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天才音楽家の夫に愛されたい妻の話
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男爵令嬢のクラリスが、音楽家のアレクに嫁いで1ヶ月。
茶会のたび、クラリスは誇らしい気持ちになった。
「クラリス、あなたがうらやましいわ」
「アレクの新曲を真っ先に聞けるんですもの」
「音楽家一族の中でも、突出した才能があるんですってね」
「陛下がご贔屓になさるのも当然だわ」
「次の曲も楽しみ」
誰もが、夫への賞賛を口にする。
婚姻は、クラリスの父が強引に推し進めた。
アレクと初めて会ったのは挙式当日。
訳もわからないまま、結婚生活が始まったが。
(大丈夫、私は幸せな結婚をしたのよ)
クラリスはそう考えながら、あるオペラの序曲を口ずさむのだった。
アレクの作品の中で、一番好きな曲を。
しかし、クラリスは次第に不満を募らせていった。
夫は大天才。音楽に情熱のすべてを注ぐ。
その情熱を人に向けることは、一切ない。
演奏会のない日は仕事部屋に閉じこもり、作曲ばかり。
話しかけるのはいつもクラリスから。
「最近、寒くなったわね。風邪をひいたりしてない? 羊毛の敷物を買いましょうか」
対するアレクの返事は──
「大丈夫、問題ない」
いつもそれだけ。
クラリスの口は重くなり、ついに食事時にしか声をかけなくなった。
「アレク、食事の時間よ」
クラリスは廊下から呼びかける。
今日こそ出てきてくれるのでは、と期待して。
しかし、返事はいつも同じ。
「いいメロディが浮かんだから行けない。ここへ持って来させてくれ」
「……わかりました」
せめて自分が給仕を──と、クラリスは食事を運ぶが。
「ありがとう」
アレクはそれだけ言って、クラリスを見もしない。
クラリスがそばにいても、お茶を淹れても、アレクは作曲の手を止めない。
クラリスはため息をついて、仕事部屋をあとにするしかなかった。
(ろくに夫と会話しないまま、私は人生を終えるのね)
そう考え始めた頃。
突然、アレクがクラリスの自室にやってきた。
「新作を聞いてほしい、一緒に来てくれ」
クラリスは目を丸くした。
驚きすぎて「はい」も「いいえ」も言えなかった。
嬉しいと感じる余裕もない。
ただ、呆気に取られていた。
立ち尽くすクラリスの手を、アレクは問答無用でつかむ。
彼はそのまま、無言で廊下へ出た。
クラリスは手を引かれながら、
(夢を見ているのかしら)
と、他人事のように思った。
仕事部屋に着くと、アレクはピアノの前にサッと座った。
「弾くよ」
アレクは、クラリスの返事を待たずに演奏を始めた。
ゆったりとした曲だった。
弾き終えると、アレクはクラリスを振り返った。
「どう思う?」
「どうって……」
クラリスは驚きながらも、何とか答えた。
「穏やかな曲ね。小川が流れているみたい」
それから、あのオペラの序曲に似ている。聞くだけで幸せになる、あの曲に。
クラリスの頭に、自然とその曲が流れ出す。
胸に喜びが湧いてくる。
──アレクが初めて話しかけてくれた。
クラリスは、我知らずアレクに笑いかけていた。
すると、アレクはなぜか目を泳がせた。
そして、クラリスがもっと驚くことを尋ねてきた。
「この曲、直すところはある?」
クラリスは仰天して、ぶんぶんと首を振った。
「まさか! 完璧よ。もし技術的なことが聞きたいなら、あなたのお父様に──」
「そうじゃなくて、感想を聞きたいんだ」
どうしてそんなことを言うのだろう。クラリスは首をかしげた。
天才と名高い音楽家が、素人に意見を求めるなんて。
(私をからかっているの?)
