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第10章 陽だまりは勇ましく
47話
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命を絶った時の想いなど呼び起こせないくらい、私は貴方に堕ちていたのに———。厘の体温から遠ざかるなか、幸は河川敷での長い日々を思い返していた。
孤独を望んで死を選んだはずなのに、一向に飛び立てない日々。
どうして。どうして。どうして。
首元が異様に伸び切った後の、酷く醜い自分の死体を俯瞰したときから、虚しさが募って離れない。死に場所に選んだ河川敷から、放れられない。
———『幸子。ほらぁ、見て。シロツメクサの王冠。可愛いでしょう?』
たぶん、あの記憶のせいだ。
器用に縫った花の冠を、娘ではなく自分に被せて微笑む女。いつでも自分本意で、男に愛されることがすべてだった母親。彼女はいつでも、自分の人生で忙しかった。
幸せな子、幸子———。そう名付けた彼女の思考に吐き気を催すようになったのは、物心がついてすぐのこと。
あれは、遠足だったか。友だちが幸せそうに紡いだ花冠を、容赦なく引きちぎり壊したのも、ちょうどその頃だった。初めて出来た友だちだった。花は、シロツメクサだった。
“わたしを思って”
その花言葉を知った放課後。幸は友だちの友だちと、さらにその友だちに殴られ、蹴られ。血にまみれた口で高笑いした。一見殊勝に思える言葉も、あの女が思い浮かぶだけでこうも卑しいものなのか、と。
———『幸子の一番は、お母さんでしょ?だってほら。友だちはすぐにあなたを傷付けるじゃない』
『あなたの一番は、いつだって私じゃないのに』
初めて声に出したとき、幸の首はすでに縄に掛かっていた。
もう、あの女の呪いから解放してよ。独りにしてよ。
思っていたはずなのに、霊魂はその場に留まり続けて動かない。代わりに、歪な死体に触れようともしない母親を前に、虚無感がまとわりついた。呪いはいつまで続くのか、と。毎日毎日、天を仰いだ。
早く連れて行って。お願い、早く———。そう願っていた日々を変えたのが、貴方だった。たった一人、貴方だったよ、厘。
<シロツメクサ……じゃあ、ない……?>
月明りに照らされた、白い花弁。大嫌いな花と同じ色をしているはずなのに、雰囲気は妖艶としていて美しい。透き通ったその花弁に、不本意にも、触れたくなった。
<ねぇ、貴方って普通のお花じゃないんでしょ>
しかし、どう頑張っても霊の姿では触れられない。
<この地に宿っている命の気配、私、なんとなく分かるようになってきたの>
それなのに、月夜のたびに魅せられて、思いは募るばかりだった。虚しさなど消え失せてしまうくらい、欲望に満たされた。
貴方と一緒なら、きっと私は彼の世へ逝ける。
そう確信して、幸は瘴気をその花に注いだ。そばにある草木はすぐに朽ち果てたというのに、なかなか精気を減らさない。そんな凛々しさに、幸の高揚感はますます拍車を掛けられ、恋心と呼ぶに等しい感情へと育っていった。
『あのね、岬。お母さん、この子がピンチだったから救ってあげたんだ』
しかし、花籠宇美が現れた瞬間。厘を失った瞬間。幸にはとある感情が沸々と蘇った。忘れかけていた、母親という名の女の影。
せっかく手に入れた嗜好を、私はまた “母親” という卑しい存在に奪われるのか。そんなの嫌だ。呪ってやる。お前がダメなら、その娘。絶対、絶対許さない。厘は手放してしまったけれど、しかしまだ———。
瘴気のおかげか、宇美の霊力は疲労していた。幸は執念の渦を巻き、宇美の疲労に付け込んで、娘の扉をこじ開けた。そのまま憑依を済ませて、厘を奪うつもりだった。ずっと触れたかったその花弁に、触れられるはずだった。
『岬、大丈夫だよ。大丈夫だからね』
しかし、それは叶わなかった。全て、宇美が霊力で施した “膜” のせいだと分かった。岬を守るために張られた、幸のみを拒む見えない壁。近づこうとすれば、押し寄せる波が体を拒む。
目には目を、歯には歯を。と、言わんばかり。自分の力だけでは多種多様な霊力には敵わない、と宇美は悟っているようだった。敵意を向ける幸だけを拒むことは、効率的かつ懸命な判断だ。称えながら、幸は唇を噛み締めた。
卑しい。卑しい。卑しい……。
憑依に侵されながらも、鈴蘭の香りで再び目を醒ます小娘。見据えながら、幸は何度も歯を食いしばった。あるはずのない痛みが、体中を締め付けた。
『……お母さん?』
———だから、花籠宇美が朽ち果てたとき。久しぶりに高笑いをした。これで、いつでもあの娘を朽ち果てさせることができる。いつでも、厘に触れられる。そう踏んだ。
『阿呆、勝手に逝くな』
しかし、幸には再び衝撃が走った。
人の姿に形を変えた彼はあまりにも麗しく、同時に穢らわしい。なぜなら、澄んだあの瞳には、岬のみを映している。そう悟ったとき、幸は厘を殺すことを心に決めた。
すべては思い通り。否、それ以上だった。
霊にとって都合のいい噂を吹き込めば、簡単に岬を操ってくれる。ひょんなきっかけで悪霊までもを身に憑けてくれた娘に、謝辞を述べたいくらいだった。厘を追いやってくれてありがとう、と。
霊力の強いモノが憑けば、心もとない扉の枷はより脆くなっていく。霊の入れ替わりが激しくなり、併せて厘の精気も矢継ぎ早に減っていく。これほどに愉しい日々は、久しかった。
もうすぐ、貴方と逝けると思ったから。最期はもちろん、この私と一緒に。
絶対に叶うはずだった。母親と違って霊感もない。拒む強さもない。お人好しで、自分を穢す勇気もない。……憑依体質と化した彼女は、あんなにも弱いのだから。———それなのに、
『幸。ねぇ、お願い。私から……出て行って』
どうして。どうして。……どうして……?
