「君とは契りを結ばない」と言った夫は、悲しい秘密を持っていた

山河 枝

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1 夫の想い人

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「アリス。僕は、君のほかに愛する人がいるんだ。だから、君とは夫婦の契りを結ぶつもりはない」

 結婚初夜、夫のオスカー・バートレットは、大きなベッドに腰かける私へ告げた。
 眉間にしわを刻み、深い海を閉じこめたような目で私を見下ろして。

 家族以外の男性と、初めての2人きり。しかも寝室で。息苦しいほどに緊張していた。
 それが、一瞬で消し飛んだ。

「え……え?」

 青天の霹靂へきれきに、ただ呆然とした。
 何か言わなくては。そう思うのに、上手く呼吸ができなくて、かすれた声しか出てこない。
 18の私よりも、7つ歳上のオスカー。彼のきっぱりとした物言いに、体がすくむ。

 だけど私は妻なんだから。このまま引き下がっては駄目だ。聞くべきことを聞かなくては。
 ネグリジェのスカートをぎゅうっと握りしめて、少しずつ空気を吸いながら、目の前に立つオスカーへ尋ねた。

「それは、愛人がいる……ということですか?」

 勇気を振り絞って、じっと彼を見上げる。
 けれど、オスカーは「いや」と言って、私の視線を避けるように窓の方を見た。燭台と逆を向いたせいで、彼の顔は黒々とした影に隠れてしまった。

「僕の想い人が──《彼女》が今、どこにいるかはわからないんだ」

 それを聞いてホッとしたのもつかの間、すぐに新たな疑問が湧く。

「そんなに好きな人がいるなら、どうして私と結婚したんですか」
「金目当ての貴族が、次から次へと縁談を持ち込んでくるのが、いい加減うっとうしくてさ」

 身を固めれば、貴族どもも大人しくなるだろう──そう考えたオスカーは、「令嬢の中で一番、悪だくみをしそうにない」私との結婚を決めたという。

 一体、私はどんなふうに見えているのだろうか。エドワード兄様は、

『アリスって寝起きの犬みたいだよな。茶色でふわふわの髪とか、いつもぽけっとした顔とか』

 と、よく頭をなでてきたけれど。
 考え込む私に、オスカーは話を続ける。私の顔を見ないまま。

「別に、僕が誰を好こうが構わないだろ? どうせ、君の目当ては義父の遺産なんだから」

 突き放すような声色に、私は言葉を詰まらせた。

 長年天涯孤独だった、豪商デズモンド・バートレット。
 貿易により財を成した彼の死後、莫大な遺産を継いだのは、養子のオスカーただ1人。

 オスカーの言う通り、私が彼へ近付いたのは、デズモンド氏の遺産が目当てだった。私の実家、ワイアット男爵家を救うため、どうしてもお金が必要だったから。

 だけど、彼との結婚を望んだのはお金のためじゃない。

「あなた自身を愛している人だっています」

 私です、と堂々と告げるのが照れくさくて、言葉をぼやかしてみる。

 すると、オスカーは黙り込んだ。何を考えているのか──目をこらしてみたけれど、彼の顔は影に隠れて、表情が読み取れない。
 ただ、手を寝間着のポケットに突っ込んで、中にあるものをしきりにいじっている。

 少しして気が済んだのか、彼は手を止めた。直後、影の中から、「フン」と嘲りの声がした。

「僕を愛してる人がいる、か。それ、本気で言ってる?」

 オスカーは私へ見せつけるように、少し長めの白髪はくはつをかき上げた。
 左側の耳や頬、口の端……紫色の火傷痕が広がっている。

「わざわざ、こんな顔の男を好む女性なんかいないだろ」

 そう言ったオスカーは、かき上げた髪を下ろした。
 そして、その中性的な顔を、ようやく私の方へ向けた。視線を足元に落としているので、目は合わないけれど。

 それにしても……やっと現れた表情は、ひどく憂鬱そうだ。まだ25だというのに、薄暗い部屋のせいで、老いた病人のように見えてしまう。

「とにかく」

 オスカーは、うんざりしたように息を吐き出した。

「伝統に従って、今夜だけは同じベッドで寝るけど、明日からは寝室を別にする」
「そんな、そこまでしなくても……」

 追いすがる私を、オスカーはまったく気に留めない。
 彼は、傍のテーブルに置かれた燭台へ顔を寄せ、口をすぼめて息を吹いた。

 サッと幕を下ろしたように、室内へ闇が満ちる。カーテンの隙間から漏れる月の光だけが、わずかな灯りとなった。

 オスカーは「おやすみ」とも言わずにベッドに潜り込み、私に背を向けてしまった。
 疲れていたのだろう、すぐに寝息が聞こえてきた。

(どうしよう……)

