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琴祭の奇跡
58 湖宇、退場
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大量の水が巨大な柱となり、湖宇をのみ込む。
床から天井まで伸びた水柱の中で、湖宇は手足をばたつかせてもがいている。
「ごぼ、ごぼぼっ⁉︎」
「こ……湖宇ーっ!」
泡しか吐けない湖宇の代わりに、国王が悲鳴を上げる。
「誰か、誰か湖宇を助けよ! 早くしろ! 斬られたいのかっ!」
椿や護衛の樹たちが、我に返ったように立ち上がる。しかし、すぐに彼らの足は止まった。
湖宇をのみ込んだ水の柱に、猛々しい龍の顔が浮かんだからだ。
龍の顎が大きく開く。一度に五人も食えそうな口から、ゴオッと嵐のような咆哮が放たれる。
「ひっ!」
国王が後ずさる。王妃は、涙目で「湖宇ちゃんが、湖宇ちゃんが」と呟く。
樹たちは立ちすくみ、椿はへたり込んでガタガタと震えている。
恐怖で動けなくなった人々の前で、湖宇の抵抗が少しずつ鈍る。白目を剥き、唇が青く染まっていく。
水奈は自分まで息苦しくなって、とっさに立ち上がった。
「やめてっ!」
重い打掛を脱ぎ捨て、水柱に向かって駆ける。
後ろで雪晴が「水奈」と呼ぶのが聞こえたが、水奈はまっすぐに腕を伸ばし、水の中へ分け入った。
大嫌いな相手といえど、目の前で命が失われていくのを放っておけない。
もしここで見捨てれば、苦悶の死に顔が脳裏に貼り付いたまま、二度と剥がれない気がした。
(やめて!)
誰にともなく心で叫ぶ。水をかき、湖宇の手をつかむ。力任せに引くと、意外なほど抵抗はなかった。
湖宇の体が、ザバッと勢いよく外に出る。飛び出した体を受け止めた拍子に、水奈はよろめいた。
「きゃっ! ……あ、あれ?」
ひっくり返りそうになった水奈は、背後から支えられていた。背を預けたまま、自分を抱きしめる相手を見る。
「雪晴殿下⁉︎」
水奈が叫んだ直後、雪晴が耐え切れなくなったように体勢を崩した。
雪晴が後ろに倒れ込み、湖宇をかかえた水奈も尻餅をつく。
「殿下、大丈夫ですか⁉︎ お怪我は?」
「大丈夫だよ。水奈こそどこか痛めていないか?」
雪晴が恥ずかしそうに起き上がる。その顔が上を向いた途端、サッと青くなった。
頭上からミシミシという音が聞こえて、水奈もすばやく仰ぎ見る。
巨大な水柱が、雷に打たれた老木のごとく裂けていく。
真っ二つになった水柱は、大きくしなりながら人々の上へ倒れていく。
「駄目!」
また、水奈は水に命じた。水は、今度は水奈に従った。
龍の怒りが鎮まるように、ゆっくりと水路に流れ込む。
ザザ……という波の音だけが残り、その音も消えて、広間に静寂が降りた。
水奈の耳に、そっと雪晴がささやいてくる。
「水奈、大丈夫かい?」
水奈は、震えながらうなずいた。ドキンドキンと心臓が強く鳴っている。
(今のは何だったの? 水が湖宇殿下に襲いかかった……私はそんなこと考えていないのに。もしかして、銀龍様が?)