しかし、アレクの面持ちは真剣そのもの。
どうやら本気らしい。
(女性好みの曲を作りたい、とか? でも、どうして私なのかしら)
クラリスは不思議に思った。
サロンへ行けば、音楽通の貴婦人にいくらでも会えるのに。
だが、アレクと会話できるチャンスだ。
クラリスは胸を躍らせながら、率直に答えた。
「私は、もっと速い曲が好き」
「速いって、テンポが?」
「ええ。ウサギが跳ねているような曲の方がいいわ」
「わかった、ありがとう」
アレクは、考え込むように眉を寄せた。
そして、メロディやリズムを変えつつ、試すように鍵盤を叩き出した。
クラリスは、ピアノに向かうアレクに、おずおずと尋ねた。
「アレク。私にできること、ほかにもある?」
「今は大丈夫」
アレクの言い方はそっけない。しかしクラリスは希望を持った。
彼は「今は」と言った。
またクラリスに意見を求めるかもしれない。
「わかったわ。じゃあ演奏会の依頼が来ていないか、見てくるわね」
「うん」
アレクはクラリスの顔を見ない。返事も必要最低限。
いつものアレクだ。
それでも、クラリスは無性にワクワクして、大好きな曲を──オペラの序曲を口ずさみながら、廊下へ出た。
そして3日後。
「クラリス、また曲を聞いてくれ」
アレクの誘いに、クラリスは「喜んで」と微笑んだ。
彼の用件は3日前と同じ。感想を教えてくれ、というものだった。
曲を聞いたクラリスは、また正直に答えた。
「テンポが速くて心地いいわ。でも、メロディはもっと明るい方が好き」
「わかった、ありがとう」
そんなやり取りを交わす日々が続き、1ヶ月が経ったある日。
アレクは、再び仕事部屋から出なくなった。
(感想を聞くのに飽きたのかしら)
クラリスは肩を落としたが、「諦めちゃ駄目」と気を取り直した。
(今度は、私から曲の話をしてみよう)
しかし、アレクは前にも増して冷たくなった。
仕事部屋に鍵をかけ、
「君は絶対に入らないでくれ。給仕はメイドに任せる」
と、口早にクラリスへ告げた。
クラリスは悩んだ。
何がいけなかったのか。
何を間違えたのか。
思い詰めた末、とうとう茶会で近況を漏らしてしまった。
話を聞いた貴婦人たちは、ウサギを見つけたキツネのように目を細めた。
「あの大天才に意見するなんて」
「あなた、彼のプライドを傷つけたのよ」
「いくら催促されても、『アレクの曲は最高』と言うべきだった」
「愛想を尽かされたのね、かわいそうに」
クラリスはあいまいに微笑み、黙っていた。
そして、帰りの馬車の中、声を殺して泣き続けた。
屋敷に帰ったクラリスを、老執事が出迎える。
十年以上アレクに仕える彼は、クラリスの腫れた目を見て、
「メイドに氷嚢を用意させます。お部屋でお待ちください」
と、静かに立ち去った。
淡々とした態度が、今のクラリスにはありがたかった。
クラリスは自室で着替えを済ませ、侍女とともにメイドを待った。
すると、ドタドタと乱暴な足音が聞こえてくる。
足音は、クラリスの部屋の前で止まった。
ドアが、ドンドンドン! と激しくノックされる。
「まあ、荒っぽいメイドですわね」
クラリスの侍女が、眉をひそめてドアを開けると。
「「えっ⁉︎」」
クラリスと侍女は同時に叫んだ。
ドアの前にいたのはアレクだった。
「旦那様──」
「クラリス、新作を聞いてくれ!」
アレクは、呆然とする侍女を押しのけると、ズカズカと部屋に入ってきた。
腕をつかまれたクラリスは、何も言えずに部屋を連れ出された。
廊下を歩いている間に、クラリスの驚きが冷めていく。
代わりに、熱湯のようなものがフツフツと沸いてきた。
「アレクッ!」
クラリスは怒鳴った。
そこでようやく、自分が腹を立てていることに気付いた。
いくら話しかけてもそっけなかったのに。
