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琴祭の奇跡
43 浮き立つ水奈
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「ごめん、ごめん」
雪晴は笑いながら、水奈の肩から手を離した。
その動作は、どことなくぎこちない。
水奈は、雪晴をじっと観察した。
笑う唇の端が、かすかに引きつっている。不安を隠そうと努めているのが伝わってくる。
(もしかして……わざと、おふざけになった?)
水奈が奇跡を起こすためには、いくつもの壁を超えなくてはならない。もし失敗すれば、何もかも終わりだというのに。
水奈は強い不安を覚えたが、雪晴も同じだったらしい。
その上で雪晴は、「不安を明かせば、水奈を余計に動揺させる」と考えたのだろう。だから、水奈にじゃれついて本心をごまかしたのだ。
(きっと私、暗い声で話してたのね。殿下に心配をおかけしちゃった。元気を出さないと)
水奈は、ぎゅっとまぶたを閉じて、自分の頬を軽く叩いた。
それから雪晴に向き直り、
「殿下、ご安心ください」
と、言った。
「安心?」
「はい。琴祭では、何があっても全曲を演奏してみせます。きっと奇跡は起きます!」
「……ええと、それは」
雪晴は、困ったように眉を下げた。
「策があるのかい?」
「えっ、それは……たとえば、あの……ほ、ほかの奏者の琴を、頑張って奪い取ります!」
水奈は雪晴の手を取り、叫んだ。腹に力を込めすぎて、声が上ずってしまった。
雪晴は数秒ほど呆けていたが、いきなり上を向いたかと思うと、
「あっはははは!」
と、大笑いを始めた。
「……申し訳ありません。馬鹿なことを申しました」
水奈は、自分の幼稚な発言が恥ずかしくなって、首をすくめた。
「いや、違うんだ。湖宇兄上がどんな顔をするか想像したら、おかしくて。そこへ奇跡が起きたら、ひっくり返るだろうな」
雪晴は、閉じた目の端ににじむ笑いの涙をぬぐった。そして楽しげに続けた。
「奇跡が起きるなら、琴を奪い取る作戦もいいかもしれないなあ」
「えっ! 本気ですか?」
水奈が仰天して尋ねると、雪晴は、
「奇跡を起こせずに神官たちを怒らせるよりはマシだ」
と、本気とも冗談ともつかない微笑みを浮かべた。
その微笑みが、ふいに消える。
「ただ、演奏中に奪うのは絶対に駄目だけど。銀龍様は琴がお好きだからね。憩いの時間を邪魔したら、かならずお怒りになるよ」
「かならず」とは、ずいぶん強く言い切るものだ。水奈が目を丸くすると、雪晴は水奈の驚きを察したのか、説明を始めた。
「神殿は、銀龍の寝所とも言われてる。この国の中で、銀龍様に最も近い場所なんだ。そんな場所で銀龍様を怒らせたら……」
「……すぐに天罰がくだりそうですね」
「そう。タカに聞いたんだけど、実例もいくつかあるらしい。顕著なのは、先々代国王の話かな」
先々代国王は、〈銀龍の愛し子〉の存在を隠すため、タカの祖父や神官たちを殺した人物だ。
「彼の王は、ある時期から神殿を徹底的に避けていたが、どうしても参加しなくてはならない儀式があった。仕方なく神殿へおもむいたものの、いきなり苦しみ始めて、亡くなったそうだ。健康そのものだったのに。それを聞いた時、何が起きたんだろうと不思議だったけど、水奈の話で納得したよ」
銀龍に仕える神官たちを殺めたせいで、怒りを買ったのだろう、と雪晴は続けた。
「そ、そうだったのですか……では、銀龍様を怒らせないよう、気をつけなくてはいけませんね」
とはいえ、そもそも琴を奪い取るつもりはない。勢いに任せて言っただけだ。
しかし、何かの拍子に奏者の邪魔をしないよう、注意しなくては。
(ただでさえ、私には汚らわしい鱗があるんだから)
水奈は左頬に触れながら、心に刻んだ。
と、ニコニコしている雪晴が目に入る。
「殿下? どうかされましたか?」
「いや、天罰の話は半分冗談のつもりだったんだけど。水奈が大真面目に受け取ったみたいだから、可愛いなあと思って」
「! わ、私、食器を片付けて参ります!」
水奈は顔が赤らむのを感じながら、すくっと立ち上がった。雪晴は笑顔のまま、
「ありがとう。じゃあ、私は布団を畳んでいるよ」
と、言った。
「片付けが終わったら、琴の練習をしようか。いいだろう?」
「あ……はい」
雪晴にはもう少し休んでもらおうと思っていたのだが、流れるように言われて、ついうなずいてしまった。
