臣さんは振り返って、藤堂さんに視線を向けた。
「ありがとう。父さん。初めて、貴方の息子で良かったと思った」
その、何処か余所余所しい声に、僕は口を挟まずにはいられなかった。
「政臣さん。お父様は、貴方の願いを叶えてあげたいと仰っていました。誤解だったんです。お父様は、貴方の事を深く考えていらっしゃいます」
「ありがとう、珠樹さん」
僕に目礼した後、藤堂さんはあの優しい目で、政臣さんを見て淡々と言う。
「わしから離れていったのは、お前の方だったのだよ。物心ついてから我が儘の一つも言わないお前を、いつも気にかけていた」
きっと、この方は不器用なんだ。そんなにも優しい目をするのに、淡々としか声がかけられない。
かけ違えた釦(ぼたん)が、ようやっと正しい位置に落ち着いたようだった。
政臣さんが、ぽつりと呟く。
「父さん……結婚式には、出てくれますか?」
「勿論だ」
僕は、心から祝福を贈った。
「良かったですね、政臣さん!」
「ああ……何もかもお前のお陰だ、珠樹」
僕たちは微笑み合ってから、藤堂さんに頭を下げて、踵を返した。
「充樹の所へ行きましょう。あの子、泣いていました。早く吉報を知らせてあげたいです」
「ああ。どうせなら、同じ日に結婚しよう」
もう、南京錠は必要ない。皇城から座敷牢はなくなって、充樹が九十九代目当主、僕がその弟、来世はお腹様が生む僕の子が、皇城を受け継いでいくんだ。
奇しくもそれは、いつかの僕のご神託で証明されていた。
先代は、これが最後のお勤めだと言った。これさえ我慢すれば、未来は開ける気がする。そう思わなければ、やりきれなかった。
慣れた仕草で襖に膝を向け、僕は三つ指をついて声をかけた。
「参拝者様。お待たせ致しました。皇城充樹にございます」
家人が、両側から襖を開けてくれる。
お勤めの間はもう、燃えた畳や布団が入れ替えられ、何事もなかったように金糸銀糸の広い布団が敷かれていた。
五十代の背広の男性が、正座して待っている。初めての方だ。
「お勤め、よろしくお願い致します」
決まり文句を言って平伏し、僕は血の滲む思いで問いかけた。
「衣は、わたくしが脱ぎましょうか? それとも、脱がせとうございますか?」
だけど参拝者様は息を荒らげる事もなく、穏やかに問い返してきた。
「君が、珠樹くんかね?」
「は……はい」
参拝者様は、僕の事を『神子様』と呼んだし、『珠樹』の名前を知るのは皇城の人間だけだったから、僕は驚いて視線を合わせた。
奥二重の眼差しは真摯な色で、この方はお勤めをする気はないんだろうと思われた。
――ぴかっ。ごろろろろ……。
奥まったお勤めの間にさえ、雷鳴が轟く。
「政臣を、愛してくれているかね?」
僕は、こくりと唾を飲み込んだ。
「……はい。心から」
「政臣は、子供の頃から、我が儘を言った事がなかった。いつも兄たちの陰に隠れ、優秀でない自分を恥じて、私からも遠ざかって育った」
初めて会った日を思い出す。政臣さんは、「父から放逐されて育った」と言っていた。でも今、政臣さんの事を話すこの人の目は、こんなにも優しい。
「その政臣が、初めて私に我が儘を言った。叶えてやりたいと思うのが、親心だ」
――ごろろ……どんっ。
ああ、雷が何処かに落ちた。そんな風に、心静かに情景を感じていたら、不意に屋敷の中が騒がしくなった。お勤めの間に近付いてくる。
「珠樹、珠樹!」
「政臣さん……!」
僕は顎を上げて、入り口を見た。破らんばかりの勢いで、襖が開く。
「珠樹!」
「政臣さん!」
僕たちは駆け寄って、ひしと抱き合った。
政臣さんはずぶ濡れで、前髪から雫が滴っている。
先代が、足音高く後を追ってきた。
「政臣さん! もう貴方は、皇城にとって害を成す人間だ。結婚は破談だ。お引き取り願う!」
「それは、こちらの台詞ですな」
参拝者様……いや、藤堂さんが、座したまま重々しく語る。
「そちらから縁談を持ちかけておきながら、一方的に破談とは何事ですか。愛情をねじ曲げ、弄ばれるおつもりか。政臣と珠樹さんとの縁談が上手く運ばなければ、今後、皇城のご神託は誰も占いに来ないでしょう」
「なっ……!」
先代が絶句した。
政臣さんは、僕の髪を梳くように撫でてくれる。
僕は、急いで付け加えた。
「充樹と、笹川さんの縁談も」
「君の、双子の兄弟だね」
「はい」
「そういう事だ。皇城さん、選んで頂こう。皇城家の断絶か、政臣たちの結婚か」
ぎりりと、先代は奥歯を噛み締めた。長い長い沈黙が落ちる。
「……よかろう……」
僕たちは、またきゅっと抱き締め合った。
「充樹にも、知らせてきます!」
「ああ、待て。俺も行く」
そして政臣さんは振り返って、藤堂さんに視線を向けた。
「ありがとう。父さん。初めて、貴方の息子で良かったと思った」
その、何処か余所余所しい声に、僕は口を挟まずにはいられなかった。
「政臣さん。お父様は、貴方の願いを叶えてあげたいと仰っていました。誤解だったんです。お父様は、貴方の事を深く考えていらっしゃいます」
「ありがとう、珠樹さん」
僕に目礼した後、藤堂さんはあの優しい目で、政臣さんを見て淡々と言う。
「わしから離れていったのは、お前の方だったのだよ。物心ついてから我が儘の一つも言わないお前を、いつも気にかけていた」
きっと、この方は不器用なんだ。そんなにも優しい目をするのに、淡々としか声がかけられない。
かけ違えた釦(ぼたん)が、ようやっと正しい位置に落ち着いたようだった。
政臣さんが、ぽつりと呟く。
「父さん……結婚式には、出てくれますか?」
「勿論だ」
僕は、心から祝福を贈った。
「良かったですね、政臣さん!」
「ああ……何もかもお前のお陰だ、珠樹」
僕たちは微笑み合ってから、藤堂さんに頭を下げて、踵を返した。
「充樹の所へ行きましょう。あの子、泣いていました。早く吉報を知らせてあげたいです」
「ああ。どうせなら、同じ日に結婚しよう」
もう、南京錠は必要ない。皇城から座敷牢はなくなって、充樹が九十九代目当主、僕がその弟、来世はお腹様が生む僕の子が、皇城を受け継いでいくんだ。
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