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惹かれ合う二人
4 初めての気持ち
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「ここへ来るまでの間に、体が冷えただろう? 囲炉裏にでも当たらせてやりたいが……ここには火がないんだ。すまないね。よければ羽織を貸そうか?」
「そんな、滅相もありません!」
水奈は「失礼いたします」と言うと、ぴょこんとお辞儀をして土間に駆け込んだ。
屋敷が濡れないよう、雪で湿った頰かむりと着物を、異能を使ってサッと乾かす。
藁の草履を放り出すように脱いで、廊下に上がる。草履を揃えようとしたが、手が震えて向きがちぐはぐになってしまう。
粗相してはならない、と考えていたことなど忘れていた。それほど動揺していた。
こんなにも温かく接してもらえたのは、二年前に母を亡くし、祖父に殺されかけて以来だった。
「水奈、足元に気を付けるんだよ。ここへ来た者はみんな、『この屋敷は暗い』と言うから」
「は、はい、恐れ入ります」
急かされてもいないのに、水奈はすばやく立ち上がった。雪晴に向き直ると、彼の顔が間近にある。
「大丈夫? なんだか焦ってるみたいだけど……もしかして緊張してる?」
息がかかるほど近くで、美しい顔が微笑む。その瞬間、水奈の中で火のような恥ずかしさが吹き上がった。
「い、いえ、大丈夫です。お気遣いなく!」
恥ずかしさの火を少しでも抑え込もうと、水奈はぎゅっと目を閉じた。
耳の奥で、脈の音がうるさく響く。心臓が暴れて痛いくらいだ。
不安からではない。不安は、ない。
代わりに、今まで感じたことのない、嬉しいような切ないような気持ちが、堰を切ったようにあふれてくる。
その気持ちの中から、一つの疑問が浮かんできた。
(雪晴殿下はこんなにお優しい方なのに、どうしてすぐに侍女を辞めさせてしまうの?)
侍女をクビにするのは、身勝手な理由からではないのだろう。
それなら、なぜ。
(それに、侍女の手が腫れてたとか、着物に血がついてたっていう話……あれはどういうこと? 殿下が乱暴なさるとは思えないし)
気にはなったが、初対面の王子にそんなことは聞けない。
それに、早く仕事をしなくては。夕方には城へ戻らなくてはならないのだ。
「殿下。さっそくですがお仕事を始めますね」
そう言って、水奈は頬かむりを外そうとした。
アザミの言った通り、雪晴は目が見えないようだし、うなじが寒かったので、手ぬぐいを首に巻こうと思った──が。
「雪晴殿下。その娘が新しい侍女ですか?」
外から、しわがれた声がした。
水奈は、とっさに頰かむりを手で押さえた。おそるおそる、戸口を振り返る。
老女が一人、土間に入ってくるところだった。
きびきびとした歩き方で、背筋はまっすぐ伸びている。白髪が混じって灰色に見える髪は、頭の後ろできっちりと団子状に結われている。
しわに囲われた目は、たしかに水奈を捉えていた。
(誰……? 前の侍女様……じゃないわよね)
雪晴の侍女にしては、歳を取り過ぎている。
この銀龍国では、王子が十二歳になり成人すると、新たに侍女が選ばれる。貴族や富豪の家から、年頃の娘が抜擢されるのだ。
そして時が来れば、侍女は王子と結婚する。
だから、老女が前任の侍女だとは考えにくい──。
「あなた、名前は?」
老女に問われて、考え込んでいた水奈はハッとした。
いつの間にか老女は廊下へ上がり、水奈のそばに立っていた。
「し、失礼いたしました。洗濯女の水奈と申します」
「……今度の侍女は身分が低い、とは聞いていたけど。下女だったのね」
老女は、腹立たしげにため息をついた。
水奈は萎縮して肩を丸め、うつむいた。
そうしながら、ひそかに老女の着物を観察した。衣類の色や柄は、地位によって定められている。