厘から精気を吸い上げながらも、ドクドクと脈が暴れ出す。血管がはち切れそうなほど、強く、強く。
瞬間、幸の脳裏に過ったのは、この世で一番嫌いだった女の声だった。
———『ごめんね。ごめんね、幸子……私のせいで、私のせいで』
大嫌いな、母親の声だった。
……ああ。どうせここから追い出されるのなら、最後は厘の声が良かったのに。
『勘違いしないで。……あなたのせいなんかじゃない』
名残惜しい低体温。鼻孔をくすぐる可憐な香り。ふわりと宙へ浮き始めた意識を自覚しながら、幸は呟いた。
私はどうやら、愛することにも、愛されることにも、ずっと手は届かないらしい。生きていても、———死んでいても。
でも、河川敷での日々は悪くなかった。たったひとつの光を見つけられた。母親以外の人間をあんなに憎んだのも、初めてだった。それほどに、貴方を愛してしまった。
『さようなら。厘』
きっと、私。ただ、誰かの一番になりたかった。今更気がついても、もう遅いのに。———幸は天に向かって、笑みを零す。
『次はもっと、強く呪ってあげるから』
言い残した幸の瞳には、シロツメクサが揺れていた。
孤独を望んで死を選んだはずなのに、一向に飛び立てない日々。
どうして。どうして。どうして。
首元が異様に伸び切った後の、酷く醜い自分の死体を俯瞰したときから、虚しさが募って離れない。死に場所に選んだ河川敷から、放れられない。
———『幸子。ほらぁ、見て。シロツメクサの王冠。可愛いでしょう?』
たぶん、あの記憶のせいだ。
器用に縫った花の冠を、娘ではなく自分に被せて微笑む女。いつでも自分本意で、男に愛されることがすべてだった母親。彼女はいつでも、自分の人生で忙しかった。
幸せな子、幸子———。そう名付けた彼女の思考に吐き気を催すようになったのは、物心がついてすぐのこと。
あれは、遠足だったか。友だちが幸せそうに紡いだ花冠を、容赦なく引きちぎり壊したのも、ちょうどその頃だった。初めて出来た友だちだった。花は、シロツメクサだった。
“わたしを思って”
その花言葉を知った放課後。幸は友だちの友だちと、さらにその友だちに殴られ、蹴られ。血にまみれた口で高笑いした。一見殊勝に思える言葉も、あの女が思い浮かぶだけでこうも卑しいものなのか、と。
———『幸子の一番は、お母さんでしょ?だってほら。友だちはすぐにあなたを傷付けるじゃない』
『あなたの一番は、いつだって私じゃないのに』
初めて声に出したとき、幸の首はすでに縄に掛かっていた。
もう、あの女の呪いから解放してよ。独りにしてよ。
思っていたはずなのに、霊魂はその場に留まり続けて動かない。代わりに、歪な死体に触れようともしない母親を前に、虚無感がまとわりついた。呪いはいつまで続くのか、と。毎日毎日、天を仰いだ。
早く連れて行って。お願い、早く———。そう願っていた日々を変えたのが、貴方だった。たった一人、貴方だったよ、厘。
<シロツメクサ……じゃあ、ない……?>
月明りに照らされた、白い花弁。大嫌いな花と同じ色をしているはずなのに、雰囲気は妖艶としていて美しい。透き通ったその花弁に、不本意にも、触れたくなった。
<ねぇ、貴方って普通のお花じゃないんでしょ>
しかし、どう頑張っても霊の姿では触れられない。
<この地に宿っている命の気配、私、なんとなく分かるようになってきたの>
それなのに、月夜のたびに魅せられて、思いは募るばかりだった。虚しさなど消え失せてしまうくらい、欲望に満たされた。
貴方と一緒なら、きっと私は彼の世へ逝ける。
そう確信して、幸は瘴気をその花に注いだ。そばにある草木はすぐに朽ち果てたというのに、なかなか精気を減らさない。そんな凛々しさに、幸の高揚感はますます拍車を掛けられ、恋心と呼ぶに等しい感情へと育っていった。
『あのね、岬。お母さん、この子がピンチだったから救ってあげたんだ』
