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第10章 陽だまりは勇ましく
44話
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「キャハハハハッ!……ねぇ、やっと会えたね。厘」
数秒後。自分の声帯で響く、見ず知らずの声。岬は闇の中で、“中身” の言葉に耳を傾けた。
完全憑依。いまは間違いなくその状態のはずなのに、意識はあった。体の主導権はなくとも、岬はしっかりと自分を保っていた。
明らかに今までとは違う。たとえるなら、明晰夢に近い。摂り入れ慣れた鈴蘭の香りで、厘が傍にいることも分かる。その隣には庵も居た。
「なんだ……?また憑かれたのか?」
「そうだな。こうも立て続けに……吐き気がする」
ほら、だって、二人の声が交互に響く。この体を警戒するような口調で、慎重に。
「アハッ、やっぱすでに怪しいと思ってる?さすが厘だね。また会えて、本当に嬉しいよ」
中で響いていた口調とは打って変わって、弾んだような喋り。『やっと会えた』『また会えて』———最初から、厘を知っていた人。厘を求めていた人。この河川敷と、強く関わりのある誰か。“彼女” が放った言葉を思い返しながら、岬は思考を巡らせた。
「誰であろうと、お前に会えて良かったなど、俺は思わない。早く岬から出ろよ———この阿婆擦れ」
ドスの低い声が鼓膜を揺さぶる。視界を閉ざされた岬にも、彼の焦燥感は手に取るように解った。
しかしきっと、彼女は自ら出ていこうとはしない。………私が、追い出すしか方法はない。
「えぇ~、そんなこと言わずにさぁ。そうだ!じゃあ、少し昔話でもしようか。一緒にここ座ってさぁ」
昔話。岬は意識の淵で開いていた瞳を閉じ、懸命に記憶を辿った。陽だまりのような母の体温、初めてこの場所に来たときの匂い———きっと、五感が覚えている。どんなに遠く、小さい頃の記憶でも。
「お前、岬の中の奴と知り合いなのかよ」
「さぁな……ただこのタイミング、この場所……思い当たる節はある」
厘がそう答える間にも、雨粒は少しずつ大きくなっていく。その影響か、右隣に近づく厘の気配は濃くなった。地面に打ち付ける雨の音が、人肌に打ち付ける音に変わったことを知らせてくれた。
岬は五感を研ぎ澄ます。自分を穢すためのトリガーは、そこにあるような気がした。
「お前、あれからもずっと此処に棲みついていたのか。地縛霊」
厘の声は針のように躰の中心を貫く。しかし操る主は、動揺の色ひとつ見せなかった。
「さすが厘だね。正解だよ。ずぅっと君を待っていたんだから。それと、私のことは幸って呼んでよ。“地縛霊” だなんて、聞こえが悪いじゃない」
「……お前が岬に、呪いをかけたのか」
聞き慣れないフレーズに、岬は戸惑った。
「アハハッ、呪いだなんて言いがかりだよ。私はきっかけを作っただけ」
「現に、岬は憑依体質のせいで精気を削られている。呪いと呼んで間違いないだろ」
「うーん……なんだか随分恨まれてるなぁ。ねぇ、もしかして、厘はこの子が好きなの?」
自分の口から発せられているとは思えないくらい、厚みを増していく声。魂を蝕んでいく黒い感情。全て、幸のものだ。
「ああ、愛している。誰よりも」
瞬間、体のどこかにヒビが入ったような、痛覚が走る。
……痛い……?厘の返答が耳に届かないほど懸命に、岬は痛みに感覚を澄ました。
「へぇ……本当、この娘もこの娘の親も、目障りねぇ」
指先から通じる、厘の体温。幸が彼の肌に触れていることは、明白だった。そして、五感が自身のものに帰化し始めていることも、確かだった。
生ぬるくて、愛おしい。視界に捉えなくとも分かる。母に伸ばした手を引き戻してくれた、尊い体温。伝う。伝わる。心臓まで熱く響いている。
———『約束はね、このお花を大事に育てること。いい?大事に、大事にね』
刹那。同時に思い起こされる母の声。この河川敷での記憶———初めて厘に触れたのは、あのときだった。まだ人肌ではなかったあなたに、触れたのは。
「何故岬に手を出した。俺に恨みがあったのなら、俺を苦しめればいい」
「キャハハッ。誰が教えたんだろう?もうそんなところまで知っているのね。……でも残念、少し違うよ」
「何がだ」
「私は厘のことを愛しているし、もうすでに……手は出していたもの」
ドクンッ。
今は自分の感情で動くはずのない心臓が、確かに大槌を叩いた。証拠に、幸は小さく「どうして」と呟きながら眉を顰めている。
ああ……分かる。今、彼女がどんな表情をしているのか、手に取るように。
「気色が悪い。冗談は止せ」
「えぇ~、ひどいなぁ。私はずっとずっと待っていたんだよ。厘」
しかし幸は動揺を隠し、微笑みを絶やさなかった。
「あなたと彼の世へ逝くために、今日までずっと……待ってたんだよ」
彼の世———?