震える水奈の腕の中で、突然湖宇の体が跳ねた。
「げほっ、ごほっ!」
湖宇が水を吐き出す。細く目を開ける。
その目が水奈をとらえた、次の瞬間。
「な……何をする!」
湖宇は水奈の腕を払い、尻をついたままずり下がった。
「湖宇殿下、いけません! 急に動かないで……」
「黙れ! 僕に触りやがって、気色の悪い魚女が!」
湖宇は顔をゆがめ、嫌悪に満ちた目で水奈を睨んだ。
水奈の頭の芯が、一瞬にして冷えた。対して、水奈を支える雪晴の体が、カッと熱を帯びる。
「兄上っ! 言葉が過ぎます。水奈はあなたの命を助けたのですよ⁉︎」
「知ったことか! ちくしょう、体が汚れちまった!父上、母上!お助けください!」
湖宇は、肩や腕を払いながら喚き散らしている。国王と王妃が、湖宇の方へ焦ったように身を乗り出す。
「お……おお、湖宇! 大事ないか⁉︎」
「湖宇ちゃん、大丈夫⁉︎」
「父上、母上……! 魚女に触れたせいで、体が汚れてしまいました! このままでは銀龍様の罰がくだるかもしれません」
「そ、そうか。急いで身を清めねばな。ええい、護衛は何をしておる! さっさと湖宇を城へ運ばんか‼︎」
国王が周りを見渡し、腕を振り回す。護衛たちが湖宇に駆け寄る。
護衛に脇を支えられ、椿に付き添われて、ずぶ濡れの湖宇は広間を出て行った。
「生臭い手で僕に触りやがって。しかも王子に『動くな』だと? 洗濯女ふぜいが、覚えてろよ!」
と、水奈を睨みつけて。
「本当に……あり得ないな、兄上は」
雪晴は腹立たしげに言うと、水奈を抱く手に力を込めた。
「怪我はないか? 水奈。湖宇兄上に何かされなかったか?」
「あ……いえ、大丈夫です」
「本当に? それならいいんだが……水奈に暴言を吐いた上、傷までつけていたら、あの人を一生恨むところだ」
「そんな……そのようなこと、お考えにならないでください。私のような者は、どう扱われても仕方ないのですから」
水奈はうつむき、自身の左頬に触れた。「気色の悪い魚女」という怒鳴り声と、嫌悪でゆがんだ湖宇の顔が、頭から離れない。
美しい着物を身につけても、化粧をほどこしても、この醜い鱗はごまかせないのだ。
重苦しい気持ちを胸のうちでめぐらせていると、雪晴が怒ったように呟いた。
「どう扱われても仕方ない、か。じゃあ、例えば私が口付けたとしても、君は怒らないんだね?」
「えぇっ⁉︎」
水奈の悲鳴が、広間のあちこちで反響する。
湖宇を追っていたたくさんの視線が、サッと水奈に集中する。
水奈は真っ赤になって口を押さえた。「申し訳ございません」と、小雨の音より小さな声で言い、頭を下げる。
自身の前髪から垂れる雫を見つめていると、空仙の声が広間に響いた。
床から天井まで伸びた水柱の中で、湖宇は手足をばたつかせてもがいている。
「ごぼ、ごぼぼっ⁉︎」
「こ……湖宇ーっ!」
泡しか吐けない湖宇の代わりに、国王が悲鳴を上げる。
「誰か、誰か湖宇を助けよ! 早くしろ! 斬られたいのかっ!」
椿や護衛の樹たちが、我に返ったように立ち上がる。しかし、すぐに彼らの足は止まった。
湖宇をのみ込んだ水の柱に、猛々しい龍の顔が浮かんだからだ。
龍の顎が大きく開く。一度に五人も食えそうな口から、ゴオッと嵐のような咆哮が放たれる。
「ひっ!」
国王が後ずさる。王妃は、涙目で「湖宇ちゃんが、湖宇ちゃんが」と呟く。
樹たちは立ちすくみ、椿はへたり込んでガタガタと震えている。
恐怖で動けなくなった人々の前で、湖宇の抵抗が少しずつ鈍る。白目を剥き、唇が青く染まっていく。
水奈は自分まで息苦しくなって、とっさに立ち上がった。
「やめてっ!」
重い打掛を脱ぎ捨て、水柱に向かって駆ける。
後ろで雪晴が「水奈」と呼ぶのが聞こえたが、水奈はまっすぐに腕を伸ばし、水の中へ分け入った。
大嫌いな相手といえど、目の前で命が失われていくのを放っておけない。
もしここで見捨てれば、苦悶の死に顔が脳裏に貼り付いたまま、二度と剥がれない気がした。
(やめて!)