急に話しかけてきて。
そしてまた冷たくなって。
かと思えば、再び「曲を聞け」。
一体、夫は何がしたいのか。
クラリスは、ぽかんとしているアレクに詰め寄った。
「あなた、どうしてそうなの? いきなり現れて、仕事部屋へ連れて行くなんて。私の都合も考えてほしいわ」
「で、でも……いや、ごめん。そうだね。早く君を喜ばせたくて、つい」
「喜ばせたい?」
クラリスは責めるようにくり返した。
「私と食事もしなかったくせに、いきなり『曲を聞いてくれ』。それで私が喜ぶと思った?」
アレクの目が泳ぐ。彼は、ためらいがちにうなずいた。
クラリスは驚いた。怒りを忘れてアレクに尋ねた。
「本当に? 本当に、私を喜ばせようとしたの?」
クラリスの中に、今度は戸惑いが生まれる。
アレクはといえば、クラリスがなぜ怒っているのかわからないらしい。
さも不思議そうに話し出した。
「だって、君たちは僕の曲だけが好きなんだろう? 僕の曲がいいと思ったら『お前は素晴らしい』と言うけど、駄目だったら『お前はクズだ』って怒るじゃないか」
「え……?」
クラリスは、眉尻を下げるアレクを凝視した。
「誰が、そんなことを」
「僕の家族だけど……でも、みんな思ってる。そうだろ?」
唖然とするクラリスへ、アレクは困ったように続ける。
「陛下も姫も、領主様も、褒めるのは僕の曲だけだ。そして言うんだよ。『次はどんな曲を作るのか』って」
「次?」
クラリスの耳に、貴婦人たちの言葉がよみがえる。
『次の曲が楽しみ』
クラリスにとっては誇らしかった賞賛。
しかし、アレクは否定されたように感じていたのか。
求められているのは新曲だけ。
アレク自身は無価値だと。
クラリスは落ち込み、うつむいた。
自分はアレクの妻なのに。
彼の心に気付けなかった。
しかし、アレクは「でも」と嬉しそうに言った。
「クラリスは違った。男爵に──君のお父さんに聞いたんだ。君が僕の曲を、『何度も聞きたい』と言ったって。3年前に作ったオペラの序曲だ」
言われて、クラリスは思い返した。
そういえば、父に熱っぽく語った気がする。
「アレク、まさかあなた……私がみんなと違うことを言ったから、結婚しようと思った、なんてことは……」
「その通りだよ!」
アレクは、パァッと顔を輝かせた。
「この人だ! と思った。だから男爵に言ったんだ。屋敷に行って、『クラリスと結婚したいです』って。ずいぶんびっくりしてたけど」
「……その時、事前に訪問の約束をした?」
「そんな暇なかったよ。誰かに君を取られると思ったら、居ても立っても居られなかった」
クラリスの頭に、知らないはずの光景がありありと浮かんだ。
国王お気に入りの音楽家が、いきなり男爵邸へ押し入ってきて、「娘と結婚させろ」──
(それは、驚くでしょうね……)
父は、「アレクと結婚しろ!」と必死にクラリスへ訴えてきた。
その理由がわかった。
アレクの求婚を断れば、国王の怒りを買いかねない。
(お父様、すごい形相だったっけ)
思わずクラリスが笑うと、アレクはホッとしたように微笑んだ。
「僕は、ずっと怖かったんだ」
「怖かった?」
「そう。もし曲が作れなくなったら、みんなに嫌われてしまう。そのことが怖かった。でも……君は違うよね? 新しい曲ができなくても、僕を嫌いにならないだろ?」
「ええ、もちろん」
クラリスは微笑み返した。
そのあとは、あえて何も言わなかった。
演奏会の予定は、3年先まで埋まっている。
その先も予定は埋まり続けている。
アレクが曲を作れなくなっても、世間から見捨てられるまでに、何年かかることか。
そう言えば、アレクは安心するだろう。
(でも、今まで振り回されてきたんだもの……アレクの心をひとりじめしても、罰は当たらないわよね?)
