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師である魔法使いを待ち続ける娘と、その娘に恋をした弟子の話
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昔々、大きな地割れの周りに、広々とした森があった。
森には小さな村が点在し、奥深くには家が1軒。
魔法使いの弟子と、その弟子が住んでいた。
魔法使いの弟子は、クレアという美しい娘。
クレアの弟子は、シオンという愛くるしい少年。
身寄りのない2人は、村人の依頼をこなしては食べ物をもらい、細々と暮らしていた。
ある日、シオンは不安そうにクレアへ言った。
「先生、また家が狭くなった気がします」
シオンがクレアに拾われてから5年。
主人である魔法使いは、一度も帰ってこなかった。
その間に、家は日ごと小さくなり、寂れていった。
「僕が大人になる頃には、天井に頭をぶつけちゃうかも。魔法使い様はいつ帰ってきますか?」
問われたクレアは困ったように笑った。
「わからないわ。でも、きっと戻ってくる。だから、それまで私たちがここを守らなくちゃ。ここは特別な家だもの」
魔法使いの家は、意思を持つ家。
住む者が強大な魔法を使う時、家はその者を主人と見なし、「魔法使い」だと認める。
その時、家はたちまち立派な建造物へと変貌する。
今の小ぢんまりとした一軒家ではなく。
「魔法使い様、早く帰ってこないかな」
シオンは口を尖らせた。
「そうしたら、床の穴をふさぎ直さなくていいし。井戸にも水が戻るかも。遠くまで汲みに行くの、疲れるもん」
「そうね」
クレアは、頭半分背の低いシオンに近付き、そっと肩を抱いた。
「だから、早く帰ってくるようにお祈りしましょう。2人で一緒に」
「はい、先生」
シオンは素直にうなずいた。
みなしごの自分を拾ったクレアが、嘘をつくはずがない。
そう信じていたから。
しかし、1年経っても2年経っても、魔法使いは帰らない。
シオンはすくすくと成長し、クレアはますます美しくなった。
その間にシオンは、クレアを恋い慕うようになった。
クレアはシオンと共に森を歩き、たくさんの魔法を教えてくれた。
眠る時には頭をなでてくれた。
そして、朝が来るとこう言った。
「今日は何をしようか。2人で一緒に」
クレアはいつも温かな微笑みを浮かべていた。
しかし、ふとした瞬間。
彼女はどこか遠くを見つめては、切なげにため息をついた。
それを見るたびシオンは、
(先生は魔法使い様を待ちわびているんだな)
と、迷子のような気持ちになった。
クレアは赤子の時、魔法使いに拾われたという。
シオンがクレアを慕うよりも、クレアは魔法使いを慕っているはず。
魔法使いが帰ってくれば、彼女は泣いて喜ぶだろう。
もう暗い顔をしなくなるだろう。
わかっている。
わかっているのに。
いつしかシオンは、その時が来ないことを願うようになった。
そんなある日、シオンは巨大な地割れへと向かった。
地割れのそばにある、小さな村を訪ねるために。
「ヤギたちの具合を診てほしい」
村人にそう乞われていた。
本当はクレアの仕事だった。
しかし、国王から急ぎの依頼を受けて、彼女は王都へ向かった。
そこで、このあたりでは唯一魔法を使えるシオンがヤギを任されたのだ。
1人で魔法を使うのは初めてだった。
シオンは、緊張しながら仕事に取りかかった。
1匹、また1匹。
丹念にヤギの体を調べていく。
虫に寄生されたヤギがいたものの、外から虫を破壊し、事なきを得る。
「よし、終わり!」
完璧だ。
きっとクレアは褒めてくれる。
お祝いしようと言ってくれる。
「2人で一緒に」と。
シオンがひたいの汗をぬぐうと、誰かが声をかけてきた。
「ずいぶん早かったのう。さすが、優秀な魔法使いのお弟子さんじゃ」
穏やかに微笑むのは村の長老だ。
シオンは慌てて首を振った。
「俺は魔法使い様の弟子じゃなくて、クレア先生の弟子なんです」
「ん? ということは……もしかして、あの娘はまだ魔法使いじゃないのかい?」
「……はい。強力な魔法を示せないと、家に認めてもらえませんから」
シオンは少しためらいながら言った。
クレアがいまだに「魔法使い」でないのは、力不足だから。
