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第10章 陽だまりは勇ましく
45話
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母も、厘も、口を揃えて「岬は強くなれる」と言っていた。しかし実際のところ、抗っても、探っても、開かれた扉を閉ざすことは叶わなかった。完全憑依は完全憑依のまま、例によって厘の精気を貪った。
もう二度と、大切な人を失いたくない。死なせない。そう誓ったはずなのに。
「岬……岬!」
え……?
憶えのある、柔らかい光。岬はゆっくりと瞼を持ち上げ、それを捉える。眩しくて眉を寄せる。瞳孔が狭まっていくのを感じながら、無意識に伸びていた手に、岬は戸惑った。そして同時に、これは夢か、もしくは極楽浄土であると悟った。でなければ、この声が届くことはあり得ない。
「岬。起きてる?」
大好きな母の、柔らかい声だ。
「お母さん……」
体は海に浮かんで、思うように動かない。腕も足も波にとられて、それでも気持ちがいい。岬は思わず目を閉じた。
脳器官を持たないクラゲのように、なにも考えずにプカプカと浮いているのも悪くないのかも、と一瞬たしかに耄碌した。
また厘に叱られそうだ、と、重たい瞼を持ち上げる。しかし、目の前にいるはずの母の表情は、後光のせいで窺えない。シルエットさえ、象ることはできなかった。
「ごめんね。お母さん、最後まで岬を守ってあげられなくて」
それでも、前に居る事だけは分かる。クラゲになることは叶わず、しかし声を聞いただけで涙が溢れる心に、岬は安堵した。
「守ってくれていたんだね。私、何も知らなくて。何も、解っていなくて……。厘にも救けられてばかりで、」
何度拭っても拭いきれない、涙の粒。現実ではないからか、海に雫が浮遊する。母の光を通して、それはキラキラと一層目を眩ませた。
「そう。リリィの本当の名は、厘っていうのね。お母さん、最期まで知らなかったなぁ」
「……どうして、お母さんは———」
「うん。リリィがただの生花じゃないって、知っていたよ」
母は包み込むようなトーンで打ち明けた。
あの日、幼い岬が倒れた直後、厘の花弁を呑ませたこと。自分が亡き後も必ず護ってほしいと唱え続けたこと。どんな形でもいいから一人でも多く、自分以外の人を愛してほしいと願っていたこと。
「岬は、厘のことが好きなんだね」
「……うん」
岬は俯き加減で頷く。初恋を打ち明けることの気恥ずかしさを、齡十七にして初めて知った。
「大丈夫。それなら必ず救えるよ」
きっと、じゃないな、絶対に。力強く加えられる言葉。聲色で、微笑んでいるのが分かった。
「でも、どうやって……」
「もう分かっているはずでしょう。岬」
被せるように告げられる。岬は喉を鳴らした。
「大丈夫。だって、ちゃんと見守ってきた私が言うんだもの」
寄せられる強い波が、浮いた涙の粒を攫っていく。瞬間、ほんの一瞬。光の中に、母のシルエットが浮かんだ気がした。
四十九日のあと、ぽっかりと空いた穴。あの感覚は、寂しさのせいだけではなくて。きっと居場所を失くしたこの体を、ずっと支え続けていた。彼の世へ逝ってしまう、寸前まで。
「これから……私が戻ったら、お母さんは消えちゃうの……?」
流されきった涙が、再び海を彷徨う。対して母は陽気に笑いながら、岬の身体を包み込む。優しくも勇ましい陽だまりが、溶けて体に注ぎ込まれるようだ。
「消さないでよ。寂しいじゃん」
静かに、耳元に落とされた声。岬は笑った。どこまでも、母らしい。
「岬。まだ、あのペンダントは持っている?肌身離さず」
「……?うん、持ってるよ」
「じゃあ、よく聞いて———」
今までになく、真剣に紡がれた教え。岬は耳を澄ませた。
幼い頃、眠る前によく聴いていたおとぎ話のようで、まるで現実とは信じがたい事実。それでも、岬には信じる以外の選択肢は残されていなかった。
非情な現実から救いだしてくれたのは、いつだって、“おとぎ話” から出てきたような彼らだったから。
「絶対に大丈夫。……いってらっしゃい。岬」
「行ってきます」
離れていく陽だまりに、もう手は伸ばさない。岬は、温かい光に別れを告げる。最後だけ、微かに震えた母の声を留めるように、ペンダントを強く握りしめた。
・
・
・
大丈夫。もう、私は分かっている。人を愛する力の強さも、何を犠牲にしても護りたいと思えるほど、愛しい存在も。
光を失くした暗闇のなか、岬は再び聳える扉に手を触れる。波に足を掬われず立っていられるのは、気持ちに整理がついたからか。
岬はそっと息を吐く。
お母さん。私、厘が大好きだよ。お母さんと同じくらい、大好きで。今は厘と一緒に生きていたくて、彼のことで頭が一杯。でも、随分最近まではそれが怖いと思ってた。あなたへの愛を、忘れてしまうようで———。
一番はお母さんでなければいけない。そうやって、ずっと躊躇っていた。厘や庵と出会うまでは、一つの居場所しか選択肢がなかったから、今の今まで知らずにいたんだ。
「……でも、違ったね」
愛する気持ちに順番なんてない。愛することで、あなたを忘れてしまうこともない。私がここで、生きている限り———。
「幸。ねぇ、お願い。私から……出て行って」
もう二度と、大切な人を失いたくない。死なせない。そう誓ったはずなのに。
「岬……岬!」
え……?