誰にともなく心で叫ぶ。水をかき、湖宇の手をつかむ。力任せに引くと、意外なほど抵抗はなかった。
湖宇の体が、ザバッと勢いよく外に出る。飛び出した体を受け止めた拍子に、水奈はよろめいた。
「きゃっ! ……あ、あれ?」
ひっくり返りそうになった水奈は、背後から支えられていた。背を預けたまま、自分を抱きしめる相手を見る。
「雪晴殿下⁉︎」
水奈が叫んだ直後、雪晴が耐え切れなくなったように体勢を崩した。
雪晴が後ろに倒れ込み、湖宇をかかえた水奈も尻餅をつく。
「殿下、大丈夫ですか⁉︎ お怪我は?」
「大丈夫だよ。水奈こそどこか痛めていないか?」
雪晴が恥ずかしそうに起き上がる。その顔が上を向いた途端、サッと青くなった。
頭上からミシミシという音が聞こえて、水奈もすばやく仰ぎ見る。
巨大な水柱が、雷に打たれた老木のごとく裂けていく。
真っ二つになった水柱は、大きくしなりながら人々の上へ倒れていく。
「駄目!」
また、水奈は水に命じた。水は、今度は水奈に従った。
龍の怒りが鎮まるように、ゆっくりと水路に流れ込む。
ザザ……という波の音だけが残り、その音も消えて、広間に静寂が降りた。
水奈の耳に、そっと雪晴がささやいてくる。
「水奈、大丈夫かい?」
水奈は、震えながらうなずいた。ドキンドキンと心臓が強く鳴っている。
(今のは何だったの? 水が湖宇殿下に襲いかかった……私はそんなこと考えていないのに。もしかして、銀龍様が?)
震える水奈の腕の中で、突然湖宇の体が跳ねた。
「げほっ、ごほっ!」
湖宇が水を吐き出す。細く目を開ける。
その目が水奈をとらえた、次の瞬間。
「な……何をする!」
湖宇は水奈の腕を払い、尻をついたままずり下がった。
「湖宇殿下、いけません! 急に動かないで……」
「黙れ! 僕に触りやがって、気色の悪い魚女が!」
湖宇は顔をゆがめ、嫌悪に満ちた目で水奈を睨んだ。
水奈の頭の芯が、一瞬にして冷えた。対して、水奈を支える雪晴の体が、カッと熱を帯びる。
「兄上っ! 言葉が過ぎます。水奈はあなたの命を助けたのですよ⁉︎」
「知ったことか! ちくしょう、体が汚れちまった!父上、母上!お助けください!」
湖宇は、肩や腕を払いながら喚き散らしている。国王と王妃が、湖宇の方へ焦ったように身を乗り出す。
「お……おお、湖宇! 大事ないか⁉︎」
「湖宇ちゃん、大丈夫⁉︎」
「父上、母上……! 魚女に触れたせいで、体が汚れてしまいました! このままでは銀龍様の罰がくだるかもしれません」
「そ、そうか。急いで身を清めねばな。ええい、護衛は何をしておる! さっさと湖宇を城へ運ばんか‼︎」
国王が周りを見渡し、腕を振り回す。護衛たちが湖宇に駆け寄る。
護衛に脇を支えられ、椿に付き添われて、ずぶ濡れの湖宇は広間を出て行った。
「生臭い手で僕に触りやがって。しかも王子に『動くな』だと? 洗濯女ふぜいが、覚えてろよ!」
と、水奈を睨みつけて。
「本当に……あり得ないな、兄上は」
雪晴は腹立たしげに言うと、水奈を抱く手に力を込めた。
「怪我はないか? 水奈。湖宇兄上に何かされなかったか?」
「あ……いえ、大丈夫です」
「本当に? それならいいんだが……水奈に暴言を吐いた上、傷までつけていたら、あの人を一生恨むところだ」
「そんな……そのようなこと、お考えにならないでください。私のような者は、どう扱われても仕方ないのですから」
水奈はうつむき、自身の左頬に触れた。「気色の悪い魚女」という怒鳴り声と、嫌悪でゆがんだ湖宇の顔が、頭から離れない。
美しい着物を身につけても、化粧をほどこしても、この醜い鱗はごまかせないのだ。
重苦しい気持ちを胸のうちでめぐらせていると、雪晴が怒ったように呟いた。
「どう扱われても仕方ない、か。じゃあ、例えば私が口付けたとしても、君は怒らないんだね?」
「えぇっ⁉︎」
水奈の悲鳴が、広間のあちこちで反響する。
湖宇を追っていたたくさんの視線が、サッと水奈に集中する。
水奈は真っ赤になって口を押さえた。「申し訳ございません」と、小雨の音より小さな声で言い、頭を下げる。
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