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王太子選定の儀・一騎打ち
102 御前試合まで残り三日
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その日も、水奈は部屋の中央で正座をして、丸い小窓から外をぼんやり眺めていた。
小窓から見える景色は、雨で視界がさえぎられて、その上木々が茂っているため、興味を引くものは何もない。
それでも、書物の一冊すらない状況では、窓の外を見ているしかなかった。
書物くらいなら、頼めば手配してくれるのかもしれないが、どんな対価を要求されるかわからない。できるだけ、蒼玉に借りを作りたくなかった。
畳の上で身じろぎもせず、絶え間ない雨音を聞いていると、ひとりでに記憶がよみがえってくる。
(そういえば子どもの頃にも、こんなふうに外を見ていたことがあったっけ)
まだ、母の言葉をすべて信じていた頃だ。
『水奈のお父様は、遠いところにいらっしゃるのよ。でも、いつも私たちを見守ってくださっているの。水奈が、苦しいことや悲しいことに耐えて生きていれば、いつか会えるわ』
あの言葉は、水奈をなだめるための嘘だったのかもしれない。大人になってからはそう思っていた。
しかし、水奈の父親が銀龍だとしたら、前半は真実なのだろう。
父は天の国にいて、いつも自分を見ているのかもしれない。
(じゃあ、残りの半分は? 『いつか会える』という言葉は、父様が私を迎えに来る、という意味なの?)
それなら、タカに聞いた話は、いつか水奈の身に訪れる出来事なのか。
(銀龍様が『〈銀龍の愛し子〉を迎えに来られた時は、早急に天の国へ送ること』……)
なぜ、急がなくてはならないのだろう。そもそも、迎えを拒むことはできないのか。
考えるごとに心細くなり、水奈は別のことに意識を向けた。
(今日は静かだけど……最近ずっと、周りが騒がしかったわね)
原因は知っている。先日、外の見張りがブツブツと言い合っていた。
雪晴王子の手の者が、この近辺をうろつき、「水奈」「どこだ」と呼び回っていると。
『面倒だよな、わざわざ麓に下りて追い払わなくちゃならん。城の下女や低位の兵士だから、まだやりやすいが……人手が足りないのに参ったよ』
『まあ、じきに楽になるさ。滝森様が兵士を貸してくださっただろ。ここの見張りも担当してくれるらしいぞ』
おそらく、雪晴たちは水奈がこの山にいると突き止めたのだ。そして、手当たり次第に捜索しているのだろう。
(だからって、私の名前を呼んで回るなんて危険だわ。兵士が剣を抜くかもしれない。それとも、兵士を麓に下ろすためにやってるのかしら)
見張りがいなくなっても、水奈は逃げられないのだが。そんなことをぼんやり考えていると、トン、と近くで乾いた音がした。
水奈が目をやると、丸めた紙が小窓の下に落ちている。
ところどころ茶色い染みが──いや、文字のようだ。何か書いてあるのだろうか。
膝をにじって紙に近付き、丸まったそれを広げてみる。
かなり小さくて薄い字だが、思った通り文章が書いてある。その内容を理解した時、錆びかけていた水奈の頭へ、驚きが電流のように走った。
──水奈殿へ。あなたを救出する準備を進めている。賊の襲撃を装うので、水奈殿は無理矢理さらわれるように振る舞ってくれ。そうすれば、あなたが自分から逃げたことにはならず、洗濯女に害は及ばない。時がくれば、栗竹という兵士が声をかける。それまで待機してくれ。樹──
(樹様がこの場所へ……? いえ、そんなはずないわ)
蒼玉の兵は精鋭揃いだ。数こそ雪晴の味方より少ないが、総力で競えば互角以上だろう。
だから、雪晴陣営の人間がここへ殴り込みに来るとは思えない。かといって、こっそり忍び込むのも無理だ。
ましてや、水奈の部屋に物を投げ入れるなど不可能である。
では、この紙はなぜここにあるのか。
(まさか……見張りの中に、雪晴殿下の味方がいる、ということ?)
