「君とは契りを結ばない」と言った夫は、悲しい秘密を持っていた

山河 枝

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54 逃亡③

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 私の手から、ぽとりと帽子が落ちる。
 足が勝手に動いた。ナンシーの横をすり抜け、廊下を走る。

「奥様、お待ちください!」

 ナンシーがうしろから追いかけてくる。だけど、待っている余裕なんてない。階段を駆け下りて、玄関へ急ぐ。
 前庭を抜ける途中で、私は足を止めた。門の前に、ある人物が立ちはだかっている。

「ジェイク、どいて!」
「奥様、少々お待ちください」
「待てないわ! 早く、オスカーのところへ行かせて!」
「もちろんでございます。ただいま馬車を用意しておりますので、こちらでお待ちいただけますか?」
「あ……」

 急速に頭が冷えていく。冷静さが戻ってきた頭で、今朝のことを思い出す。

(そういえば朝食の時、「馬車を準備させている」って、ナンシーが言っていたような……)

 穏やかそのもののジェイクを前にして、馬鹿みたいに突っ立っていると、誰かに背中を叩かれた。
 振り返ると、ナンシーが息を切らせてふらついていた。

「ご、ごめんなさい、ナンシー!」
「い、いえ……このくらい、全然……ですが、旦那様と会われる時は、落ち着かれた方が、よろしいかと……」

 ナンシーから帽子を受け取ったり、彼女の汗をふいたり、2人でバタバタしていると、馬車が門の前へ止まった。
 乗り込んだ私とナンシーへ、ジェイクは言った。

「書類の準備は、ゆっくりと進めておきます」
「ありがとう。その間に、離婚の申し立てを撤回させてくるわ」

 オスカーだって、ちゃんと話せばわかってくれる。そう考えていた私の意気込みは、彼と会う前にくじかれてしまった。

「会えないって、どういうことです⁉︎」

 街の中心にある屋敷──オスカーの別宅前で、ナンシーは顔を真っ赤にして怒鳴った。
 ナンシーと同じ年頃の、すらりとしたメイドが、ドアをふさぐように玄関に立っている。ここの管理を任されているらしい彼女は、さっき私たちへ告げた言葉を、静かにくり返した。

「ですから旦那様は、奥様とはお会いなさらない、とのことです」
「そんな! 理由を教えなさい、理由を!」
「そうおっしゃられましても、それ以上のことは、うかがっておりませんので……」

 メイドは、困惑したように眉を寄せた。詳しい話は何も聞かされていないのだろう。

(だけど、ここまで来たんだもの。せめて何か、状況を打破できるものを見つけなくちゃ。離婚しようとする理由は教えてくれないだろうから……そうだ!)

 私はメイドに尋ねた。

「あのね、オスカーに聞いてほしいことがあるの」
「何でございましょう?」
「どうすれば、私との結婚生活を続けられるのかって。お願いできる?」
「かしこまりました」

 メイドはきれいな姿勢で頭を下げて、屋敷の中へ入っていった。
 ナンシーの頭から出ていた湯気が、ほどよく冷めた頃、すらりとしたメイドは玄関へ戻ってきた。
 
「オスカーは答えてくれた?」
「はい、あの……」

 メイドは、少し視線をさまよわせて、ためらいがちに答えた。

「『魔除けがいらなくなる日が来たら』とのことです」

 メイドとナンシーは「どういうことか」と言いたげに眉をひそめ、顔を見合わせている。
 その隣で、私は考え込んでいた。

(魔除けがいらなくなる、か……そもそも、魔除けは《オスカー》から逃げるために置いてたのよね、きっと)

 それなら、やることは1つだ。「《オスカー》はまだ傍にいる」という思い込みを、捨てさせればいい。

(だけど、どうしたらいいんだろう。というか、《オスカー》はたぶん、もうこの世にいないんじゃないかしら。それをオスカーに納得してもらえたら……)

 それにはまず、《オスカー》の死を確認しなくては。だけど、どうやって?

(あの家があった場所へ行って、確かめてるしかない)

 オスカーの生まれ故郷、アレンが辛い思いをしてきた、あの場所へ。
 だけど、それこそどうやって探せばいい? ジェイクでさえ詳しく知らなかったのに。

(……1つ、手がかりがある、かも)

 確実とはいえない。だけど、何か知っている可能性はゼロじゃない。
 だって、オスカーの義父の友人……の、元妻なんだから。オスカーがデズモンド・バートレットに引き取られる前から、バートレット家と繋がりがあるんだから。

「あのう、奥様?」

 ナンシーが心配そうに声をかけてきた。
 いつの間にか、すらりとしたメイドは姿を消していた。

「これ以上ここにいても、旦那様にお会いできそうもありません。一度、屋敷へ戻りましょう」
「ええ、そうね。会いたい人もいるし」
「え?」

 きょとんとするナンシーは、「会いたい人」の名前を聞いて、目を剥いた。

「ねえ、ナンシー。この間、オスカーが追い返してしまった女性──リースマンさんって、どちらにお住まいなのかしら」
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