そう思っていた。
すると、長老はあごをなでながら不思議そうに言った。
「おかしいのう。クレアは、亡くなった先代より強い力を持っておるのに。そうでなかったら王様がお召しになるはずがない」
「……えっ?」
数秒、シオンは呆然としていた。
疑問が頭の中にあふれ返り、口からこぼれた。
「ど、どういうことですか⁉︎」
シオンは長老に詰め寄った。
「魔法使い様は、もう亡くなっているんですか?」
「そうじゃよ。知らなかったのかい? 先代の魔法使いは、この村を襲った地震を止めてくれたんじゃ」
そう言うと長老は、悲しそうな目で地割れの方を見やった。
「地震はなかなか収まらなかった。地が裂け、瞬く間に広がって、周りの村ごと森をのみ込もうとした。それを食い止めてくれたのが、この森にいた魔法使いじゃ。地割れの中へ、その身を投げ打ってのう」
言葉を失うシオンへ、長老は語り続ける。
「彼は最期に言っておった……『私がおらずともクレアがいる。私をしのぐあの娘が次の魔法使いとなり、この国を支えるだろう』と」
長老が口をつぐむと同時に、シオンは村の外へと走った。
何度もつまずきながら、森の奥へ奥へと駆け、屋根のひしゃげた魔法使いの家に転がり込んだ。
「どうしたの、そんなに慌てて!」
先に帰っていたクレアは目を見開き、シオンのもとへ駆け寄ってきた。
シオンは切れ切れの息の合間を縫い、彼女に尋ねた。
「先生は、魔法使い様が亡くなっていることを、ご存知でしたか」
一瞬、クレアの顔が明らかに強張った。
けれどすぐに、
「何を言っているの? あの人は生きてるわ。だって死体が見つからないんだもの」
と、いつものように微笑んだ。
その瞳が揺れたことに気付きながら、シオンはまた口を開いた。
「では、質問を変えます。先生は、どうして魔法使いにならないんですか。あなたの師より強い力を持っているのに」
また、クレアの瞳が揺れた。
「魔法使いの家に住める主人は、1人だけなのよ。私がここの魔法使いになってしまったら、あの人はもう帰ってこないわ」
「先生……」
「あの人、いつもそう言ってたの。『クレアがここの主人になったら、私は旅に出るよ』って。『老いゆく者は去るのが賢明だ』って。でも、今の家を見たらここにいてくれるはずよ。私は力不足だってわかってくれる。だから、あの人が戻ってくるまで待ちましょう──」
「クレア先生!」
シオンは拳を握って訴えた。
「魔法使い様は、もう、帰ってこないんです!」
彼女にわかってほしかった。
認めてほしかった。
魔法使いの死を。
クレアを慕う自分を。
もう自分は子どもではない。
背もクレアを追い越している。
一緒に待つのではなく、「一緒に生きていこう」とクレアに言ってほしかった。
しかし、クレアは静かに目元をぬぐって、
「これ以上、その話をしたくない」
と、家を出てしまった。
シオンはすぐに追いかけたが、クレアが魔法を使ったらしい。
木々の間には濃い霧が立ち込めていた。
シオンは急いで呪文を唱え、霧を払ったが、クレアの姿はどこにもなかった。
シオンは仕方なく家に入った。
そして待った。
寝台に腰かけ、身じろぎもしなかった。
日が落ちても灯りをつけず、夜の闇が降りた中、クレアの帰りをじっと待った。
それでもクレアは戻らない。
シオンは考えた。
(どうすれば先生は納得してくれるんだろう)
考えて、考えて、月が高くのぼる頃。
「そうだ!」
と、はじけるように立ち上がった。
(俺が魔法使いになれば、先生もきっと諦めてくれる)
シオンは家を飛び出した。
草をかき分け、枯れ井戸の前に立つ。
(この井戸をよみがえらせよう)
土を掘り、川から水を引いてこようか。
いや、距離がある。
土を削りすぎると森が崩れるかもしれない。
(それなら……尽きない水塊を井戸の底につくろう)
とても難しい魔法だ。
だからこそ成功させれば、家はきっと認めてくれる。
シオンは呪文を唱えた。
長い長い呪文を。
一瞬でも気を抜けば暴発して、シオンも家も吹き飛ばされてしまう。
だから一言ずつ、一音ずつ、ゆっくりと呪文を唱えた。
月と星々がめぐり、真っ黒な夜空が薄青に染まる頃。
シオンは呪文を唱え終えた。
汗だくでふらつきながら井戸の底を覗くと、大きな水塊が揺らいでいるのが見えた。
(やった……!)