滝森という人物が、蒼玉に兵士を貸したらしい。その中に、雪晴の息がかかった者がいるのだろうか。
水奈は、再び紙に目を落とした。「樹」という名前の横に、「読んだらすぐ水に浸してください」とある。
水奈は、ひそかに雨水を室内へ呼び込み、水の球を作った。
そこへ紙をスッと差し込むと、茶色の文字がじわじわ消えていく。
まっさらな紙片に戻ったところで、水奈は水の球ごと紙を外へ流した。これで、見張りの誰かが紙を落としたのかと思ってくれるだろう。
一日三度、蒼玉の侍女の桂がこの部屋を訪れ、異常がないか目を光らせる。たとえ一片でも、紙が落ちていれば怪しまれてしまう。
水奈は、念のため部屋を見回し、元通りになったのを確かめると、さっきと同じように部屋の真ん中で正座をした。
(たしか、今日は金剛月の二十四日。御前試合まであと三日……)
もう、三日しかない。雪晴は蒼玉に勝てるだろうか。
(銀龍様、どうか雪晴殿下をお守りください)
神託は、雪晴に苦痛をも与える。だから控えようと思いつつも、日に何度も祈ってしまう。
気を紛らわせたくても、今の水奈にその術はない。
頭を空にしようとしても、雪晴の温もりが恋しくて、いつの間にか彼のことを考えている。
(殿下……早くお会いしたい)
その願いを、銀龍が聞き届けたのか。同じ頃、雪晴は神託を視ていた。
その内容は、雪晴と彼に与する人々を、絶望させるのに十分だった。
*
「『御前試合の会場へ水奈を呼べ』ですって⁉︎」
雪晴の自室に集まった四人のうち、タカが裏返った声で叫んだ。
「それだけじゃない。『できなければすべてが終わる』というおまけ付きだ」
雪晴がため息をつくと、タカの顔が青ざめる。
「そんな……賊が水奈をさらったと思わせるため、一旦別の場所へ隠す予定だったのに。そこから蒼玉殿下にばれずに試合会場へ連れていくのは、至難の業ですよ!」
「蒼玉殿下は、そこらじゅうに目となる者を潜ませておられますからね」
うなずいたのは滝森だ。
「さらった娘を連れた賊が、御前試合を見に行くのは不自然ですし。まして水奈殿が自分で歩いていくなど、言語道断です」
「すぐさま蒼玉兄上の耳に入るな……」
「ええ。洗濯女たちは即座に殺されるでしょう。下女を斬る理由など、あとからいくらでも作れますし」
「困りましたね、作戦が決まったところだったのに……どうしてこうなってしまうのかしら」
雪晴とタカ。樹に滝森。朝から、四人で水奈救出作戦の打ち合わせをしていたのだが、雪晴が視た神託のおかげですべて練り直しになってしまった。
「ああ、銀龍様……なぜこのような無理難題を私たちに押し付けるのですか……」
「タカですらそう思うのか」
雪晴が目を丸くすると、タカがジロリと雪晴を睨む。
樹がそれをなだめたものの、続く言葉はなく、タカとともにうつむいてしまった。
四人が揃って黙り込む。しかしふと、タカが手を打って叫んだ。
「そうだわ! 洗濯女たちを事前に保護すればいいじゃないですか」
目を輝かせるタカに、樹が沈んだ声で答える。
「しようとしましたが……全員にすごまれて、追い返されましたよ。『本当かどうかわからない話に乗れない、せっかく給金が上がったんだから働かせろ』と」
樹のため息に続いて、雪晴が「それに」と言う。
「洗濯女たちをごっそりどこかへ連れて行こうものなら、水奈を今から救出するぞと宣言するようなものだ。見張りを警戒させてしまう」
「で、では、王妃殿下に守っていただくことはできませんか? 洗濯場の警備を増やすとか」
タカの問いに、今度は滝森が眉を寄せる。
「洗濯場は外壁に近い、警備を増やすべきではないか──と、それとなくお伝えしましたが、『お城にはたくさん見張りがいるし、今まで何もなかったから大丈夫よ』とのことでした」
「……そうですか。あの方は、良くも悪くも……」
「頭の花が満開ですね」
タカは濁したが、滝森ははっきり言ってしまった。
「滝森殿……」
「雪晴殿下、どうなさいましたか? 殿下も、王妃殿下に頼るのはご不安ですか? そうでしょうね。蒼玉殿下の兵が洗濯場を襲っても、『あら大変だわ、どうしましょう』とおっしゃって、その間に洗濯女の首が三つは飛ぶでしょうから」
全員、その光景を容易に想像できてしまったのか、何とも言えない空気が漂った。
話題を変えようにも、新たな作戦が思いつかず、誰も発言しようとしない。
が、一人だけ、重そうではあるが口を開く者がいた。
「一時だけ……ほんの一時ですが」
雪晴とタカ、樹の目が滝森を見る。
「水奈殿が逃亡しても、蒼玉殿下に知られない時間があります」
小窓から見える景色は、雨で視界がさえぎられて、その上木々が茂っているため、興味を引くものは何もない。
それでも、書物の一冊すらない状況では、窓の外を見ているしかなかった。
書物くらいなら、頼めば手配してくれるのかもしれないが、どんな対価を要求されるかわからない。できるだけ、蒼玉に借りを作りたくなかった。
畳の上で身じろぎもせず、絶え間ない雨音を聞いていると、ひとりでに記憶がよみがえってくる。
(そういえば子どもの頃にも、こんなふうに外を見ていたことがあったっけ)
まだ、母の言葉をすべて信じていた頃だ。
『水奈のお父様は、遠いところにいらっしゃるのよ。でも、いつも私たちを見守ってくださっているの。水奈が、苦しいことや悲しいことに耐えて生きていれば、いつか会えるわ』
あの言葉は、水奈をなだめるための嘘だったのかもしれない。大人になってからはそう思っていた。
しかし、水奈の父親が銀龍だとしたら、前半は真実なのだろう。
父は天の国にいて、いつも自分を見ているのかもしれない。
(じゃあ、残りの半分は? 『いつか会える』という言葉は、父様が私を迎えに来る、という意味なの?)
