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雪晴の覚醒
70 蒼玉の誘い
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*
「……お前は、水奈だったか」
男の声が聞こえて、水奈は目を開けた。
重だるい頭を上げると、まず自分の膝が見えた。握り飯を食べたあと、うずくまったまま眠ってしまったらしい。
固まった腕や脚をさすりながら、寝ぼけ眼で周りを見回すと、また声をかけられた。
「悪臭で脳が腐ったのか? 早く答えろ。お前の名は水奈だな?」
「は、はい」
冷たい声色に怯んだ水奈は、とっさにうなずいた。ようやく冴えてきた目で、声の主を見る。
牢の外にいる人物は、袍を着ていた。暗くてわかりにくいが、深い青の地に流水紋が描かれているようだ。
(あの生地を身につけているということは……最高位以上の貴族様? それとも、王族の方?)
王族だとしても、国王ではない。声が若すぎる。そして、この話し方は湖宇でもない。ということは。
「……!」
相手の顔を見て取った水奈は、尻をついたまま後ろへ下がった。
恐ろしいほど冷たい目で、蒼玉が水奈を見下ろしていた。
「蒼玉、殿下? どうしてここに……」
「時間がない、前置きは無しだ。お前と交渉しに来た」
「交渉? それに、時間がないというのは……」
「お前の処刑日が、明日に決まった」
「え……」
水奈の頭が真っ白になる。
明日、自分は、死ぬ。
甲高い耳鳴りが、頭の奥でふくらむ。全身が冷たくなっていく。
耳鳴りに紛れて、蒼玉の声が聞こえてくる。
「お前が牢にいると知った神官どもが、怒り狂って城に押し寄せてきた。愚弟は、ますます頑なに『魚女を処刑する』と言うし。弱った父上が、処刑日を早めたんだ」
蒼玉は、震える水奈を見下ろし、どことなく楽しげに続けた。
「死にたくないか」
「……はい」
「なら、助けてやる」
「えっ?」
水奈は跳ねるように顔を上げた。蒼玉は、牢に顔を近付けてささやいた。
「その代わり、俺に力を与えろ。〈銀龍の愛し子〉」
「なっ……」
水奈は目を見開いた。蒼玉は知っていたのか。〈銀龍の愛し子〉のことを。
それなら、なぜ水奈を助けようとするのだろう。
水奈は、ごくりと喉を鳴らして尋ねた。
「王家にとって、〈銀龍の愛し子〉は、禁忌ではないのですか?」
「ほう、それを知っていたか。だから力を隠していたのだな」
蒼玉はあごをなでながら呟き、また水奈を見た。
「では、話が早い。俺を王にしろ。〈銀龍の瞳〉の力を高め、より多くの神託を俺に視せてくれ。約束するなら、ここから出る手伝いをしてやる。そのあとは、俺が所有する屋敷に匿ってやろう」
「い、いきなりそうおっしゃられても……」
「考える時間があると思っているのか?」
蒼玉は見下すように笑い、話を続ける。
「決断するなら今しかないぞ。地上で見張りに立っているのは俺の兵だが、じきに交代の時間だ。そうなれば、お前を連れ出せなくなる」
水奈は、ぐっと言葉に詰まった。
確実に助かるためには、彼の話に乗ることが最善なのだろう。しかし、ただ助かるだけでは駄目なのだ。
「あの……ここを出していただいたあと、雪晴殿下にお会いできますか?」
「雪晴に? 馬鹿か、会えるわけがないだろう。お前が外をうろつけば、即座に捕まる。牢を出たらすぐ俺の屋敷へ向かい、一生そこで過ごしてもらう」
「……では、蒼玉殿下が王におなりあそばしたら、雪晴殿下をお助けくださいますか?」
「は? なぜ、俺がそんなことを」
蒼玉は、いら立ったように言った。
「俺が王になれたら、湖宇と雪晴はすぐに殺す。あいつらを旗印に、貴族や神官が謀反を考える可能性があるからな」
「そ、そんな……」
水奈は、足元が崩れていくような心地だった。自分が助かれば、雪晴は死ぬ。
どうすべきか──しかしその問いに水奈は、一瞬も迷わず答えを出した。
「では、私はここから出ません」
「何だと?」
蒼玉が眉を寄せる。断られるとは思わなかったのだろう。こめかみに青筋が立っている。
水奈は思わず身震いをしたが、心を奮い立たせて言い返した。
「わ、私は、雪晴殿下の侍女です。殿下に背く真似はできません」
「……責任感の強いことだな。命よりも信念が大切か?」
「責任感も信念も、関係ありません。雪晴殿下が大切なだけです……私の命よりも」