岬は沸々と込み上がる感情に戸惑った。黒い渦で巻かれた負の感情が、足早に込み上げた。厘を “彼の世” へ引き込もうとした事実が、赦せなかった。
「だから俺を、瘴気で蝕んでいたのか」
しかし動揺する岬に対し、厘は冷静で。むしろ、ようやく納得がいった、とでも言いたげな声色だった。
「ウフフフ。どうだった?苦しかったでしょう?強い恨みつらみを抱いて死んだ霊魂には、そういう力が備わっているの。知ってた?」
「あの鬼も、同類というわけか」
記憶はほとんど無いに等しかったが、先刻まで内側に在った残像が疼く。厘の言う鬼が、幸の前に自分を操っていた霊魂なのだ、と体が訴えているようだ。
「そっかぁ……獣鬼がただの霊じゃないってことにも、気付いてたんだね」
「アレを利用したのはお前だろう」
霊魂の恨みを利用して、幸は一体何を。そう唱えた心の内を見透かしたように、彼女は薄い唇を割った。
「うんっ、そうよ。獣鬼はね、君たちみたいに人と共存できる化け物のことも、人間自体の存在もすごく嫌っていたからね。一石二鳥。一挙両得。イイ復讐ができるよ、って、持ちかけたんだ。———この娘に憑いて、厘に口付けをして欲しい。そうすれば、まず彼は瀕死に陥るよって」
満足げに喉を鳴らす。いつも不気味な笑い声が伴う台詞に、嫌悪感が募っていく。岬の意識は再び、黒い渦に巻かれた。
「ずっとね、厘の精気がすり減っていくのを待ってたんだよ。こうやってね。限界を迎えた瞬間にまた会えるように。入念に、にゅ~ねんに、タイミングを計って」
「……つまり、すべてお前の差し金だったという訳か。お前が……岬に憑く霊魂を操っていたのか」
憑く霊魂を、操る……?
脳裏に過ったのは、霊魂と交わした会話のすべて。厘を揶揄するみさ緒。冷静沈着に導いてくれた汐織。今までのすべてが、無意識に起こされた。
「そりゃあ、想定外はあったよ?でも、全部いい方に転んでくれたかな。それもね……あの女が死んでくれたから、なんだよ」
キャハハ、と笑い声を上げる寸前、岬はその喉を締め付けた。自分の掌が、自らの意思で物理的に締め付けているのだと悟ったのは、厘が血相を変えて「岬!」と叫んだ直後。
暗闇に包まれていた視界は、次第に靄の掛かった現実世界へと開けていく。しかし未だ、すりガラスが瞳の水晶体に張り付いているかの如く、不透明なシルエットが蠢いているだけ。代わりに、喉元を押さえた手を引き剥がそうとする体温は、しっかりと肌に通じた。
「ど、うして……私はまだ、憑いているのよ」
押し殺したような声で言うのは、幸の意識。動揺を誘うも、憑依を塞き止めることは未だ叶わず。主導権は彼女の手の内にあることを理解し、岬は再び瞼を下ろした。すりガラスの名残か、暗闇のなかでキラキラと弾けた。
「岬……?」
変化を察したように、厘は呟く。大丈夫……ちゃんと、聴こえてる。
「岬はまだいないよ……何を言ってるの、厘」
ケホッ。窮屈そうに息を吐き出し、幸は続けた。
「厘を私から奪ったあの女———アレが亡き今、この娘は何も出来ないわ。思い知っているんじゃない?厘もそれを」
「……何が言いたい」
「私がこじ開けた扉はひとつだけ。それなのに、この娘は全てを許してる。バカみたいにお人好しで、弱い人間なのよ」
そんなの、私が一番解っている。母のように厘を救えたのなら良かった。ずっと、ずっと、役に立ちたかった。強くなりたかった。
「お前は何も分かっていないな」
深淵で自身を卑下する岬に響いたのは、嘲笑を含んだ厘の声。
「失ったから、岬は強くなれる。お前の瘴気に毒されていた俺を、ここまで掬い上げたのは岬だ。お人好しで、か弱くて———それでも誰かの居場所であろうとする所に限っては、底知れない執念と頑固さがあってな。しぶといんだよ、意外と。……そんな娘の強さを、一度たりとも感じなかったか?」