それなら、タカに聞いた話は、いつか水奈の身に訪れる出来事なのか。
(銀龍様が『〈銀龍の愛し子〉を迎えに来られた時は、早急に天の国へ送ること』……)
なぜ、急がなくてはならないのだろう。そもそも、迎えを拒むことはできないのか。
考えるごとに心細くなり、水奈は別のことに意識を向けた。
(今日は静かだけど……最近ずっと、周りが騒がしかったわね)
原因は知っている。先日、外の見張りがブツブツと言い合っていた。
雪晴王子の手の者が、この近辺をうろつき、「水奈」「どこだ」と呼び回っていると。
『面倒だよな、わざわざ麓に下りて追い払わなくちゃならん。城の下女や低位の兵士だから、まだやりやすいが……人手が足りないのに参ったよ』
『まあ、じきに楽になるさ。滝森様が兵士を貸してくださっただろ。ここの見張りも担当してくれるらしいぞ』
おそらく、雪晴たちは水奈がこの山にいると突き止めたのだ。そして、手当たり次第に捜索しているのだろう。
(だからって、私の名前を呼んで回るなんて危険だわ。兵士が剣を抜くかもしれない。それとも、兵士を麓に下ろすためにやってるのかしら)
見張りがいなくなっても、水奈は逃げられないのだが。そんなことをぼんやり考えていると、トン、と近くで乾いた音がした。
水奈が目をやると、丸めた紙が小窓の下に落ちている。
ところどころ茶色い染みが──いや、文字のようだ。何か書いてあるのだろうか。
膝をにじって紙に近付き、丸まったそれを広げてみる。
かなり小さくて薄い字だが、思った通り文章が書いてある。その内容を理解した時、錆びかけていた水奈の頭へ、驚きが電流のように走った。
──水奈殿へ。あなたを救出する準備を進めている。賊の襲撃を装うので、水奈殿は無理矢理さらわれるように振る舞ってくれ。そうすれば、あなたが自分から逃げたことにはならず、洗濯女に害は及ばない。時がくれば、栗竹という兵士が声をかける。それまで待機してくれ。樹──
(樹様がこの場所へ……? いえ、そんなはずないわ)
蒼玉の兵は精鋭揃いだ。数こそ雪晴の味方より少ないが、総力で競えば互角以上だろう。
だから、雪晴陣営の人間がここへ殴り込みに来るとは思えない。かといって、こっそり忍び込むのも無理だ。
ましてや、水奈の部屋に物を投げ入れるなど不可能である。
では、この紙はなぜここにあるのか。
(まさか……見張りの中に、雪晴殿下の味方がいる、ということ?)