アレクの「みんなに嫌われる」という勘違いは、消してあげられないが。
罪悪感が、クラリスの胸をチクリと刺す。
それをごまかすため、口を開く。
「曲を作れなくなっても、あなたを嫌いにならないけど。新曲ができたのなら聞きたいわ。何という曲なの?」
「『クラリス』だよ」
「えっ……私?」
「うん。君がオペラの序曲を気に入ってる、と聞いた時、曲を作りたくなったんだ。君のために」
アレクは言いながら、かすかに頬を染めた。
「そんなこと初めてだったから、うまくできるか心配で……完璧な作品ができるまで、内緒にしようと思ったんだけど」
いざ作り始めると、どのメロディもクラリスにふさわしいと思えず、ピアノを離れられなかったという。
だから、彼は部屋に閉じこもっていたのだ。
そして完成したものの。
クラリスが好む曲かどうか、不安になっていったらしい。
クラリスに感想を聞くことにした。
が、最後の調整は1人で集中したかった。そこで、クラリスを部屋から閉め出した。
クラリスがそばにいると気持ちがそわそわして、どうにも落ち着かないから。
アレクはそう語った。
「でも、君が泣いてるって執事に聞いたから。元気を出してほしくて、急いで曲を完成させたんだ」
「そうだったのね……ありがとう」
子どものようなアレクに、クラリスは笑みを浮かべた。
すると、アレクは首を傾げた。
「何言ってるんだよ。まだ曲を聞いてないだろ?」
「でも、悩んでくれたんでしょう? 私のために」
クラリスはそう言って、仕事部屋へ向かおうとした。
が、ふと思いつき、アレクを見上げた。
アレクの不安は消してあげれない。
けれど、彼の心は埋められるかもしれない。
「ねえ、アレク。曲を作ってくれたことも嬉しいんだけど、これからは一緒に食事したり、庭を散歩したりしたいわ」
「僕と散歩? どうしてそんなことがしたいんだ?」
「だって、私が結婚したのは、あなたの曲じゃなくてあなただもの」
茶会のたび、クラリスは誇らしい気持ちになった。
「クラリス、あなたがうらやましいわ」
「アレクの新曲を真っ先に聞けるんですもの」
「音楽家一族の中でも、突出した才能があるんですってね」
「陛下がご贔屓になさるのも当然だわ」
「次の曲も楽しみ」
誰もが、夫への賞賛を口にする。
婚姻は、クラリスの父が強引に推し進めた。
アレクと初めて会ったのは挙式当日。
訳もわからないまま、結婚生活が始まったが。
(大丈夫、私は幸せな結婚をしたのよ)
クラリスはそう考えながら、あるオペラの序曲を口ずさむのだった。
アレクの作品の中で、一番好きな曲を。
しかし、クラリスは次第に不満を募らせていった。
夫は大天才。音楽に情熱のすべてを注ぐ。
その情熱を人に向けることは、一切ない。
演奏会のない日は仕事部屋に閉じこもり、作曲ばかり。
話しかけるのはいつもクラリスから。
「最近、寒くなったわね。風邪をひいたりしてない? 羊毛の敷物を買いましょうか」
対するアレクの返事は──
「大丈夫、問題ない」
いつもそれだけ。
クラリスの口は重くなり、ついに食事時にしか声をかけなくなった。
「アレク、食事の時間よ」
クラリスは廊下から呼びかける。
今日こそ出てきてくれるのでは、と期待して。
しかし、返事はいつも同じ。
「いいメロディが浮かんだから行けない。ここへ持って来させてくれ」
「……わかりました」
せめて自分が給仕を──と、クラリスは食事を運ぶが。
「ありがとう」
アレクはそれだけ言って、クラリスを見もしない。
クラリスがそばにいても、お茶を淹れても、アレクは作曲の手を止めない。
クラリスはため息をついて、仕事部屋をあとにするしかなかった。
(ろくに夫と会話しないまま、私は人生を終えるのね)
そう考え始めた頃。
