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琴祭の奇跡
52 空仙の一芝居②
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「こちらの契約書に、ご署名いただけますかな?」
「契約書? 何の契約書ですか?」
「『琴祭の最中、絶対に奏者の変更はしない』という契約書です。進行の滞りを避けるため、ご署名ください」
「……何ですか、それ。僕が、魚女の演奏を止めたがるとでも?」
湖宇がムッとしたように片眉を上げると、空仙は「まあ、はい」と首を縮こめた。
「念のためです。実は、あの娘の演奏を聞いたのですが……想像をはるかに超える音でして。湖宇殿下がたまらず制止なさるやもしれぬ、と思いましてな」
「ハッ! そんなにひどい演奏なんですか。でしたら心配ご無用ですよ」
湖宇はニヤつきながら、大きく両手を広げた。
「むしろ望むところです。僕の演奏が、より美しく聞こえますからね!」
「殿下……琴祭は音色の美しさを競う場ではありませぬ。銀龍様に感謝を捧げ、お恵みを願う──」
「ああ、はい、わかりました! とりあえず、その紙に名前を書けばいいんでしょ? さっさと貸してくださいよ」
湖宇はサッと腕を伸ばし、空仙から契約書を奪い取った。同時に、椿が文机の前へ移り、墨をすり始める。
「殿下。老いぼれがあれこれと口を出すのはよくない、と存じておりますが……契約書には、しっかりと目をお通しください」
「はいはい、どうもご親切に。えーっと……『契約に反し、琴祭における奏者を変更した場合、第二王子である銀 湖宇は、神殿へ一切立ち入らないと誓う』? どうでもいいことを書きますねえ」
「……神殿では、あらゆる儀式をおこないますが」
「だから何ですか? ま、反することなんてないから関係ないですけど。反したとしても、つまらない儀式に参加しなくて済むし」
湖宇は契約書をつまみ、空仙の前でピラピラと振ってみせる。
「署名したら帰ってくださいね~。このあと予定がありますんで」
「ほう、琴の練習ですかな?」
「まさか! 琴祭のために仕立てた着物に落ち度がないか、確認するんですよ。そっちの方が大事でしょ?」
「……」
空仙は苦い顔をしたが、湖宇は無視して文机の方を見た。
「椿、墨はまだか?」
「あと少し……はい、どうぞぉ」
椿は微笑んで立ち上がり、文机から離れた。そこへ、今度は湖宇が移り、契約書に名前を書く。
「空仙殿、これでいいんですよね?」
「うむ、たしかに。こちらは琴祭が終わるまで儂が預かります」
「はいはい、お好きにどうぞ」
「それから、新曲の楽譜は殿下から水奈殿にお届けくださいませんか? 神官たちは、誰一人持っておりませんので」
「わかりましたってば! もう用はないでしょ? お帰りください!」
湖宇は空仙に向かって、シッシッと追い払うように手を振った。
そして護衛兵たちを振り返り、樹を指さした。
「おい、護衛! 途中まで空仙殿をお見送りしろ。それから、魚女に新曲の楽譜を送っておけ! 『琴祭に持って来て、見ながら弾け』と言い添えてな!」
「……かしこまりました」
樹は湖宇に一礼すると、空仙のそばで膝をついた。
「神官長様。ご足労いただきありがとうございました。どうぞ、こちらへ」
「おお、すまんな。それでは湖宇殿下、失礼いたします」
空仙は立ち上がり、樹に続いて廊下へ出た。
襖が閉まると、空仙はホーッと息をつき、汗でじっとり湿ったひたいをぬぐった。樹は気遣わしげに空仙を見て、やや遅い速度で歩き出した。
二人が廊下を少し進んだ時、湖宇の部屋から気だるげな声が聞こえてきた。
「あ~、疲れましたわねぇ。ところで……湖宇様ぁ。どうして魚女に楽譜を渡すんですの? 前は、『渡さない方が演奏がめちゃくちゃになって面白い』っておっしゃってたのに~」
「思い直したんだよ。初心者なら、どうせ楽譜は読めないだろ? 想像してみろ、椿。目を皿にして楽譜を見てるやつが、めちゃくちゃな演奏をするんだぞ」