疲労が、瞬時に達成感へ変わる。
(これで俺は魔法使いになれる! 先生も認めてくれるはずだ!)
シオンは待った。
が、何も起こらない。
そんな馬鹿な。
わずかな変化も見落すものか。
神経を研ぎ澄ませて──異変に、気付いた。
井戸の底から水がどんどんあふれてくる。
魔法は完成した。しかし、力を注ぎすぎた。
「止まれ! 止まれ!」
シオンは必死に命じたが、魔法はすでに暴走を始めている。
水塊は井戸の中で増大し、猛る龍のような速さで地上へあふれ出た。
シオンは逃げる間もなく水に飲まれた。
水の中は穏やかだった。
だが量が多すぎる。
外へ出られない。
息ができない。
シオンは空気を求めてもがいた。
そうしながら、かすかな声を聞いた。
魔法を消す言葉だ。
呪文は短いが、元の魔法よりも強い力が必要となる。
(でも、この水塊を消せるほどの人なんて、もうクレア先生しか……)
そのクレアはどこかへ行ってしまった。
魔法の暴発には気付いたかもしれないが、まだシオンを怒っているはず。
戻ってくるとは思えない。
諦めてうなだれたシオンの手を、突然細い指がつかんだ。
次の瞬間、水塊がはじけた。
シオンは、泥状の地面に倒れ込んだ。
全力疾走したあとのように、懸命に息をした。
はじけた水が、横たわるシオンの上へ雨となって降り注ぐ。
その雨からシオンを守るように、誰かが覆いかぶさってきた。
「シオン」
涙声がシオンを呼ぶ。
毎日聞いていた優しい声。
自分を拾ってくれた人の声。
シオンは信じられない心地で口を開いた。
「クレア先生?」
名を呼ぶと、クレアはシオンを抱きしめた。
「もう駄目かと思った……こんな無茶しないで、お願い」
「先生、どうして……」
シオンは呆然と呟いた。
クレアは師を待っていた。
だから強い魔法を使わず、魔法使いになろうとしなかった。
何年もの間、ずっと。
なのになぜ、今になって強大な魔法を使ってしまったのか。
問おうとしたシオンを、クレアはますます強く抱きしめる。
「私、わかったの。シオンがいたから笑ってあの人を待てた。2人だったから寂しくなかった。あなたと一緒だったから。あなたがいてくれたから……」
そのあとの言葉は、クレアのしゃくりあげる声に消されてしまった。
シオンは、なぐさめるようにクレアの髪をなでた。
クレアの手よりも大きな手で。
雨は次第に水塊となり、井戸の底へ降りていった。
クレアは水塊を壊すと同時に、新たな水塊をも作っていた。
長い長い呪文もなしに。
それは、先代には決して成し得ない魔法だった。
クレアの涙が止まった頃。
シオンはクレアを立たせ、2人で井戸の底を覗いた。
木々の間から差す光に、水塊がきらめいていた。
そして、森の中できらめくものがもう一つ。
シオンとクレアは息を詰めて、それを仰ぎ見た。
なめらかな白い壁には、花の形の窓が並んでいる。
槍のように突き出す塔は、森一番の大きな木を超えている。
崩れそうな小屋があった場所には、魔法使いの家──いや、巨城がそびえていた。
昔々、大きな地割れの周りに、小さな村々と深い森があった。
森の奥には白亜の城。
魔法使いの娘と、その弟子の青年が住んでいた。
2人で一緒に。
森には小さな村が点在し、奥深くには家が1軒。
魔法使いの弟子と、その弟子が住んでいた。
魔法使いの弟子は、クレアという美しい娘。
クレアの弟子は、シオンという愛くるしい少年。
身寄りのない2人は、村人の依頼をこなしては食べ物をもらい、細々と暮らしていた。
ある日、シオンは不安そうにクレアへ言った。
「先生、また家が狭くなった気がします」
シオンがクレアに拾われてから5年。
主人である魔法使いは、一度も帰ってこなかった。
その間に、家は日ごと小さくなり、寂れていった。
