「君とは契りを結ばない」と言った夫は、悲しい秘密を持っていた

山河 枝

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39 港

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 オスカーの屋敷から海までは遠い。日がのぼると同時に発ち、馬車を乗り継いで、ようやく目的地に着いた私は、数秒、その場から動けなかった。

(すごい……異国みたい)

 ごった返す人々の会話には、さまざまな言語が混じっている。潮の匂いが漂う中、麝香じゃこうや燻製の香りが、ときおり鼻先をかすめた。

 ナンシーについて歩いていくと、連なる倉庫の向こうに、ずらりと並ぶマストの先端が見えてきた。どれほど巨大な船なのだろう、と目を奪われていると。
 
「奥様、こちらです」

 隣を歩くナンシーが、私の肩を叩く。
 彼女が指す路地の奥に、赤レンガの建物が見えた。

「貿易商がよく使う宿だそうです」
「わかったわ、行きましょう」

 ナンシーのあとに続いて、細い路地に入る。もうすぐオスカーに会えると思うと、つい小走りになって、ナンシーのかかとを踏んでしまいそうになった。

 路地を抜けると、一気に視界が開けた。
 赤茶色の壁がそそり立つ。大きな宿の全貌ぜんぼうが現れる。

 玄関の扉から少しずれたところで、男性が数人集まっている。そのうちの1人、こちらへ背を向けた姿に、私は「あっ」と声を漏らした。
 
 白いシャツにベージュのズボン、革のブーツ──そして、何より目立つ真っ白な髪。

「オスカー!」

 ナンシーを追い越して、オスカーに駆け寄る。

 ほかの男性とともにこっちを向いたオスカーは、信じられない、と言いたげに目を見開いた。

「アリス⁉︎ なんで、ここに……」
「出発前に、どうしても、話がしたくて」

 荒い呼吸の合間に言うと、周囲の男性がドッと笑った。

「オスカー! お前、嫁さんにずいぶん愛されてるんだな」
「俺んとこのやつなんか、玄関先にすら見送りに来ないってのに」

 次々と飛んでくる冷やかしに、オスカーは眉をひそめた。それから私に向き直ると、

「忙しいんだ、帰りなさい」

 と、厳しい声で言った。

「ごめんなさい。でも、本当に少しだけ。1分だけ話をさせて。あのね──」
「話すことなんかない。いいから、早く帰るんだ」

 つっけんどんな言い方に、私は怯んで後ずさった。
 とん、と背中がやわらかいものに当たる。振り向くと、ナンシーが主人への文句をぶちまけてやろう、とばかりに腕まくりをしていた。

 が、ナンシーの口が開く前に、さっきオスカーを冷やかしたうちの1人が、私に近付いてきた。

「ひどい旦那だね。こんなやつ放っておいて、俺と街を歩かない?」
「い、いえ、結構です」

 男性から、こんなに馴れ馴れしく話しかけられたのは初めてだ。初対面ということもあって、目が泳いでしまう。
 すると、相手は急にニヤニヤと笑い始めた。

「かわいいなあ。まさに箱入りのお嬢様って感じ。君がアリスなんだよね」
「そう、ですけど……」
「俺はエリック。この間は、君のおかげで助かったんだ。お礼代わりに連絡先を教えとくから、寂しくなったら呼んでよ」
「えっと……?」
「オスカーのやつ、今日からしばらく帰ってこないだろ? 夜、君を慰める相手がいなくて、寂しいんじゃないかと思ってさ」
「……はい?」

 さらりと口にされた言葉の意味を、頭が理解する前に、誰かが私の腕を引っ張った。

「きゃっ!」

 驚いて相手を見ると、オスカーが私の腕をつかんでいた。
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