 悩んでみたものの、こうなってしまったら、私も眠るしかない。

 仕方なく、オスカーの隣へ身を横たえる。ジクジクと膿むような、みじめな気持ちを抱えて。
 厚い布団をかぶっているのに、胸の奥は凍るように冷たかった。

(オスカー、どうしてなの)

 背中合わせで眠る夫に、心で語りかける。

(あなたは私を助けてくれたじゃない)

 そして、私は彼に恋をした。そのことに勘付いたエドワード兄様が、気を回して「上の妹アリスの結婚相手を探している」とオスカーに言った。
 それだけで、オスカーは私に求婚してくれた。

(そんなあなたが、どうして)

 彼となら、儚い夢だと諦めていた、幸せな家庭を築いていける。
 そう思い、心を浮き立たせていたのに、「どうせ金目当て」と決めつけられていたなんて。
 それなら、手酷く振ってくれた方がマシだった。

 悲しみが、ありもしない出口を探して、ぐるぐると体の中を駆けめぐる。

 文句の1つでも投げつけていれば、少しは胸がすいたかもしれない。けれど、そんなことをする資格は、私にはない。

 今は亡き両親が、12歳の私へ告げた言葉。未来への希望を、粉々に打ち砕いた言葉。
 それらはまだ、耳の奥にこびりついている。
 
『アリス、お前は社交の場に出さない』
『あなたのドレスを買う余裕がないのよ』
『結婚も無理だな』
『エドワードの結納金を用意したら、あとは1人分の持参金で手一杯なの』
『だから、ローラに譲ってあげなさい。あの子の方が綺麗だし、世渡りも上手いし。きっといいご縁があるだろう』
『それにアリスは性格が暗いもの。ローラとどっちがいいかなんて、どの令息も答えは決まりきってるわ』
『そうだよ。どうせアリスは誰からも望まれないよ』

 反論はできなかった。
 2つ歳下の妹ローラは、ぱっちりした目に金の巻き毛。いつも優雅に振る舞い、自然と他人の顔色を読む、完璧な貴族令嬢だったから。

 それからも、事あるごとに妹と比較する両親を恨んだ。けれどある時、真顔のローラが、

『私、大金持ちの男性と結婚したいわ。それなら持参金は、お相手が出してくれるもの。でもそれだけじゃ駄目。お兄様か弟さんのいる人がいい。姉妹そろってお嫁に行くのよ! そうしたら困り事があっても、アリス姉様に相談しやすいでしょ?』

 と、力説するものだから、恨みも嫉妬も何もかも、雲散霧消した。

 ローラは私の劣等感を察して、気を遣ってくれたのだ。姉としてのプライドを守ろうとしてくれた。
 それはつまり、両親や兄が、妹の前で私をおとしめなかったということ。

 家族は、私を嫌ってはいなかった。

 証拠もある。真鍮しんちゅうの懐中時計だ。4年前、エドワード兄様が買ってくれたもの。
 兄様はローラと相談しながら、忙しい日々の中で時計を選んでくれた。コツコツと貯めたお金のほとんどを使ってくれた。

『実はね。懐中時計を買ったこと、父様たちにばれちゃったの。でも、家計に響かないならいいだろうって見逃してくれたのよ』

 あとで、ローラがこっそり教えてくれた。
 
 それで充分だ。みんなのお荷物でしかない私には、新品のドレスなんてもったいない。専属の侍女も家庭教師も、いなくて当たり前。

 今回も同じこと。オスカーと幸せな家庭を築きたいだなんて、私には大それた願いだったのだ。
 結婚できただけで満足するべきだった……。

(……ああ、もう。いろいろ考えてたら目が冴えちゃった)

 おまけに、ずっと同じ体勢でいるので体が痛くなってきた。
 広いベッドだから、と遠慮なく寝返りを打つと──。

「ん?」

 つい、声が漏れた。慌てて息を殺し、オスカーの様子をうかがう。細い背中は、規則正しく上下している。
 
 胸をなで下ろし、音を立てないよう、そうっとベッドの上を探る。さっき寝返りを打った先に、固いものがあったのだ。
 探し当てたそれを手に取って、カーテンの隙間から漏れる月明かりにさらし、目をこらす。

(何? これ……って、ええっ⁉︎)

 手にしたものの正体に、私は叫び声を上げそうになった。
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