突然、アレクがクラリスの自室にやってきた。
「新作を聞いてほしい、一緒に来てくれ」
クラリスは目を丸くした。
驚きすぎて「はい」も「いいえ」も言えなかった。
嬉しいと感じる余裕もない。
ただ、呆気に取られていた。
立ち尽くすクラリスの手を、アレクは問答無用でつかむ。
彼はそのまま、無言で廊下へ出た。
クラリスは手を引かれながら、
(夢を見ているのかしら)
と、他人事のように思った。
仕事部屋に着くと、アレクはピアノの前にサッと座った。
「弾くよ」
アレクは、クラリスの返事を待たずに演奏を始めた。
ゆったりとした曲だった。
弾き終えると、アレクはクラリスを振り返った。
「どう思う?」
「どうって……」
クラリスは驚きながらも、何とか答えた。
「穏やかな曲ね。小川が流れているみたい」
それから、あのオペラの序曲に似ている。聞くだけで幸せになる、あの曲に。
クラリスの頭に、自然とその曲が流れ出す。
胸に喜びが湧いてくる。
──アレクが初めて話しかけてくれた。
クラリスは、我知らずアレクに笑いかけていた。
すると、アレクはなぜか目を泳がせた。
そして、クラリスがもっと驚くことを尋ねてきた。
「この曲、直すところはある?」
クラリスは仰天して、ぶんぶんと首を振った。
「まさか! 完璧よ。もし技術的なことが聞きたいなら、あなたのお父様に──」
「そうじゃなくて、感想を聞きたいんだ」
どうしてそんなことを言うのだろう。クラリスは首をかしげた。
天才と名高い音楽家が、素人に意見を求めるなんて。
(私をからかっているの?)
しかし、アレクの面持ちは真剣そのもの。
どうやら本気らしい。
(女性好みの曲を作りたい、とか? でも、どうして私なのかしら)
クラリスは不思議に思った。
サロンへ行けば、音楽通の貴婦人にいくらでも会えるのに。
だが、アレクと会話できるチャンスだ。
クラリスは胸を躍らせながら、率直に答えた。
「私は、もっと速い曲が好き」
「速いって、テンポが?」
「ええ。ウサギが跳ねているような曲の方がいいわ」
「わかった、ありがとう」
アレクは、考え込むように眉を寄せた。
そして、メロディやリズムを変えつつ、試すように鍵盤を叩き出した。
クラリスは、ピアノに向かうアレクに、おずおずと尋ねた。
「アレク。私にできること、ほかにもある?」
「今は大丈夫」
アレクの言い方はそっけない。しかしクラリスは希望を持った。
彼は「今は」と言った。
またクラリスに意見を求めるかもしれない。
「わかったわ。じゃあ演奏会の依頼が来ていないか、見てくるわね」
「うん」
アレクはクラリスの顔を見ない。返事も必要最低限。
いつものアレクだ。
それでも、クラリスは無性にワクワクして、大好きな曲を──オペラの序曲を口ずさみながら、廊下へ出た。
そして3日後。
「クラリス、また曲を聞いてくれ」
アレクの誘いに、クラリスは「喜んで」と微笑んだ。
彼の用件は3日前と同じ。感想を教えてくれ、というものだった。
曲を聞いたクラリスは、また正直に答えた。
「テンポが速くて心地いいわ。でも、メロディはもっと明るい方が好き」
「わかった、ありがとう」
そんなやり取りを交わす日々が続き、1ヶ月が経ったある日。
アレクは、再び仕事部屋から出なくなった。
(感想を聞くのに飽きたのかしら)
クラリスは肩を落としたが、「諦めちゃ駄目」と気を取り直した。
(今度は、私から曲の話をしてみよう)
しかし、アレクは前にも増して冷たくなった。
仕事部屋に鍵をかけ、
「君は絶対に入らないでくれ。給仕はメイドに任せる」
と、口早にクラリスへ告げた。
クラリスは悩んだ。
何がいけなかったのか。
何を間違えたのか。
思い詰めた末、とうとう茶会で近況を漏らしてしまった。