「僕が大人になる頃には、天井に頭をぶつけちゃうかも。魔法使い様はいつ帰ってきますか?」
問われたクレアは困ったように笑った。
「わからないわ。でも、きっと戻ってくる。だから、それまで私たちがここを守らなくちゃ。ここは特別な家だもの」
魔法使いの家は、意思を持つ家。
住む者が強大な魔法を使う時、家はその者を主人と見なし、「魔法使い」だと認める。
その時、家はたちまち立派な建造物へと変貌する。
今の小ぢんまりとした一軒家ではなく。
「魔法使い様、早く帰ってこないかな」
シオンは口を尖らせた。
「そうしたら、床の穴をふさぎ直さなくていいし。井戸にも水が戻るかも。遠くまで汲みに行くの、疲れるもん」
「そうね」
クレアは、頭半分背の低いシオンに近付き、そっと肩を抱いた。
「だから、早く帰ってくるようにお祈りしましょう。2人で一緒に」
「はい、先生」
シオンは素直にうなずいた。
みなしごの自分を拾ったクレアが、嘘をつくはずがない。
そう信じていたから。
しかし、1年経っても2年経っても、魔法使いは帰らない。
シオンはすくすくと成長し、クレアはますます美しくなった。
その間にシオンは、クレアを恋い慕うようになった。
クレアはシオンと共に森を歩き、たくさんの魔法を教えてくれた。
眠る時には頭をなでてくれた。
そして、朝が来るとこう言った。
「今日は何をしようか。2人で一緒に」
クレアはいつも温かな微笑みを浮かべていた。
しかし、ふとした瞬間。
彼女はどこか遠くを見つめては、切なげにため息をついた。
それを見るたびシオンは、
(先生は魔法使い様を待ちわびているんだな)
と、迷子のような気持ちになった。
クレアは赤子の時、魔法使いに拾われたという。
シオンがクレアを慕うよりも、クレアは魔法使いを慕っているはず。
魔法使いが帰ってくれば、彼女は泣いて喜ぶだろう。
もう暗い顔をしなくなるだろう。
わかっている。
わかっているのに。
いつしかシオンは、その時が来ないことを願うようになった。
そんなある日、シオンは巨大な地割れへと向かった。
地割れのそばにある、小さな村を訪ねるために。
「ヤギたちの具合を診てほしい」
村人にそう乞われていた。
本当はクレアの仕事だった。
しかし、国王から急ぎの依頼を受けて、彼女は王都へ向かった。
そこで、このあたりでは唯一魔法を使えるシオンがヤギを任されたのだ。
1人で魔法を使うのは初めてだった。
シオンは、緊張しながら仕事に取りかかった。
1匹、また1匹。
丹念にヤギの体を調べていく。
虫に寄生されたヤギがいたものの、外から虫を破壊し、事なきを得る。
「よし、終わり!」
完璧だ。
きっとクレアは褒めてくれる。
お祝いしようと言ってくれる。
「2人で一緒に」と。
シオンがひたいの汗をぬぐうと、誰かが声をかけてきた。
「ずいぶん早かったのう。さすが、優秀な魔法使いのお弟子さんじゃ」
穏やかに微笑むのは村の長老だ。
シオンは慌てて首を振った。
「俺は魔法使い様の弟子じゃなくて、クレア先生の弟子なんです」
「ん? ということは……もしかして、あの娘はまだ魔法使いじゃないのかい?」
「……はい。強力な魔法を示せないと、家に認めてもらえませんから」
シオンは少しためらいながら言った。
クレアがいまだに「魔法使い」でないのは、力不足だから。
そう思っていた。
すると、長老はあごをなでながら不思議そうに言った。
「おかしいのう。クレアは、亡くなった先代より強い力を持っておるのに。そうでなかったら王様がお召しになるはずがない」
「……えっ?」
数秒、シオンは呆然としていた。
疑問が頭の中にあふれ返り、口からこぼれた。
「ど、どういうことですか⁉︎」
シオンは長老に詰め寄った。
「魔法使い様は、もう亡くなっているんですか?」