しかし、花籠宇美が現れた瞬間。厘を失った瞬間。幸にはとある感情が沸々と蘇った。忘れかけていた、母親という名の女の影。
せっかく手に入れた嗜好を、私はまた “母親” という卑しい存在に奪われるのか。そんなの嫌だ。呪ってやる。お前がダメなら、その娘。絶対、絶対許さない。厘は手放してしまったけれど、しかしまだ———。
瘴気のおかげか、宇美の霊力は疲労していた。幸は執念の渦を巻き、宇美の疲労に付け込んで、娘の扉をこじ開けた。そのまま憑依を済ませて、厘を奪うつもりだった。ずっと触れたかったその花弁に、触れられるはずだった。
『岬、大丈夫だよ。大丈夫だからね』
しかし、それは叶わなかった。全て、宇美が霊力で施した “膜” のせいだと分かった。岬を守るために張られた、幸のみを拒む見えない壁。近づこうとすれば、押し寄せる波が体を拒む。
目には目を、歯には歯を。と、言わんばかり。自分の力だけでは多種多様な霊力には敵わない、と宇美は悟っているようだった。敵意を向ける幸だけを拒むことは、効率的かつ懸命な判断だ。称えながら、幸は唇を噛み締めた。
卑しい。卑しい。卑しい……。
憑依に侵されながらも、鈴蘭の香りで再び目を醒ます小娘。見据えながら、幸は何度も歯を食いしばった。あるはずのない痛みが、体中を締め付けた。
『……お母さん?』
———だから、花籠宇美が朽ち果てたとき。久しぶりに高笑いをした。これで、いつでもあの娘を朽ち果てさせることができる。いつでも、厘に触れられる。そう踏んだ。
『阿呆、勝手に逝くな』
しかし、幸には再び衝撃が走った。
人の姿に形を変えた彼はあまりにも麗しく、同時に穢らわしい。なぜなら、澄んだあの瞳には、岬のみを映している。そう悟ったとき、幸は厘を殺すことを心に決めた。
すべては思い通り。否、それ以上だった。
霊にとって都合のいい噂を吹き込めば、簡単に岬を操ってくれる。ひょんなきっかけで悪霊までもを身に憑けてくれた娘に、謝辞を述べたいくらいだった。厘を追いやってくれてありがとう、と。
霊力の強いモノが憑けば、心もとない扉の枷はより脆くなっていく。霊の入れ替わりが激しくなり、併せて厘の精気も矢継ぎ早に減っていく。これほどに愉しい日々は、久しかった。
もうすぐ、貴方と逝けると思ったから。最期はもちろん、この私と一緒に。
絶対に叶うはずだった。母親と違って霊感もない。拒む強さもない。お人好しで、自分を穢す勇気もない。……憑依体質と化した彼女は、あんなにも弱いのだから。———それなのに、
『幸。ねぇ、お願い。私から……出て行って』
どうして。どうして。……どうして……?
厘から精気を吸い上げながらも、ドクドクと脈が暴れ出す。血管がはち切れそうなほど、強く、強く。
瞬間、幸の脳裏に過ったのは、この世で一番嫌いだった女の声だった。
———『ごめんね。ごめんね、幸子……私のせいで、私のせいで』
大嫌いな、母親の声だった。
……ああ。どうせここから追い出されるのなら、最後は厘の声が良かったのに。
『勘違いしないで。……あなたのせいなんかじゃない』
名残惜しい低体温。鼻孔をくすぐる可憐な香り。ふわりと宙へ浮き始めた意識を自覚しながら、幸は呟いた。
私はどうやら、愛することにも、愛されることにも、ずっと手は届かないらしい。生きていても、———死んでいても。
でも、河川敷での日々は悪くなかった。たったひとつの光を見つけられた。母親以外の人間をあんなに憎んだのも、初めてだった。それほどに、貴方を愛してしまった。
『さようなら。厘』
きっと、私。ただ、誰かの一番になりたかった。今更気がついても、もう遅いのに。———幸は天に向かって、笑みを零す。
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