まだ細いだけの雨は、彼の台詞を引き立てる。岬はもう一度、慎重に、瞼を持ち上げようと試みた。
このお花を大事に育てること───
母と岬の間に生まれた契りを呼び起こしながら、懸命に試みた。それに伴い、徐々に辿られていく記憶。河川敷で倒れたとき、魂に触れられたこともその一片で。あの頃、意識はすでに朦朧としながらも、生きようと懸命にもがいていた。母の笑顔と、再び出会うために。
———『私と厘の、邪魔をするな……!』
ミシミシ。重厚な扉が開かれる音。それと同時に響いていた声は、幸……あなたのものだったんだね。
「り……ん……っ」
曇天を背景に、視線の先に浮かぶ表情。不敵な笑み。すりガラスは結露のように溶けていき、靄が薄れていくのが分かる。たとえ視界が完全には晴れずとも、全身で愛しいものだと覚えている。
自分の体がこうなってしまったときのことも、全て、思い出した。憶えていた。
「……岬?」
慎重に、瞳の色を変えて覗き込む厘。もう少し———心の内で唱えながら、岬は喉を絞った。
「う、ぅァ……何……何なのよこの娘」
しかしそれは、瞬く間に幸の支配へと下る。きっと、開いてしまった扉を閉ざさなければ、事態が変わることはない。岬の脳は、冷えていた。
「何か、内側で。内側で何か、企んでるみたい。……ああ、そうね。もう。もう、いっか」
もう、いい?
苛立ちと高揚を含んだ幸の口調に、岬は心臓を荒立てる。唇の小刻みな揺れが、武者震いのようで不気味だ。
「アッ、ハハッ、分かってる? 分かってるのね? これから私が、何をしようとしているのか」
幸は胸に手を当て、荒立つ鼓動を嘲笑する。岬の意識が介入しようと、もう関係ない。暗に放たれたような気がして、岬は体を冷やした。
「岬、いるのか……?聴こえているのか、俺の声が」
「無駄よ。聴こえてたって、もー意味ないんだから」
意を決した彼女は、厘の後ろ首に腕を回す。自分の意思では一度も触れたことのなかった首筋。そこは、雨でしっとり湿っていた。
「あーあー……可哀想。もう抵抗する力もないのね」
「おい、お前———!」
トンッ———。
随分と久しく感じられる庵の怒号と、指に伝う彼の温度。同時にその綺麗な金髪が、扇状に地面に広がっていくのが見えた。
一瞬で、何が何だか分からない。否、感触で一つ分かる。幸がこの体を操り、意のまま庵の額に触れたのだ。それで———。
「お前……庵に何を」
「心配しないで。お友達には眠ってもらっただけだから」
口角を持ち上げる幸は、再び正面で厘を捉える。その間、岬は意識の淵で肩を竦めた。
“誰の邪魔も許さない”
その強い執念に体が縛られていくようだった。
私だって……私の方が……。
意識を研ぎ澄ませ、深海に身を沈める。背丈は同じだけの戸口。両端に聳える扉はだらしなく開かれたままで、しかし触れても動かない。
……どうして、どうして。
「大丈夫だよ。厘のあとに、素行の悪そうな彼を貪るほど、私は飢えてナイし」
近づく唇の気配。慣れはなくとも、幾度も親しんだ厘の唇だと、すぐに判る。
「こんなに、一途なんだから」
深海の底。唇が重なる瞬間。岬は上から伸びる一筋の光に、手を伸ばした。
数秒後。自分の声帯で響く、見ず知らずの声。岬は闇の中で、“中身” の言葉に耳を傾けた。
完全憑依。いまは間違いなくその状態のはずなのに、意識はあった。体の主導権はなくとも、岬はしっかりと自分を保っていた。
明らかに今までとは違う。たとえるなら、明晰夢に近い。摂り入れ慣れた鈴蘭の香りで、厘が傍にいることも分かる。その隣には庵も居た。
「なんだ……?また憑かれたのか?」
「そうだな。こうも立て続けに……吐き気がする」
ほら、だって、二人の声が交互に響く。この体を警戒するような口調で、慎重に。
「アハッ、やっぱすでに怪しいと思ってる?さすが厘だね。また会えて、本当に嬉しいよ」