「……きゃははは! 間抜けの極みですわねぇ~。その上、琴の音が狂うように、間違った印をつけておきましたし。魚女の演奏は、クソの中のクソになるじゃないですかぁ!」
廊下中に響く大声だ。空仙は苦笑いをこぼし、樹はため息をついた。
「神官長様、主人の振る舞いにお怒りでしょう。お詫びいたします」
「いや、儂は気にしとらんよ。お前たちこそ苦労するな」
「とんでもございません。ただ……」
樹は少しためらい、また口を開いた。
「労いのお言葉を頂戴する代わりに、質問にお答えいただいても?」
「質問? 構わぬが……」
「ありがとうございます。では、うかがいますが……雪晴殿下の侍女は、本当に全曲を弾きたいと言ったのですか?」
「ああ、そうじゃ。儂は、嘘は言っておらん」
「……そんな」
樹は目を見開いた。それから頭に手をやり、ブツブツと呟いた。
「まさか、あの礼儀正しい娘が……? それに、雪晴殿下が荒唐無稽なわがままを許容なさるとは……信じられん」
樹は眉を寄せ、苦しげともいえる顔で考え込んでいる。
そんな彼に、空仙は声をひそめて話しかけた。
「儂は、嘘はついておらぬが……勘違いを正すこともしておらんぞ」
「えっ? それはどういう……」
「水奈殿は、お前が思う通りの娘じゃ。それを踏まえて、儂と湖宇殿下とのやり取りを思い返してみなさい」
「お二人のやり取り、ですか?」
樹は、うつむいて考え込んだ。その横で空仙は、ホッと息をついた。
「それにしても、勝手に思い込んでくださって助かったわい。嘘は得意ではないからのぉ……ああ、そうじゃ」
去ろうとした空仙は、楽しそうに樹を振り返った。
「お前は、雪晴殿下と水奈殿の味方なのじゃな。では、特別に教えてやろう。水奈殿は、想像をはるかに超える素晴らしき奏者だ。きっと、儂らに奇跡を見せてくれるじゃろう」
「えっ?」
考え込んでいた樹は、空仙を見た。その時にはもう、空仙は廊下の向こうへ歩き出していた。
その背中を見ながら、樹は笑みを漏らした。
「……なるほど。水奈殿のわがままを相談しに来られたのに、なぜあんな契約書をお持ちなのかと思ったら……まさか、湖宇殿下を謀りに来られたとは」
「契約書? 何の契約書ですか?」
「『琴祭の最中、絶対に奏者の変更はしない』という契約書です。進行の滞りを避けるため、ご署名ください」
「……何ですか、それ。僕が、魚女の演奏を止めたがるとでも?」
湖宇がムッとしたように片眉を上げると、空仙は「まあ、はい」と首を縮こめた。
「念のためです。実は、あの娘の演奏を聞いたのですが……想像をはるかに超える音でして。湖宇殿下がたまらず制止なさるやもしれぬ、と思いましてな」
「ハッ! そんなにひどい演奏なんですか。でしたら心配ご無用ですよ」
湖宇はニヤつきながら、大きく両手を広げた。
「むしろ望むところです。僕の演奏が、より美しく聞こえますからね!」
「殿下……琴祭は音色の美しさを競う場ではありませぬ。銀龍様に感謝を捧げ、お恵みを願う──」
「ああ、はい、わかりました! とりあえず、その紙に名前を書けばいいんでしょ? さっさと貸してくださいよ」
湖宇はサッと腕を伸ばし、空仙から契約書を奪い取った。同時に、椿が文机の前へ移り、墨をすり始める。
「殿下。老いぼれがあれこれと口を出すのはよくない、と存じておりますが……契約書には、しっかりと目をお通しください」
「はいはい、どうもご親切に。えーっと……『契約に反し、琴祭における奏者を変更した場合、第二王子である銀 湖宇は、神殿へ一切立ち入らないと誓う』? どうでもいいことを書きますねえ」
「……神殿では、あらゆる儀式をおこないますが」
「だから何ですか? ま、反することなんてないから関係ないですけど。反したとしても、つまらない儀式に参加しなくて済むし」
湖宇は契約書をつまみ、空仙の前でピラピラと振ってみせる。
「署名したら帰ってくださいね~。このあと予定がありますんで」
「ほう、琴の練習ですかな?」