「そうじゃよ。知らなかったのかい? 先代の魔法使いは、この村を襲った地震を止めてくれたんじゃ」
そう言うと長老は、悲しそうな目で地割れの方を見やった。
「地震はなかなか収まらなかった。地が裂け、瞬く間に広がって、周りの村ごと森をのみ込もうとした。それを食い止めてくれたのが、この森にいた魔法使いじゃ。地割れの中へ、その身を投げ打ってのう」
言葉を失うシオンへ、長老は語り続ける。
「彼は最期に言っておった……『私がおらずともクレアがいる。私をしのぐあの娘が次の魔法使いとなり、この国を支えるだろう』と」
長老が口をつぐむと同時に、シオンは村の外へと走った。
何度もつまずきながら、森の奥へ奥へと駆け、屋根のひしゃげた魔法使いの家に転がり込んだ。
「どうしたの、そんなに慌てて!」
先に帰っていたクレアは目を見開き、シオンのもとへ駆け寄ってきた。
シオンは切れ切れの息の合間を縫い、彼女に尋ねた。
「先生は、魔法使い様が亡くなっていることを、ご存知でしたか」
一瞬、クレアの顔が明らかに強張った。
けれどすぐに、
「何を言っているの? あの人は生きてるわ。だって死体が見つからないんだもの」
と、いつものように微笑んだ。
その瞳が揺れたことに気付きながら、シオンはまた口を開いた。
「では、質問を変えます。先生は、どうして魔法使いにならないんですか。あなたの師より強い力を持っているのに」
また、クレアの瞳が揺れた。
「魔法使いの家に住める主人は、1人だけなのよ。私がここの魔法使いになってしまったら、あの人はもう帰ってこないわ」
「先生……」
「あの人、いつもそう言ってたの。『クレアがここの主人になったら、私は旅に出るよ』って。『老いゆく者は去るのが賢明だ』って。でも、今の家を見たらここにいてくれるはずよ。私は力不足だってわかってくれる。だから、あの人が戻ってくるまで待ちましょう──」
「クレア先生!」
シオンは拳を握って訴えた。
「魔法使い様は、もう、帰ってこないんです!」
彼女にわかってほしかった。
認めてほしかった。
魔法使いの死を。
クレアを慕う自分を。
もう自分は子どもではない。
背もクレアを追い越している。
一緒に待つのではなく、「一緒に生きていこう」とクレアに言ってほしかった。
しかし、クレアは静かに目元をぬぐって、
「これ以上、その話をしたくない」
と、家を出てしまった。
シオンはすぐに追いかけたが、クレアが魔法を使ったらしい。
木々の間には濃い霧が立ち込めていた。
シオンは急いで呪文を唱え、霧を払ったが、クレアの姿はどこにもなかった。
シオンは仕方なく家に入った。
そして待った。
寝台に腰かけ、身じろぎもしなかった。
日が落ちても灯りをつけず、夜の闇が降りた中、クレアの帰りをじっと待った。
それでもクレアは戻らない。
シオンは考えた。
(どうすれば先生は納得してくれるんだろう)
考えて、考えて、月が高くのぼる頃。
「そうだ!」
と、はじけるように立ち上がった。
(俺が魔法使いになれば、先生もきっと諦めてくれる)
シオンは家を飛び出した。
草をかき分け、枯れ井戸の前に立つ。
(この井戸をよみがえらせよう)
土を掘り、川から水を引いてこようか。
いや、距離がある。
土を削りすぎると森が崩れるかもしれない。
(それなら……尽きない水塊を井戸の底につくろう)
とても難しい魔法だ。
だからこそ成功させれば、家はきっと認めてくれる。
シオンは呪文を唱えた。
長い長い呪文を。
一瞬でも気を抜けば暴発して、シオンも家も吹き飛ばされてしまう。
だから一言ずつ、一音ずつ、ゆっくりと呪文を唱えた。
月と星々がめぐり、真っ黒な夜空が薄青に染まる頃。
シオンは呪文を唱え終えた。
汗だくでふらつきながら井戸の底を覗くと、大きな水塊が揺らいでいるのが見えた。
(やった……!)