水奈は、まっすぐに蒼玉を見すえた。その視線を、蒼玉は不愉快そうに受け止めていたが、唐突にサッと踵を返すと、吐き捨てるように言った。
「なら、雪晴ともども死んでしまえ。いくら力があっても、思い通りにならない者は邪魔なだけだ……行くぞ、桂」
蒼玉が、暗がりに声をかける。誰に話しかけたのか、と水奈は怪訝に思い、壁際の暗がりに目を向けた。
(えっ⁉︎)
暗がりの一部が動き、蒼玉のあとに続いた。水奈は息をのみ、目を凝らした。
暗がりの中を、女性が歩いている。紺の着物の上には、鶴が舞う黒い羽織。
彼女は足音をほとんど立てず、蒼玉とともに去っていった。
(蒼玉殿下の侍女様かしら……)
湖宇の侍女、椿とはずいぶん雰囲気が違う。
暗い中でも、桂という侍女の立ち振る舞いには隙がない。冷徹な蒼玉によく似ていた。
蒼玉たちが階段を上っていく。かすかな足音が消え、静寂が降りる。
地下牢の奥から、囚人のブツブツと言う声や、何に向けているのかわからない笑い声が、じっとりとした空気に混じって漂ってくる。
水奈は急に不安になって、再び膝をかかえ、顔を伏せた。
別のことを考えて気を紛らわせようと、母やカリンたちの姿を思い浮かべたが、それらはすぐに雪晴の微笑みに置き換わってしまう。
(殿下……私は、あなたにふさわしい侍女でしたか)
水奈は、雪晴と過ごした日々がよみがえるに任せた。
幸福ばかりだったはずなのに、後悔しか湧いてこない。もっとできることがあったのではないか、と考えてしまう。
(そういえば、殿下に謝れなかったな……)
雪晴に鱗を見られて、疎まれたら──怯えた水奈は、彼を避けた。避けたまま、別れてしまった。
雪晴は許してくれたが、傷つかないわけがない。だから、少しずつでも恐怖を克服し、以前と同じような関係に戻りたいと思っていたのに。
もう、叶わなくなってしまった。
荒樫も戻ってこない。水奈は、諦めてしまっていた。
(神殿との繋がりを作れたことが、せめてもの償いになるかしら)
蒼玉は「王になれば雪晴を殺す」と言っていたが、神殿が守ってくれるなら、助かるのでは──。
そこまで考えた水奈は、バッと顔を上げた。ドキン、ドキンと心臓が騒いでいる。
さっき蒼玉の言ったことが、頭の中で響いている。
『雪晴ともども死んでしまえ』
自分は、なんて馬鹿なんだろう。こんなに重大な問題を忘れていたなんて。
「……お前は、水奈だったか」
男の声が聞こえて、水奈は目を開けた。
重だるい頭を上げると、まず自分の膝が見えた。握り飯を食べたあと、うずくまったまま眠ってしまったらしい。
固まった腕や脚をさすりながら、寝ぼけ眼で周りを見回すと、また声をかけられた。
「悪臭で脳が腐ったのか? 早く答えろ。お前の名は水奈だな?」
「は、はい」
冷たい声色に怯んだ水奈は、とっさにうなずいた。ようやく冴えてきた目で、声の主を見る。
牢の外にいる人物は、袍を着ていた。暗くてわかりにくいが、深い青の地に流水紋が描かれているようだ。
(あの生地を身につけているということは……最高位以上の貴族様? それとも、王族の方?)
王族だとしても、国王ではない。声が若すぎる。そして、この話し方は湖宇でもない。ということは。
「……!」
相手の顔を見て取った水奈は、尻をついたまま後ろへ下がった。
恐ろしいほど冷たい目で、蒼玉が水奈を見下ろしていた。
「蒼玉、殿下? どうしてここに……」
「時間がない、前置きは無しだ。お前と交渉しに来た」
「交渉? それに、時間がないというのは……」
「お前の処刑日が、明日に決まった」
「え……」
水奈の頭が真っ白になる。
明日、自分は、死ぬ。
甲高い耳鳴りが、頭の奥でふくらむ。全身が冷たくなっていく。
耳鳴りに紛れて、蒼玉の声が聞こえてくる。
「お前が牢にいると知った神官どもが、怒り狂って城に押し寄せてきた。愚弟は、ますます頑なに『魚女を処刑する』と言うし。弱った父上が、処刑日を早めたんだ」
蒼玉は、震える水奈を見下ろし、どことなく楽しげに続けた。
「死にたくないか」
「……はい」
「なら、助けてやる」
「えっ?」
水奈は跳ねるように顔を上げた。蒼玉は、牢に顔を近付けてささやいた。
「その代わり、俺に力を与えろ。〈銀龍の愛し子〉」
「なっ……」
水奈は目を見開いた。蒼玉は知っていたのか。〈銀龍の愛し子〉のことを。
それなら、なぜ水奈を助けようとするのだろう。
水奈は、ごくりと喉を鳴らして尋ねた。