それに、雪晴は──水奈も他人のことは言えないが──こうと決めたら、なかなか折れてくれない。水奈は、諦めて食器を台所へ運んだ。
茶碗や匙を洗いながら、水奈は雪晴の表情を思い返した。
(『琴の練習をしよう』とおっしゃった時、自然な笑顔をなさっていたわ。たくさん笑って気が紛れたのかしら)
だとしたら、「琴を奪い取る」という馬鹿げた提案も、役に立ったと言えるだろう。
(変なことを言ってしまって恥ずかしかったけど、殿下がお元気になられたならよかった。それに……タカ様のおかげも、あるかもしれない)
タカに頼めば、一つ目の問題は解決するはず。雪晴が気持ちを立て直せたのは、そんな期待もあるからだろう。
(最高位の神官様だもの。琴祭でどんな曲が演奏されるか、きっとご存知よね)
そう考えると、水奈の心まで期待に満ちていく。
(ああ、待ちきれない。早く知りたいな。どんな曲が演奏されるんだろう)
水奈は食器を洗う間、頭に曲が浮かんだそばから鼻歌を歌った。
雪晴の部屋へ戻り、琴の準備をしている時には、こう言われてますます浮き立った。
「ひょっとするとタカは、ほかにも有益な情報をくれるかもしれないよ。最高位の神官なら、神官長と関わることも多いだろうし」
*
翌日。洗濯仕事を終えた水奈は、カエデの森を小走りに進んだ。
洗濯場を発つ時間が遅かったのではない。むしろ、いつもより早いくらいだ。
しかし、気が急いていた。
(雪晴殿下は、タカ様からどんなお話を聞かれたのかしら)
琴祭ではどんな曲を弾くんだろう。
落ち着いた曲だろうか。それとも、勢いのある曲かもしれない。
「ふふっ」
思わず笑い声を漏らしたところで、水奈は想像の世界にどっぷりはまっていたことに気付いた。
足を止めて、白銀城の兵士が見回りでもしていないか、とあたりを見回す。
後ろと左右には、裸木の群れだけが続いている。そして前方には、木々の向こうに沼の端が見える。
いつの間にか、沼地のそばへ来ていたらしい。
「嫌だ、ボーッとしてたわ。しっかりしなくちゃ」
きつく目を閉じ、頰かむりの上からパシパシと頬を叩いて、深呼吸をしていると。
「水奈? 大丈夫?」
「は、はい、問題ありま……えっ⁉︎」
水奈は叫んで、目を開けた。森と沼地の境目あたりに、妙に楽しげな雪晴がいる。
雪晴は笑いながら、水奈の肩から手を離した。
その動作は、どことなくぎこちない。
水奈は、雪晴をじっと観察した。
笑う唇の端が、かすかに引きつっている。不安を隠そうと努めているのが伝わってくる。
(もしかして……わざと、おふざけになった?)
水奈が奇跡を起こすためには、いくつもの壁を超えなくてはならない。もし失敗すれば、何もかも終わりだというのに。
水奈は強い不安を覚えたが、雪晴も同じだったらしい。
その上で雪晴は、「不安を明かせば、水奈を余計に動揺させる」と考えたのだろう。だから、水奈にじゃれついて本心をごまかしたのだ。
(きっと私、暗い声で話してたのね。殿下に心配をおかけしちゃった。元気を出さないと)
水奈は、ぎゅっとまぶたを閉じて、自分の頬を軽く叩いた。
それから雪晴に向き直り、
「殿下、ご安心ください」
と、言った。
「安心?」
「はい。琴祭では、何があっても全曲を演奏してみせます。きっと奇跡は起きます!」
「……ええと、それは」
雪晴は、困ったように眉を下げた。
「策があるのかい?」
「えっ、それは……たとえば、あの……ほ、ほかの奏者の琴を、頑張って奪い取ります!」
水奈は雪晴の手を取り、叫んだ。腹に力を込めすぎて、声が上ずってしまった。
雪晴は数秒ほど呆けていたが、いきなり上を向いたかと思うと、
「あっはははは!」
と、大笑いを始めた。
「……申し訳ありません。馬鹿なことを申しました」
水奈は、自分の幼稚な発言が恥ずかしくなって、首をすくめた。
「いや、違うんだ。湖宇兄上がどんな顔をするか想像したら、おかしくて。そこへ奇跡が起きたら、ひっくり返るだろうな」
雪晴は、閉じた目の端ににじむ笑いの涙をぬぐった。そして楽しげに続けた。
「奇跡が起きるなら、琴を奪い取る作戦もいいかもしれないなあ」
「えっ! 本気ですか?」
水奈が仰天して尋ねると、雪晴は、
「奇跡を起こせずに神官たちを怒らせるよりはマシだ」
と、本気とも冗談ともつかない微笑みを浮かべた。
その微笑みが、ふいに消える。
「ただ、演奏中に奪うのは絶対に駄目だけど。銀龍様は琴がお好きだからね。憩いの時間を邪魔したら、かならずお怒りになるよ」