憶えのある、柔らかい光。岬はゆっくりと瞼を持ち上げ、それを捉える。眩しくて眉を寄せる。瞳孔が狭まっていくのを感じながら、無意識に伸びていた手に、岬は戸惑った。そして同時に、これは夢か、もしくは極楽浄土であると悟った。でなければ、この声が届くことはあり得ない。
「岬。起きてる?」
大好きな母の、柔らかい声だ。
「お母さん……」
体は海に浮かんで、思うように動かない。腕も足も波にとられて、それでも気持ちがいい。岬は思わず目を閉じた。
脳器官を持たないクラゲのように、なにも考えずにプカプカと浮いているのも悪くないのかも、と一瞬たしかに耄碌した。
また厘に叱られそうだ、と、重たい瞼を持ち上げる。しかし、目の前にいるはずの母の表情は、後光のせいで窺えない。シルエットさえ、象ることはできなかった。
「ごめんね。お母さん、最後まで岬を守ってあげられなくて」
それでも、前に居る事だけは分かる。クラゲになることは叶わず、しかし声を聞いただけで涙が溢れる心に、岬は安堵した。
「守ってくれていたんだね。私、何も知らなくて。何も、解っていなくて……。厘にも救けられてばかりで、」
何度拭っても拭いきれない、涙の粒。現実ではないからか、海に雫が浮遊する。母の光を通して、それはキラキラと一層目を眩ませた。
「そう。リリィの本当の名は、厘っていうのね。お母さん、最期まで知らなかったなぁ」
「……どうして、お母さんは———」
「うん。リリィがただの生花じゃないって、知っていたよ」
母は包み込むようなトーンで打ち明けた。
あの日、幼い岬が倒れた直後、厘の花弁を呑ませたこと。自分が亡き後も必ず護ってほしいと唱え続けたこと。どんな形でもいいから一人でも多く、自分以外の人を愛してほしいと願っていたこと。
「岬は、厘のことが好きなんだね」
「……うん」
岬は俯き加減で頷く。初恋を打ち明けることの気恥ずかしさを、齡十七にして初めて知った。
「大丈夫。それなら必ず救えるよ」
きっと、じゃないな、絶対に。力強く加えられる言葉。聲色で、微笑んでいるのが分かった。
「でも、どうやって……」
「もう分かっているはずでしょう。岬」
被せるように告げられる。岬は喉を鳴らした。
「大丈夫。だって、ちゃんと見守ってきた私が言うんだもの」
寄せられる強い波が、浮いた涙の粒を攫っていく。瞬間、ほんの一瞬。光の中に、母のシルエットが浮かんだ気がした。
四十九日のあと、ぽっかりと空いた穴。あの感覚は、寂しさのせいだけではなくて。きっと居場所を失くしたこの体を、ずっと支え続けていた。彼の世へ逝ってしまう、寸前まで。
「これから……私が戻ったら、お母さんは消えちゃうの……?」
流されきった涙が、再び海を彷徨う。対して母は陽気に笑いながら、岬の身体を包み込む。優しくも勇ましい陽だまりが、溶けて体に注ぎ込まれるようだ。
「消さないでよ。寂しいじゃん」
静かに、耳元に落とされた声。岬は笑った。どこまでも、母らしい。
「岬。まだ、あのペンダントは持っている?肌身離さず」
「……?うん、持ってるよ」
「じゃあ、よく聞いて———」
今までになく、真剣に紡がれた教え。岬は耳を澄ませた。
幼い頃、眠る前によく聴いていたおとぎ話のようで、まるで現実とは信じがたい事実。それでも、岬には信じる以外の選択肢は残されていなかった。
非情な現実から救いだしてくれたのは、いつだって、“おとぎ話” から出てきたような彼らだったから。
「絶対に大丈夫。……いってらっしゃい。岬」
「行ってきます」
離れていく陽だまりに、もう手は伸ばさない。岬は、温かい光に別れを告げる。最後だけ、微かに震えた母の声を留めるように、ペンダントを強く握りしめた。
・
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大丈夫。もう、私は分かっている。人を愛する力の強さも、何を犠牲にしても護りたいと思えるほど、愛しい存在も。
光を失くした暗闇のなか、岬は再び聳える扉に手を触れる。波に足を掬われず立っていられるのは、気持ちに整理がついたからか。
岬はそっと息を吐く。
お母さん。私、厘が大好きだよ。お母さんと同じくらい、大好きで。今は厘と一緒に生きていたくて、彼のことで頭が一杯。でも、随分最近まではそれが怖いと思ってた。あなたへの愛を、忘れてしまうようで———。
一番はお母さんでなければいけない。そうやって、ずっと躊躇っていた。厘や庵と出会うまでは、一つの居場所しか選択肢がなかったから、今の今まで知らずにいたんだ。
「……でも、違ったね」
愛する気持ちに順番なんてない。愛することで、あなたを忘れてしまうこともない。私がここで、生きている限り———。
「幸。ねぇ、お願い。私から……出て行って」
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