老女の羽織は黒。誰でも身につけられる色だが、そこに銀糸で川の流れが刺繍されている。
(この羽織……一度、白銀城で見たことがある)
最高位の神官が着ていたものだ。
最高位の神官とすれ違う時は、上級貴族でさえ頭を下げる。それほどの人物が、こんなにも近くにいる。
今朝、カリンにこう言われたのに。
『なあ、水奈。城の北って神殿の近くだろ? 神官どもに見つからないよう気を付けな。あいつら潔癖だから、あんたの鱗を見たら何してくるかわかんないよ』
老女はその神官だ。しかも最高位の。洗濯女などどうとでもできる。
汚らわしい鱗を見れば、すぐさま水奈を追い払うかもしれない。
水奈が肩を縮こめていると、雪晴が口を開いた。
「タカ、今日はいつもより早いね」
彼の声には警戒がにじんでいる。
「新しい侍女が来ると聞きましたので、様子を見に」
「そうか。それで、また私の侍女をいじめるつもりかい?」
「……いじめではなく指導です。効果があった試しはありませんがね」
タカと呼ばれた老女は、いら立ったように息を吐き出した。それから、彼女は水奈に向き直った。
「初めまして。私は最高位神官のタカといいます」
「タカ様、お会いできて光栄です」
水奈がお辞儀をすると、タカは鋭い目でチラッと土間を見た。水奈の草履が、ちぐはぐなままで置いてある。
「敬意は雪晴殿下に向けてちょうだい」
「は、はい。もちろんです」
水奈はしゃがみ込み、慌てて草履を揃えた。すると、またタカが厳しい声で言う。
「では、頰かむりは取りなさい」
「……!」
水奈は、剣を突きつけられたような心地で息をのんだ。
「そんなに深くかぶったら周りが見えないでしょう。まともに仕事をする気があるの?」
「い、いえ、これは、その……」
水奈は何とか立ち上がったが、歯が恐怖でカチカチと鳴った。
頰かむりを取れば、鱗に気付かれる。タカの嫌悪が雪晴に伝わり、「水奈はクビだ」と言われたら。
(火乃様に殺される……!)
頰かむりを取ることも、「嫌です」と言うこともできず、水奈はただ震えた。
「ちょっと、あなた。どうしたの?」
タカが、怪訝そうに尋ねてきた。水奈の方へ手を伸ばしてくる。
その時だ。
「タカ、いい加減にしてくれ。水奈が怖がってるだろう」
雪晴が怒ったように言った。
「そんな、滅相もありません!」
水奈は「失礼いたします」と言うと、ぴょこんとお辞儀をして土間に駆け込んだ。
屋敷が濡れないよう、雪で湿った頰かむりと着物を、異能を使ってサッと乾かす。
藁の草履を放り出すように脱いで、廊下に上がる。草履を揃えようとしたが、手が震えて向きがちぐはぐになってしまう。
粗相してはならない、と考えていたことなど忘れていた。それほど動揺していた。
こんなにも温かく接してもらえたのは、二年前に母を亡くし、祖父に殺されかけて以来だった。
「水奈、足元に気を付けるんだよ。ここへ来た者はみんな、『この屋敷は暗い』と言うから」
「は、はい、恐れ入ります」
急かされてもいないのに、水奈はすばやく立ち上がった。雪晴に向き直ると、彼の顔が間近にある。
「大丈夫? なんだか焦ってるみたいだけど……もしかして緊張してる?」
息がかかるほど近くで、美しい顔が微笑む。その瞬間、水奈の中で火のような恥ずかしさが吹き上がった。
「い、いえ、大丈夫です。お気遣いなく!」
恥ずかしさの火を少しでも抑え込もうと、水奈はぎゅっと目を閉じた。
耳の奥で、脈の音がうるさく響く。心臓が暴れて痛いくらいだ。
不安からではない。不安は、ない。
代わりに、今まで感じたことのない、嬉しいような切ないような気持ちが、堰を切ったようにあふれてくる。
その気持ちの中から、一つの疑問が浮かんできた。
(雪晴殿下はこんなにお優しい方なのに、どうしてすぐに侍女を辞めさせてしまうの?)
