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琴祭の奇跡

29 私が琴をお教えします

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「雪晴殿下、先ほどはご無礼をいたしました。湖宇殿下をお止めできず、申し訳ありません」

「謝らなくていいよ。あの人は陛下のお気に入りで、好き勝手に振る舞っていると聞いた。従者にたしなめられると、『よくも逆らったな』と怒り出すんだろう?」

「はい……棒で打たれた者もおります」

 樹が苦い顔でうなずくと、雪晴は労わるように言った。

「なら、兄上を止めなくていい。むしろ大人しく従ってくれ。樹に何かあったら、奥方が悲しむよ。私もね」

「……お気遣い、痛み入ります」

 樹はホッとしたように息をつき、顔を上げた。

 雪晴と樹の表情に、親しみがにじむ。
 二人を交互に見ていた水奈は、久しぶりに家族が顔を合わせたみたいだ、と思った。

 樹は、まなざしの親しみをそのままに立ち上がり、再び頭を下げた。

「兄君からの贈り物は、タカ殿に清めていただいてください。あの方なら、神殿へ運ぶ者も手配してくださるでしょう」

 そう言った樹は、壁に立てかけられた二つの包みを手で示した。
 それから彼は、落ち着いた足取りで玄関を出て行った。

 少しして、遠くから湖宇の怒鳴り声が聞こえてきた。

「早く籠を出せよ! 俺を凍え死にさせるつもりか!」

 どうやら湖宇たちは、駕籠かごに乗ってカエデの森を抜けてきたらしい。

 湖宇の喚き声が、次第に小さくなる。声が消えると、ポン、ポン……と神殿の方から琴の音が響いてくるだけになった。

 穏やかな静けさの中、雪晴は「しかし、まいったな」と呟いた。
 ひたいを押さえて眉を寄せ、水奈を振り返る。

「水奈、すまない。まさかこんなことになるとは……」

「こんなこと?」

「私たちは、琴祭に参加することになってしまったんだ。しかも、終曲の奏者として」

「はい、そのようですね」

 水奈がさらりと答えると、雪晴は面食らったように動きを止めた。 
 そして、ためらいがちに口を開いた。

「終曲は、琴祭を締めくくる、大切なものだと聞いている。無様な演奏をすれば、恥をかくだけじゃ済まない。なのに……」

 雪晴は唇を噛み、声に悔しさをにじませて言った。

「私は、『モモエノハモン』という曲など知らないし、そもそも琴に触ったことすらないんだよ」

 うなだれる雪晴に対し、水奈は晴れやかに答えた。

「ご安心ください、お教えします! 琴の弾き方は、母に叩き込まれましたから。何曲かは目を閉じたまま弾けるんですよ。『百重の波紋』も!」

 まだ、母と暮らしていた時、琴を用意してくれたのは母の侍女──年老いたツグミだった。

 ツグミは水奈の鱗に戸惑いながらも、「お嬢様の御子にも仕えるつもりでしたから」と、遊び相手になってくれた。
 母屋の同僚に頼んで、こっそり融通を利かせてもらい、様々なものを手に入れてくれた。

 古びた書道筆。
 ひび割れたそろばん。
 捨てられそうになっていた書物。
 
 そして、ガラクタと一緒にほこりをかぶっていた琴。

 祖父母の住む母屋には、よく客が来ていたらしく、賑やかな声が絶えなかった。
 だから、琴を弾いても小さい音なら、祖父母の耳に届かないようだった。

 思い切り弾けるのは、雨や風の日。
 雨は地面ではじけて、琴の音をごまかしてくれた。ごうごうと吹く風が、響きをかき消してくれた。

 母とともに琴を奏でる時間が、水奈は大好きだった。

 しかし、ツグミが死んだ翌年、母が亡くなった。その直後、水奈は滝壺に突き落とされた。

 もう一度。あと一度でいい。琴が弾きたい。
 そう願いながら諦めるしかなかった。
 
 なのに、こんな日が来るなんて──水奈の頬がひとりでに緩んでいく。

 水奈はいそいそと壁際に駆け寄り、包みを少し開けてみた。
 黒くつややかな、よく磨かれた木肌が見えた。

 真新しい琴だ。輝く風を吹き込まれたかのように、水奈の中で感動がふくらむ。

「殿下! ご朝食が終わりましたら、弾いてもよろしいですか?」

 水奈は、にっこりして雪晴を振り返った。
 彼は、呆気に取られたような顔で棒立ちになっていた。

「君は一体……」

「はい?」

「いや……何でもない。それじゃあ朝食のあと、琴を教えてくれるかな」

「かしこまりました!」

 水奈は嬉しくて嬉しくて、子うさぎが跳ねるように身をひるがえし、ぎゅっと雪晴に抱きついた。

「わっ! み、水奈?」

「すぐにお食事の支度をいたします。お部屋でお待ちください」

 水奈は、顔を赤くした雪晴を正面玄関に残し、さっき裏口で投げてしまったノビルを取りに戻った。
 それから踊るような足取りで、台所へ向かう。
 
(早く雑炊とおひたしを作らなくちゃ)

 水奈は『百重の波紋』を鼻歌で奏でながら、作業を進めた。曲がちょうど五周した時、料理は完成した。

「お待たせいたしました」

 盆に料理を乗せて、雪晴の部屋へと運ぶ。

「あの、水奈──」

「冷めてしまいますから、どうぞお召し上がりください」

「あ、うん……」

 雪晴は、水奈が差し出した箸を受け取ると、困ったように眉を下げてノビルのおひたしを口へ運んだ。

「いかがですか?」

「おいしいよ。けど……」

「けど……? 固い部分がございましたか? 味見はしたのですが」

 水奈の浮かれ心地が、すうっと冷めていく。
 はしゃいだせいで、ゆで時間を間違えたのだろうか。

 おそるおそる、取り分けた自分のおひたしを食べてみる。
 つんとしたネギのような香りと、かすかな甘みが口の中へ広がる。特に問題はなさそうだ。

「うーん……殿下の小鉢に、筋のある部分が入ったのでしょうか」

 それとも、醤油が苦手なのだろうか。先日、タカがこっそり持ってきてくれたので、使ってみようと思ったのだが。
 悩んでいると、雪晴が「いや」と声をかけてくる。

「料理はとてもおいしいんだよ。ただ、君の身の上が気になってしまって」

 雪晴は拍を数えるように、膝を指で叩き始めた。

「礼儀作法を知っている。文を読める。琴も弾ける。なのに、洗濯女として働いている。君は一体、何者なんだ?」
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