「王家にとって、〈銀龍の愛し子〉は、禁忌ではないのですか?」
「ほう、それを知っていたか。だから力を隠していたのだな」
蒼玉はあごをなでながら呟き、また水奈を見た。
「では、話が早い。俺を王にしろ。〈銀龍の瞳〉の力を高め、より多くの神託を俺に視せてくれ。約束するなら、ここから出る手伝いをしてやる。そのあとは、俺が所有する屋敷に匿ってやろう」
「い、いきなりそうおっしゃられても……」
「考える時間があると思っているのか?」
蒼玉は見下すように笑い、話を続ける。
「決断するなら今しかないぞ。地上で見張りに立っているのは俺の兵だが、じきに交代の時間だ。そうなれば、お前を連れ出せなくなる」
水奈は、ぐっと言葉に詰まった。
確実に助かるためには、彼の話に乗ることが最善なのだろう。しかし、ただ助かるだけでは駄目なのだ。
「あの……ここを出していただいたあと、雪晴殿下にお会いできますか?」
「雪晴に? 馬鹿か、会えるわけがないだろう。お前が外をうろつけば、即座に捕まる。牢を出たらすぐ俺の屋敷へ向かい、一生そこで過ごしてもらう」
「……では、蒼玉殿下が王におなりあそばしたら、雪晴殿下をお助けくださいますか?」
「は? なぜ、俺がそんなことを」
蒼玉は、いら立ったように言った。
「俺が王になれたら、湖宇と雪晴はすぐに殺す。あいつらを旗印に、貴族や神官が謀反を考える可能性があるからな」
「そ、そんな……」
水奈は、足元が崩れていくような心地だった。自分が助かれば、雪晴は死ぬ。
どうすべきか──しかしその問いに水奈は、一瞬も迷わず答えを出した。
「では、私はここから出ません」
「何だと?」
蒼玉が眉を寄せる。断られるとは思わなかったのだろう。こめかみに青筋が立っている。
水奈は思わず身震いをしたが、心を奮い立たせて言い返した。
「わ、私は、雪晴殿下の侍女です。殿下に背く真似はできません」
「……責任感の強いことだな。命よりも信念が大切か?」
「責任感も信念も、関係ありません。雪晴殿下が大切なだけです……私の命よりも」
水奈は、まっすぐに蒼玉を見すえた。その視線を、蒼玉は不愉快そうに受け止めていたが、唐突にサッと踵を返すと、吐き捨てるように言った。
「なら、雪晴ともども死んでしまえ。いくら力があっても、思い通りにならない者は邪魔なだけだ……行くぞ、桂」
蒼玉が、暗がりに声をかける。誰に話しかけたのか、と水奈は怪訝に思い、壁際の暗がりに目を向けた。
(えっ⁉︎)
暗がりの一部が動き、蒼玉のあとに続いた。水奈は息をのみ、目を凝らした。
暗がりの中を、女性が歩いている。紺の着物の上には、鶴が舞う黒い羽織。
彼女は足音をほとんど立てず、蒼玉とともに去っていった。
(蒼玉殿下の侍女様かしら……)
湖宇の侍女、椿とはずいぶん雰囲気が違う。
暗い中でも、桂という侍女の立ち振る舞いには隙がない。冷徹な蒼玉によく似ていた。
蒼玉たちが階段を上っていく。かすかな足音が消え、静寂が降りる。
地下牢の奥から、囚人のブツブツと言う声や、何に向けているのかわからない笑い声が、じっとりとした空気に混じって漂ってくる。
水奈は急に不安になって、再び膝をかかえ、顔を伏せた。
別のことを考えて気を紛らわせようと、母やカリンたちの姿を思い浮かべたが、それらはすぐに雪晴の微笑みに置き換わってしまう。
(殿下……私は、あなたにふさわしい侍女でしたか)
水奈は、雪晴と過ごした日々がよみがえるに任せた。
幸福ばかりだったはずなのに、後悔しか湧いてこない。もっとできることがあったのではないか、と考えてしまう。
(そういえば、殿下に謝れなかったな……)
雪晴に鱗を見られて、疎まれたら──怯えた水奈は、彼を避けた。避けたまま、別れてしまった。
雪晴は許してくれたが、傷つかないわけがない。だから、少しずつでも恐怖を克服し、以前と同じような関係に戻りたいと思っていたのに。
もう、叶わなくなってしまった。
荒樫も戻ってこない。水奈は、諦めてしまっていた。
(神殿との繋がりを作れたことが、せめてもの償いになるかしら)
蒼玉は「王になれば雪晴を殺す」と言っていたが、神殿が守ってくれるなら、助かるのでは──。
そこまで考えた水奈は、バッと顔を上げた。ドキン、ドキンと心臓が騒いでいる。
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