「君とは契りを結ばない」と言った夫は、悲しい秘密を持っていた

山河 枝

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24 侍女には敵わない

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 朝の光を燦々さんさんと浴びても、ナンシーの弾けるような笑顔を見ても、目が覚めてからずっと、頭が重い。

 対して、朝食は昨日よりも軽かった。
 あっさりしたトマト風味のスープと、ひと口大に切り分けられた甘酸っぱいプラム。
 何とかすべて食べ切ると、ナンシーがクリーム色のエンパイアドレスを着せてくれた。
 コルセットも、ドレスの胸下も、心なしか締めつけがゆるい。

 ありがたい、と思った。ひたすらアレンに申し訳なくて、そのことばかり気になってしまって、気分爽快とは言えなかったから。

「奥様、お顔の色がよろしくありませんわね」

 私の髪をとく手を止めて、ナンシーが言った。

「そうかしら?」

 と、とぼけてみたけれど、ナンシーがそう言うのも無理はない。鏡の中の私は、窓から差し込む朝日に包まれてなお、血色が悪かった。

「変な夢を見たせいかもしれないわ」

 強がって微笑んでみたものの、正面に映る自分は、「神にすら見放されてお先真っ暗」とでも言いたげだ。
 その力ない笑顔を、鏡の中のナンシーは、心配そうに見つめている。

「またですか? 2日続けて夢見が悪いなんて……お悩みごとでも?」

 彼女の目が、1人で寝るには大きすぎるベッドを睨む。私は慌てて首を振った。

「悩みなんてないわよ」
「ですが……」

 髪をとく作業を再開しながら、ナンシーはぶつぶつ言い始めた。

「旦那様は、昼も夜もお仕事部屋に入り浸りでしょう。いくらお忙しいと言ったって、越してこられたばかりの奥様を放っておくのは、いかがかと思います。貿易船の旅まであと3日。出発後しばらくは、ご夫婦で過ごせるお時間がありませんのに。奥様のご心痛、お察しいたしますわ……はあ」

 最後のため息には、私への同情と、オスカーへの怒りと不満、それからやるせなさ、もどかしさ……その他諸々が一緒くたに混じっていた。

(うーん、困ったわね)

 味方になってくれるのは嬉しいけれど、オスカーを敵視してほしいわけじゃない。

「ナンシー、ちょっと考えすぎよ」

 私は、できるだけ明るい声で言った。

「そうですか?」
「そうよ。急に環境が変わって、疲れてるだけだわ」

 私の言葉に、ナンシーは「ああ」と小さくうなずいた。

「それもそうですわね。その上、旦那様のお仕事までお手伝いなさって」
「そうそう」 
「それじゃ、今日はお手伝いをお休みしましょう」
「そうそう……え?」

 鏡の中をぽかんと見つめると、ハーフアップの自分と目が合った。そこから上へ視線をずらすと、にこやかなナンシーの顔。

「あの……だけど、今日もオスカーと約束を……」

 少しでもオスカーの役に立って、彼から好かれたいのに。
 そう思って抵抗してみたけれど、ナンシーには敵わない。

「まあ、そんなこと。旦那様ならわかってくださいますわ。今朝だって、執事のジェイク様が仰いましたもの。『奥様のお加減が優れなければ、お食事とお召し物を変えなさい』って」
「そうなの? ありがたいけど……それはジェイクの采配でしょう? オスカーは関係ないんじゃない?」

 私が首をひねると、ナンシーは、「大ありです」と鼻息荒く主張した。

「きっと旦那様が、ジェイク様に言付けなさったんですよ! 昨日、奥様とご一緒だったのは旦那様ですもの。ジェイク様が、奥様のご不調に気付けるはずありませんわ」

 「私も気付きませんでしたけど」と続けたナンシーは、肩を落とした。
 彼女を励まそうと、私は急いで「そうね」と声を張り上げた。

「体調が悪くなかったけど……昨日はたしかに少し疲れていたし、きっとオスカーが心配して、ジェイクに言っておいてくれたのね」
「そうですわ。旦那様は、奥様を大切に思っていらっしゃいますもの。ね?」
「……うん。それに、優しい人だわ」

 初めて彼に会った夜、ずっと背中をさすってくれたことを思い出した。自然と目線が上がって、鏡を見ると、照れくさそうに微笑む自分がいた。

「ですから、1日くらいお休みをくださいますよ」
「そうね……え?」

 椅子に座ったまま振り向くと、圧を含んだ笑顔で、ナンシーが私を見下ろしていた。

 言い返そう、という気は起きなかった。これ以上、ナンシーに抵抗しない方がいい。

 そんなことをしたら、ナンシーはオスカーに、「夜は奥様を放置するくせに、昼はあごで使うのですか!」とお説教をしに行きそうだ。
 そういうオーラが、すでにナンシーの体から立ちのぼっている。
 
 私は反論をのみ込んで、

「今日は、オスカーの手伝いを休むわ……」

 と、言うしかなかった。ただ、そうすると新たな問題が出てくる。

(オスカーに、どう話そう。どんなふうに『休む』って言えば、感じが悪くないかしら)

 ジェイクに伝言を頼むこともできる。だけどそうしたら、休んで申し訳なく思っていると、オスカーに伝わらないかもしれない。

(でも、どう言えば……)

 ぐるぐると悩みながら寝室を出て、廊下を歩く。オスカーの仕事部屋が、じりじりと近付いてくる。
 まだ、話の切り出し方すら思いつかないのに。そう考えると足が止まってしまった。

 だけどそうしなかったら、きっと私は、鼻をぶつけていたと思う。
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