話を聞いた貴婦人たちは、ウサギを見つけたキツネのように目を細めた。
「あの大天才に意見するなんて」
「あなた、彼のプライドを傷つけたのよ」
「いくら催促されても、『アレクの曲は最高』と言うべきだった」
「愛想を尽かされたのね、かわいそうに」
クラリスはあいまいに微笑み、黙っていた。
そして、帰りの馬車の中、声を殺して泣き続けた。
屋敷に帰ったクラリスを、老執事が出迎える。
十年以上アレクに仕える彼は、クラリスの腫れた目を見て、
「メイドに氷嚢を用意させます。お部屋でお待ちください」
と、静かに立ち去った。
淡々とした態度が、今のクラリスにはありがたかった。
クラリスは自室で着替えを済ませ、侍女とともにメイドを待った。
すると、ドタドタと乱暴な足音が聞こえてくる。
足音は、クラリスの部屋の前で止まった。
ドアが、ドンドンドン! と激しくノックされる。
「まあ、荒っぽいメイドですわね」
クラリスの侍女が、眉をひそめてドアを開けると。
「「えっ⁉︎」」
クラリスと侍女は同時に叫んだ。
ドアの前にいたのはアレクだった。
「旦那様──」
「クラリス、新作を聞いてくれ!」
アレクは、呆然とする侍女を押しのけると、ズカズカと部屋に入ってきた。
腕をつかまれたクラリスは、何も言えずに部屋を連れ出された。
廊下を歩いている間に、クラリスの驚きが冷めていく。
代わりに、熱湯のようなものがフツフツと沸いてきた。
「アレクッ!」
クラリスは怒鳴った。
そこでようやく、自分が腹を立てていることに気付いた。
いくら話しかけてもそっけなかったのに。
急に話しかけてきて。
そしてまた冷たくなって。
かと思えば、再び「曲を聞け」。
一体、夫は何がしたいのか。
クラリスは、ぽかんとしているアレクに詰め寄った。
「あなた、どうしてそうなの? いきなり現れて、仕事部屋へ連れて行くなんて。私の都合も考えてほしいわ」
「で、でも……いや、ごめん。そうだね。早く君を喜ばせたくて、つい」
「喜ばせたい?」
クラリスは責めるようにくり返した。
「私と食事もしなかったくせに、いきなり『曲を聞いてくれ』。それで私が喜ぶと思った?」
アレクの目が泳ぐ。彼は、ためらいがちにうなずいた。
クラリスは驚いた。怒りを忘れてアレクに尋ねた。
「本当に? 本当に、私を喜ばせようとしたの?」
クラリスの中に、今度は戸惑いが生まれる。
アレクはといえば、クラリスがなぜ怒っているのかわからないらしい。
さも不思議そうに話し出した。
「だって、君たちは僕の曲だけが好きなんだろう? 僕の曲がいいと思ったら『お前は素晴らしい』と言うけど、駄目だったら『お前はクズだ』って怒るじゃないか」
「え……?」
クラリスは、眉尻を下げるアレクを凝視した。
「誰が、そんなことを」
「僕の家族だけど……でも、みんな思ってる。そうだろ?」
唖然とするクラリスへ、アレクは困ったように続ける。
「陛下も姫も、領主様も、褒めるのは僕の曲だけだ。そして言うんだよ。『次はどんな曲を作るのか』って」
「次?」
クラリスの耳に、貴婦人たちの言葉がよみがえる。
『次の曲が楽しみ』
クラリスにとっては誇らしかった賞賛。
しかし、アレクは否定されたように感じていたのか。
求められているのは新曲だけ。
アレク自身は無価値だと。
クラリスは落ち込み、うつむいた。
自分はアレクの妻なのに。
彼の心に気付けなかった。
しかし、アレクは「でも」と嬉しそうに言った。
「クラリスは違った。男爵に──君のお父さんに聞いたんだ。君が僕の曲を、『何度も聞きたい』と言ったって。3年前に作ったオペラの序曲だ」
言われて、クラリスは思い返した。
そういえば、父に熱っぽく語った気がする。