滝森という人物が、蒼玉に兵士を貸したらしい。その中に、雪晴の息がかかった者がいるのだろうか。
水奈は、再び紙に目を落とした。「樹」という名前の横に、「読んだらすぐ水に浸してください」とある。
水奈は、ひそかに雨水を室内へ呼び込み、水の球を作った。
そこへ紙をスッと差し込むと、茶色の文字がじわじわ消えていく。
まっさらな紙片に戻ったところで、水奈は水の球ごと紙を外へ流した。これで、見張りの誰かが紙を落としたのかと思ってくれるだろう。
一日三度、蒼玉の侍女の桂がこの部屋を訪れ、異常がないか目を光らせる。たとえ一片でも、紙が落ちていれば怪しまれてしまう。
水奈は、念のため部屋を見回し、元通りになったのを確かめると、さっきと同じように部屋の真ん中で正座をした。
(たしか、今日は金剛月の二十四日。御前試合まであと三日……)
もう、三日しかない。雪晴は蒼玉に勝てるだろうか。
(銀龍様、どうか雪晴殿下をお守りください)
神託は、雪晴に苦痛をも与える。だから控えようと思いつつも、日に何度も祈ってしまう。
気を紛らわせたくても、今の水奈にその術はない。
頭を空にしようとしても、雪晴の温もりが恋しくて、いつの間にか彼のことを考えている。
(殿下……早くお会いしたい)
その願いを、銀龍が聞き届けたのか。同じ頃、雪晴は神託を視ていた。
その内容は、雪晴と彼に与する人々を、絶望させるのに十分だった。
*
「『御前試合の会場へ水奈を呼べ』ですって⁉︎」
雪晴の自室に集まった四人のうち、タカが裏返った声で叫んだ。
「それだけじゃない。『できなければすべてが終わる』というおまけ付きだ」
雪晴がため息をつくと、タカの顔が青ざめる。
「そんな……賊が水奈をさらったと思わせるため、一旦別の場所へ隠す予定だったのに。そこから蒼玉殿下にばれずに試合会場へ連れていくのは、至難の業ですよ!」
「蒼玉殿下は、そこらじゅうに目となる者を潜ませておられますからね」
うなずいたのは滝森だ。
「さらった娘を連れた賊が、御前試合を見に行くのは不自然ですし。まして水奈殿が自分で歩いていくなど、言語道断です」
「すぐさま蒼玉兄上の耳に入るな……」
「ええ。洗濯女たちは即座に殺されるでしょう。下女を斬る理由など、あとからいくらでも作れますし」
「困りましたね、作戦が決まったところだったのに……どうしてこうなってしまうのかしら」
雪晴とタカ。樹に滝森。朝から、四人で水奈救出作戦の打ち合わせをしていたのだが、雪晴が視た神託のおかげですべて練り直しになってしまった。
「ああ、銀龍様……なぜこのような無理難題を私たちに押し付けるのですか……」
「タカですらそう思うのか」
雪晴が目を丸くすると、タカがジロリと雪晴を睨む。
樹がそれをなだめたものの、続く言葉はなく、タカとともにうつむいてしまった。
四人が揃って黙り込む。しかしふと、タカが手を打って叫んだ。
「そうだわ! 洗濯女たちを事前に保護すればいいじゃないですか」
目を輝かせるタカに、樹が沈んだ声で答える。
「しようとしましたが……全員にすごまれて、追い返されましたよ。『本当かどうかわからない話に乗れない、せっかく給金が上がったんだから働かせろ』と」
樹のため息に続いて、雪晴が「それに」と言う。
「洗濯女たちをごっそりどこかへ連れて行こうものなら、水奈を今から救出するぞと宣言するようなものだ。見張りを警戒させてしまう」
「で、では、王妃殿下に守っていただくことはできませんか? 洗濯場の警備を増やすとか」
タカの問いに、今度は滝森が眉を寄せる。
「洗濯場は外壁に近い、警備を増やすべきではないか──と、それとなくお伝えしましたが、『お城にはたくさん見張りがいるし、今まで何もなかったから大丈夫よ』とのことでした」
「……そうですか。あの方は、良くも悪くも……」
「頭の花が満開ですね」
タカは濁したが、滝森ははっきり言ってしまった。
「滝森殿……」
「雪晴殿下、どうなさいましたか? 殿下も、王妃殿下に頼るのはご不安ですか? そうでしょうね。蒼玉殿下の兵が洗濯場を襲っても、『あら大変だわ、どうしましょう』とおっしゃって、その間に洗濯女の首が三つは飛ぶでしょうから」
全員、その光景を容易に想像できてしまったのか、何とも言えない空気が漂った。
話題を変えようにも、新たな作戦が思いつかず、誰も発言しようとしない。
が、一人だけ、重そうではあるが口を開く者がいた。
「一時だけ……ほんの一時ですが」
雪晴とタカ、樹の目が滝森を見る。
「水奈殿が逃亡しても、蒼玉殿下に知られない時間があります」
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