疲労が、瞬時に達成感へ変わる。
(これで俺は魔法使いになれる! 先生も認めてくれるはずだ!)
シオンは待った。
が、何も起こらない。
そんな馬鹿な。
わずかな変化も見落すものか。
神経を研ぎ澄ませて──異変に、気付いた。
井戸の底から水がどんどんあふれてくる。
魔法は完成した。しかし、力を注ぎすぎた。
「止まれ! 止まれ!」
シオンは必死に命じたが、魔法はすでに暴走を始めている。
水塊は井戸の中で増大し、猛る龍のような速さで地上へあふれ出た。
シオンは逃げる間もなく水に飲まれた。
水の中は穏やかだった。
だが量が多すぎる。
外へ出られない。
息ができない。
シオンは空気を求めてもがいた。
そうしながら、かすかな声を聞いた。
魔法を消す言葉だ。
呪文は短いが、元の魔法よりも強い力が必要となる。
(でも、この水塊を消せるほどの人なんて、もうクレア先生しか……)
そのクレアはどこかへ行ってしまった。
魔法の暴発には気付いたかもしれないが、まだシオンを怒っているはず。
戻ってくるとは思えない。
諦めてうなだれたシオンの手を、突然細い指がつかんだ。
次の瞬間、水塊がはじけた。
シオンは、泥状の地面に倒れ込んだ。
全力疾走したあとのように、懸命に息をした。
はじけた水が、横たわるシオンの上へ雨となって降り注ぐ。
その雨からシオンを守るように、誰かが覆いかぶさってきた。
「シオン」
涙声がシオンを呼ぶ。
毎日聞いていた優しい声。
自分を拾ってくれた人の声。
シオンは信じられない心地で口を開いた。
「クレア先生?」
名を呼ぶと、クレアはシオンを抱きしめた。
「もう駄目かと思った……こんな無茶しないで、お願い」
「先生、どうして……」
シオンは呆然と呟いた。
クレアは師を待っていた。
だから強い魔法を使わず、魔法使いになろうとしなかった。
何年もの間、ずっと。
なのになぜ、今になって強大な魔法を使ってしまったのか。
問おうとしたシオンを、クレアはますます強く抱きしめる。
「私、わかったの。シオンがいたから笑ってあの人を待てた。2人だったから寂しくなかった。あなたと一緒だったから。あなたがいてくれたから……」
そのあとの言葉は、クレアのしゃくりあげる声に消されてしまった。
シオンは、なぐさめるようにクレアの髪をなでた。
クレアの手よりも大きな手で。
雨は次第に水塊となり、井戸の底へ降りていった。
クレアは水塊を壊すと同時に、新たな水塊をも作っていた。
長い長い呪文もなしに。
それは、先代には決して成し得ない魔法だった。
クレアの涙が止まった頃。
シオンはクレアを立たせ、2人で井戸の底を覗いた。
木々の間から差す光に、水塊がきらめいていた。
そして、森の中できらめくものがもう一つ。
シオンとクレアは息を詰めて、それを仰ぎ見た。
なめらかな白い壁には、花の形の窓が並んでいる。
槍のように突き出す塔は、森一番の大きな木を超えている。
崩れそうな小屋があった場所には、魔法使いの家──いや、巨城がそびえていた。
昔々、大きな地割れの周りに、小さな村々と深い森があった。
森の奥には白亜の城。
魔法使いの娘と、その弟子の青年が住んでいた。
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