「かならず」とは、ずいぶん強く言い切るものだ。水奈が目を丸くすると、雪晴は水奈の驚きを察したのか、説明を始めた。
「神殿は、銀龍の寝所とも言われてる。この国の中で、銀龍様に最も近い場所なんだ。そんな場所で銀龍様を怒らせたら……」
「……すぐに天罰がくだりそうですね」
「そう。タカに聞いたんだけど、実例もいくつかあるらしい。顕著なのは、先々代国王の話かな」
先々代国王は、〈銀龍の愛し子〉の存在を隠すため、タカの祖父や神官たちを殺した人物だ。
「彼の王は、ある時期から神殿を徹底的に避けていたが、どうしても参加しなくてはならない儀式があった。仕方なく神殿へおもむいたものの、いきなり苦しみ始めて、亡くなったそうだ。健康そのものだったのに。それを聞いた時、何が起きたんだろうと不思議だったけど、水奈の話で納得したよ」
銀龍に仕える神官たちを殺めたせいで、怒りを買ったのだろう、と雪晴は続けた。
「そ、そうだったのですか……では、銀龍様を怒らせないよう、気をつけなくてはいけませんね」
とはいえ、そもそも琴を奪い取るつもりはない。勢いに任せて言っただけだ。
しかし、何かの拍子に奏者の邪魔をしないよう、注意しなくては。
(ただでさえ、私には汚らわしい鱗があるんだから)
水奈は左頬に触れながら、心に刻んだ。
と、ニコニコしている雪晴が目に入る。
「殿下? どうかされましたか?」
「いや、天罰の話は半分冗談のつもりだったんだけど。水奈が大真面目に受け取ったみたいだから、可愛いなあと思って」
「! わ、私、食器を片付けて参ります!」
水奈は顔が赤らむのを感じながら、すくっと立ち上がった。雪晴は笑顔のまま、
「ありがとう。じゃあ、私は布団を畳んでいるよ」
と、言った。
「片付けが終わったら、琴の練習をしようか。いいだろう?」
「あ……はい」
雪晴にはもう少し休んでもらおうと思っていたのだが、流れるように言われて、ついうなずいてしまった。
それに、雪晴は──水奈も他人のことは言えないが──こうと決めたら、なかなか折れてくれない。水奈は、諦めて食器を台所へ運んだ。
茶碗や匙を洗いながら、水奈は雪晴の表情を思い返した。
(『琴の練習をしよう』とおっしゃった時、自然な笑顔をなさっていたわ。たくさん笑って気が紛れたのかしら)
だとしたら、「琴を奪い取る」という馬鹿げた提案も、役に立ったと言えるだろう。
(変なことを言ってしまって恥ずかしかったけど、殿下がお元気になられたならよかった。それに……タカ様のおかげも、あるかもしれない)
タカに頼めば、一つ目の問題は解決するはず。雪晴が気持ちを立て直せたのは、そんな期待もあるからだろう。
(最高位の神官様だもの。琴祭でどんな曲が演奏されるか、きっとご存知よね)
そう考えると、水奈の心まで期待に満ちていく。
(ああ、待ちきれない。早く知りたいな。どんな曲が演奏されるんだろう)
水奈は食器を洗う間、頭に曲が浮かんだそばから鼻歌を歌った。
雪晴の部屋へ戻り、琴の準備をしている時には、こう言われてますます浮き立った。
「ひょっとするとタカは、ほかにも有益な情報をくれるかもしれないよ。最高位の神官なら、神官長と関わることも多いだろうし」
*
翌日。洗濯仕事を終えた水奈は、カエデの森を小走りに進んだ。
洗濯場を発つ時間が遅かったのではない。むしろ、いつもより早いくらいだ。
しかし、気が急いていた。
(雪晴殿下は、タカ様からどんなお話を聞かれたのかしら)
琴祭ではどんな曲を弾くんだろう。
落ち着いた曲だろうか。それとも、勢いのある曲かもしれない。
「ふふっ」
思わず笑い声を漏らしたところで、水奈は想像の世界にどっぷりはまっていたことに気付いた。
足を止めて、白銀城の兵士が見回りでもしていないか、とあたりを見回す。
後ろと左右には、裸木の群れだけが続いている。そして前方には、木々の向こうに沼の端が見える。
いつの間にか、沼地のそばへ来ていたらしい。
「嫌だ、ボーッとしてたわ。しっかりしなくちゃ」
きつく目を閉じ、頰かむりの上からパシパシと頬を叩いて、深呼吸をしていると。
「水奈? 大丈夫?」
「は、はい、問題ありま……えっ⁉︎」
水奈は叫んで、目を開けた。森と沼地の境目あたりに、妙に楽しげな雪晴がいる。
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