「アレク、まさかあなた……私がみんなと違うことを言ったから、結婚しようと思った、なんてことは……」
「その通りだよ!」
アレクは、パァッと顔を輝かせた。
「この人だ! と思った。だから男爵に言ったんだ。屋敷に行って、『クラリスと結婚したいです』って。ずいぶんびっくりしてたけど」
「……その時、事前に訪問の約束をした?」
「そんな暇なかったよ。誰かに君を取られると思ったら、居ても立っても居られなかった」
クラリスの頭に、知らないはずの光景がありありと浮かんだ。
国王お気に入りの音楽家が、いきなり男爵邸へ押し入ってきて、「娘と結婚させろ」──
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その理由がわかった。
アレクの求婚を断れば、国王の怒りを買いかねない。
(お父様、すごい形相だったっけ)
思わずクラリスが笑うと、アレクはホッとしたように微笑んだ。
「僕は、ずっと怖かったんだ」
「怖かった?」
「そう。もし曲が作れなくなったら、みんなに嫌われてしまう。そのことが怖かった。でも……君は違うよね? 新しい曲ができなくても、僕を嫌いにならないだろ?」
「ええ、もちろん」
クラリスは微笑み返した。
そのあとは、あえて何も言わなかった。
演奏会の予定は、3年先まで埋まっている。
その先も予定は埋まり続けている。
アレクが曲を作れなくなっても、世間から見捨てられるまでに、何年かかることか。
そう言えば、アレクは安心するだろう。
(でも、今まで振り回されてきたんだもの……アレクの心をひとりじめしても、罰は当たらないわよね?)
アレクの「みんなに嫌われる」という勘違いは、消してあげられないが。
罪悪感が、クラリスの胸をチクリと刺す。
それをごまかすため、口を開く。
「曲を作れなくなっても、あなたを嫌いにならないけど。新曲ができたのなら聞きたいわ。何という曲なの?」
「『クラリス』だよ」
「えっ……私?」
「うん。君がオペラの序曲を気に入ってる、と聞いた時、曲を作りたくなったんだ。君のために」
アレクは言いながら、かすかに頬を染めた。
「そんなこと初めてだったから、うまくできるか心配で……完璧な作品ができるまで、内緒にしようと思ったんだけど」
いざ作り始めると、どのメロディもクラリスにふさわしいと思えず、ピアノを離れられなかったという。
だから、彼は部屋に閉じこもっていたのだ。
そして完成したものの。
クラリスが好む曲かどうか、不安になっていったらしい。
クラリスに感想を聞くことにした。
が、最後の調整は1人で集中したかった。そこで、クラリスを部屋から閉め出した。
クラリスがそばにいると気持ちがそわそわして、どうにも落ち着かないから。
アレクはそう語った。
「でも、君が泣いてるって執事に聞いたから。元気を出してほしくて、急いで曲を完成させたんだ」
「そうだったのね……ありがとう」
子どものようなアレクに、クラリスは笑みを浮かべた。
すると、アレクは首を傾げた。
「何言ってるんだよ。まだ曲を聞いてないだろ?」
「でも、悩んでくれたんでしょう? 私のために」
クラリスはそう言って、仕事部屋へ向かおうとした。
が、ふと思いつき、アレクを見上げた。
アレクの不安は消してあげれない。
けれど、彼の心は埋められるかもしれない。
「ねえ、アレク。曲を作ってくれたことも嬉しいんだけど、これからは一緒に食事したり、庭を散歩したりしたいわ」
「僕と散歩? どうしてそんなことがしたいんだ?」
「だって、私が結婚したのは、あなたの曲じゃなくてあなただもの」
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