侍女をクビにするのは、身勝手な理由からではないのだろう。
それなら、なぜ。
(それに、侍女の手が腫れてたとか、着物に血がついてたっていう話……あれはどういうこと? 殿下が乱暴なさるとは思えないし)
気にはなったが、初対面の王子にそんなことは聞けない。
それに、早く仕事をしなくては。夕方には城へ戻らなくてはならないのだ。
「殿下。さっそくですがお仕事を始めますね」
そう言って、水奈は頬かむりを外そうとした。
アザミの言った通り、雪晴は目が見えないようだし、うなじが寒かったので、手ぬぐいを首に巻こうと思った──が。
「雪晴殿下。その娘が新しい侍女ですか?」
外から、しわがれた声がした。
水奈は、とっさに頰かむりを手で押さえた。おそるおそる、戸口を振り返る。
老女が一人、土間に入ってくるところだった。
きびきびとした歩き方で、背筋はまっすぐ伸びている。白髪が混じって灰色に見える髪は、頭の後ろできっちりと団子状に結われている。
しわに囲われた目は、たしかに水奈を捉えていた。
(誰……? 前の侍女様……じゃないわよね)
雪晴の侍女にしては、歳を取り過ぎている。
この銀龍国では、王子が十二歳になり成人すると、新たに侍女が選ばれる。貴族や富豪の家から、年頃の娘が抜擢されるのだ。
そして時が来れば、侍女は王子と結婚する。
だから、老女が前任の侍女だとは考えにくい──。
「あなた、名前は?」
老女に問われて、考え込んでいた水奈はハッとした。
いつの間にか老女は廊下へ上がり、水奈のそばに立っていた。
「し、失礼いたしました。洗濯女の水奈と申します」
「……今度の侍女は身分が低い、とは聞いていたけど。下女だったのね」
老女は、腹立たしげにため息をついた。
水奈は萎縮して肩を丸め、うつむいた。
そうしながら、ひそかに老女の着物を観察した。衣類の色や柄は、地位によって定められている。
老女の羽織は黒。誰でも身につけられる色だが、そこに銀糸で川の流れが刺繍されている。
(この羽織……一度、白銀城で見たことがある)
最高位の神官が着ていたものだ。
最高位の神官とすれ違う時は、上級貴族でさえ頭を下げる。それほどの人物が、こんなにも近くにいる。
今朝、カリンにこう言われたのに。
『なあ、水奈。城の北って神殿の近くだろ? 神官どもに見つからないよう気を付けな。あいつら潔癖だから、あんたの鱗を見たら何してくるかわかんないよ』
老女はその神官だ。しかも最高位の。洗濯女などどうとでもできる。
汚らわしい鱗を見れば、すぐさま水奈を追い払うかもしれない。
水奈が肩を縮こめていると、雪晴が口を開いた。
「タカ、今日はいつもより早いね」
彼の声には警戒がにじんでいる。
「新しい侍女が来ると聞きましたので、様子を見に」
「そうか。それで、また私の侍女をいじめるつもりかい?」
「……いじめではなく指導です。効果があった試しはありませんがね」
タカと呼ばれた老女は、いら立ったように息を吐き出した。それから、彼女は水奈に向き直った。
「初めまして。私は最高位神官のタカといいます」
「タカ様、お会いできて光栄です」
水奈がお辞儀をすると、タカは鋭い目でチラッと土間を見た。水奈の草履が、ちぐはぐなままで置いてある。
「敬意は雪晴殿下に向けてちょうだい」
「は、はい。もちろんです」
水奈はしゃがみ込み、慌てて草履を揃えた。すると、またタカが厳しい声で言う。
「では、頰かむりは取りなさい」
「……!」
水奈は、剣を突きつけられたような心地で息をのんだ。
「そんなに深くかぶったら周りが見えないでしょう。まともに仕事をする気があるの?」
「い、いえ、これは、その……」
水奈は何とか立ち上がったが、歯が恐怖でカチカチと鳴った。
頰かむりを取れば、鱗に気付かれる。タカの嫌悪が雪晴に伝わり、「水奈はクビだ」と言われたら。
(火乃様に殺される……!)
頰かむりを取ることも、「嫌です」と言うこともできず、水奈はただ震えた。
「ちょっと、あなた。どうしたの?」
タカが、怪訝そうに尋ねてきた。水奈の方へ手を伸ばしてくる。
その時だ。
「タカ、いい加減にしてくれ。水奈が怖がってるだろう」
雪晴が怒ったように言った。
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