中で響いていた口調とは打って変わって、弾んだような喋り。『やっと会えた』『また会えて』———最初から、厘を知っていた人。厘を求めていた人。この河川敷と、強く関わりのある誰か。“彼女” が放った言葉を思い返しながら、岬は思考を巡らせた。
「誰であろうと、お前に会えて良かったなど、俺は思わない。早く岬から出ろよ———この阿婆擦れ」
ドスの低い声が鼓膜を揺さぶる。視界を閉ざされた岬にも、彼の焦燥感は手に取るように解った。
しかしきっと、彼女は自ら出ていこうとはしない。………私が、追い出すしか方法はない。
「えぇ~、そんなこと言わずにさぁ。そうだ!じゃあ、少し昔話でもしようか。一緒にここ座ってさぁ」
昔話。岬は意識の淵で開いていた瞳を閉じ、懸命に記憶を辿った。陽だまりのような母の体温、初めてこの場所に来たときの匂い———きっと、五感が覚えている。どんなに遠く、小さい頃の記憶でも。
「お前、岬の中の奴と知り合いなのかよ」
「さぁな……ただこのタイミング、この場所……思い当たる節はある」
厘がそう答える間にも、雨粒は少しずつ大きくなっていく。その影響か、右隣に近づく厘の気配は濃くなった。地面に打ち付ける雨の音が、人肌に打ち付ける音に変わったことを知らせてくれた。
岬は五感を研ぎ澄ます。自分を穢すためのトリガーは、そこにあるような気がした。
「お前、あれからもずっと此処に棲みついていたのか。地縛霊」
厘の声は針のように躰の中心を貫く。しかし操る主は、動揺の色ひとつ見せなかった。
「さすが厘だね。正解だよ。ずぅっと君を待っていたんだから。それと、私のことは幸って呼んでよ。“地縛霊” だなんて、聞こえが悪いじゃない」
「……お前が岬に、呪いをかけたのか」
聞き慣れないフレーズに、岬は戸惑った。
「アハハッ、呪いだなんて言いがかりだよ。私はきっかけを作っただけ」
「現に、岬は憑依体質のせいで精気を削られている。呪いと呼んで間違いないだろ」
「うーん……なんだか随分恨まれてるなぁ。ねぇ、もしかして、厘はこの子が好きなの?」
自分の口から発せられているとは思えないくらい、厚みを増していく声。魂を蝕んでいく黒い感情。全て、幸のものだ。
「ああ、愛している。誰よりも」
瞬間、体のどこかにヒビが入ったような、痛覚が走る。
……痛い……?厘の返答が耳に届かないほど懸命に、岬は痛みに感覚を澄ました。
「へぇ……本当、この娘もこの娘の親も、目障りねぇ」
指先から通じる、厘の体温。幸が彼の肌に触れていることは、明白だった。そして、五感が自身のものに帰化し始めていることも、確かだった。
生ぬるくて、愛おしい。視界に捉えなくとも分かる。母に伸ばした手を引き戻してくれた、尊い体温。伝う。伝わる。心臓まで熱く響いている。
———『約束はね、このお花を大事に育てること。いい?大事に、大事にね』
刹那。同時に思い起こされる母の声。この河川敷での記憶———初めて厘に触れたのは、あのときだった。まだ人肌ではなかったあなたに、触れたのは。
「何故岬に手を出した。俺に恨みがあったのなら、俺を苦しめればいい」
「キャハハッ。誰が教えたんだろう?もうそんなところまで知っているのね。……でも残念、少し違うよ」
「何がだ」
「私は厘のことを愛しているし、もうすでに……手は出していたもの」
ドクンッ。
今は自分の感情で動くはずのない心臓が、確かに大槌を叩いた。証拠に、幸は小さく「どうして」と呟きながら眉を顰めている。
ああ……分かる。今、彼女がどんな表情をしているのか、手に取るように。
「気色が悪い。冗談は止せ」
「えぇ~、ひどいなぁ。私はずっとずっと待っていたんだよ。厘」
しかし幸は動揺を隠し、微笑みを絶やさなかった。
「あなたと彼の世へ逝くために、今日までずっと……待ってたんだよ」
彼の世———?