「まさか! 琴祭のために仕立てた着物に落ち度がないか、確認するんですよ。そっちの方が大事でしょ?」
「……」
空仙は苦い顔をしたが、湖宇は無視して文机の方を見た。
「椿、墨はまだか?」
「あと少し……はい、どうぞぉ」
椿は微笑んで立ち上がり、文机から離れた。そこへ、今度は湖宇が移り、契約書に名前を書く。
「空仙殿、これでいいんですよね?」
「うむ、たしかに。こちらは琴祭が終わるまで儂が預かります」
「はいはい、お好きにどうぞ」
「それから、新曲の楽譜は殿下から水奈殿にお届けくださいませんか? 神官たちは、誰一人持っておりませんので」
「わかりましたってば! もう用はないでしょ? お帰りください!」
湖宇は空仙に向かって、シッシッと追い払うように手を振った。
そして護衛兵たちを振り返り、樹を指さした。
「おい、護衛! 途中まで空仙殿をお見送りしろ。それから、魚女に新曲の楽譜を送っておけ! 『琴祭に持って来て、見ながら弾け』と言い添えてな!」
「……かしこまりました」
樹は湖宇に一礼すると、空仙のそばで膝をついた。
「神官長様。ご足労いただきありがとうございました。どうぞ、こちらへ」
「おお、すまんな。それでは湖宇殿下、失礼いたします」
空仙は立ち上がり、樹に続いて廊下へ出た。
襖が閉まると、空仙はホーッと息をつき、汗でじっとり湿ったひたいをぬぐった。樹は気遣わしげに空仙を見て、やや遅い速度で歩き出した。
二人が廊下を少し進んだ時、湖宇の部屋から気だるげな声が聞こえてきた。
「あ~、疲れましたわねぇ。ところで……湖宇様ぁ。どうして魚女に楽譜を渡すんですの? 前は、『渡さない方が演奏がめちゃくちゃになって面白い』っておっしゃってたのに~」
「思い直したんだよ。初心者なら、どうせ楽譜は読めないだろ? 想像してみろ、椿。目を皿にして楽譜を見てるやつが、めちゃくちゃな演奏をするんだぞ」
「……きゃははは! 間抜けの極みですわねぇ~。その上、琴の音が狂うように、間違った印をつけておきましたし。魚女の演奏は、クソの中のクソになるじゃないですかぁ!」
廊下中に響く大声だ。空仙は苦笑いをこぼし、樹はため息をついた。
「神官長様、主人の振る舞いにお怒りでしょう。お詫びいたします」
「いや、儂は気にしとらんよ。お前たちこそ苦労するな」
「とんでもございません。ただ……」
樹は少しためらい、また口を開いた。
「労いのお言葉を頂戴する代わりに、質問にお答えいただいても?」
「質問? 構わぬが……」
「ありがとうございます。では、うかがいますが……雪晴殿下の侍女は、本当に全曲を弾きたいと言ったのですか?」
「ああ、そうじゃ。儂は、嘘は言っておらん」
「……そんな」
樹は目を見開いた。それから頭に手をやり、ブツブツと呟いた。
「まさか、あの礼儀正しい娘が……? それに、雪晴殿下が荒唐無稽なわがままを許容なさるとは……信じられん」
樹は眉を寄せ、苦しげともいえる顔で考え込んでいる。
そんな彼に、空仙は声をひそめて話しかけた。
「儂は、嘘はついておらぬが……勘違いを正すこともしておらんぞ」
「えっ? それはどういう……」
「水奈殿は、お前が思う通りの娘じゃ。それを踏まえて、儂と湖宇殿下とのやり取りを思い返してみなさい」
「お二人のやり取り、ですか?」
樹は、うつむいて考え込んだ。その横で空仙は、ホッと息をついた。
「それにしても、勝手に思い込んでくださって助かったわい。嘘は得意ではないからのぉ……ああ、そうじゃ」
去ろうとした空仙は、楽しそうに樹を振り返った。
「お前は、雪晴殿下と水奈殿の味方なのじゃな。では、特別に教えてやろう。水奈殿は、想像をはるかに超える素晴らしき奏者だ。きっと、儂らに奇跡を見せてくれるじゃろう」
「えっ?」
考え込んでいた樹は、空仙を見た。その時にはもう、空仙は廊下の向こうへ歩き出していた。
その背中を見ながら、樹は笑みを漏らした。
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