岬は沸々と込み上がる感情に戸惑った。黒い渦で巻かれた負の感情が、足早に込み上げた。厘を “彼の世” へ引き込もうとした事実が、赦せなかった。
「だから俺を、瘴気で蝕んでいたのか」
しかし動揺する岬に対し、厘は冷静で。むしろ、ようやく納得がいった、とでも言いたげな声色だった。
「ウフフフ。どうだった?苦しかったでしょう?強い恨みつらみを抱いて死んだ霊魂には、そういう力が備わっているの。知ってた?」
「あの鬼も、同類というわけか」
記憶はほとんど無いに等しかったが、先刻まで内側に在った残像が疼く。厘の言う鬼が、幸の前に自分を操っていた霊魂なのだ、と体が訴えているようだ。
「そっかぁ……獣鬼がただの霊じゃないってことにも、気付いてたんだね」
「アレを利用したのはお前だろう」
霊魂の恨みを利用して、幸は一体何を。そう唱えた心の内を見透かしたように、彼女は薄い唇を割った。
「うんっ、そうよ。獣鬼はね、君たちみたいに人と共存できる化け物のことも、人間自体の存在もすごく嫌っていたからね。一石二鳥。一挙両得。イイ復讐ができるよ、って、持ちかけたんだ。———この娘に憑いて、厘に口付けをして欲しい。そうすれば、まず彼は瀕死に陥るよって」
満足げに喉を鳴らす。いつも不気味な笑い声が伴う台詞に、嫌悪感が募っていく。岬の意識は再び、黒い渦に巻かれた。
「ずっとね、厘の精気がすり減っていくのを待ってたんだよ。こうやってね。限界を迎えた瞬間にまた会えるように。入念に、にゅ~ねんに、タイミングを計って」
「……つまり、すべてお前の差し金だったという訳か。お前が……岬に憑く霊魂を操っていたのか」
憑く霊魂を、操る……?
脳裏に過ったのは、霊魂と交わした会話のすべて。厘を揶揄するみさ緒。冷静沈着に導いてくれた汐織。今までのすべてが、無意識に起こされた。
「そりゃあ、想定外はあったよ?でも、全部いい方に転んでくれたかな。それもね……あの女が死んでくれたから、なんだよ」
キャハハ、と笑い声を上げる寸前、岬はその喉を締め付けた。自分の掌が、自らの意思で物理的に締め付けているのだと悟ったのは、厘が血相を変えて「岬!」と叫んだ直後。
暗闇に包まれていた視界は、次第に靄の掛かった現実世界へと開けていく。しかし未だ、すりガラスが瞳の水晶体に張り付いているかの如く、不透明なシルエットが蠢いているだけ。代わりに、喉元を押さえた手を引き剥がそうとする体温は、しっかりと肌に通じた。
「ど、うして……私はまだ、憑いているのよ」
押し殺したような声で言うのは、幸の意識。動揺を誘うも、憑依を塞き止めることは未だ叶わず。主導権は彼女の手の内にあることを理解し、岬は再び瞼を下ろした。すりガラスの名残か、暗闇のなかでキラキラと弾けた。
「岬……?」
変化を察したように、厘は呟く。大丈夫……ちゃんと、聴こえてる。
「岬はまだいないよ……何を言ってるの、厘」
ケホッ。窮屈そうに息を吐き出し、幸は続けた。
「厘を私から奪ったあの女———アレが亡き今、この娘は何も出来ないわ。思い知っているんじゃない?厘もそれを」
「……何が言いたい」
「私がこじ開けた扉はひとつだけ。それなのに、この娘は全てを許してる。バカみたいにお人好しで、弱い人間なのよ」
そんなの、私が一番解っている。母のように厘を救えたのなら良かった。ずっと、ずっと、役に立ちたかった。強くなりたかった。
「お前は何も分かっていないな」
深淵で自身を卑下する岬に響いたのは、嘲笑を含んだ厘の声。
「失ったから、岬は強くなれる。お前の瘴気に毒されていた俺を、ここまで掬い上げたのは岬だ。お人好しで、か弱くて———それでも誰かの居場所であろうとする所に限っては、底知れない執念と頑固さがあってな。しぶといんだよ、意外と。……そんな娘の強さを、一度たりとも感じなかったか?」
まだ細いだけの雨は、彼の台詞を引き立てる。岬はもう一度、慎重に、瞼を持ち上げようと試みた。
このお花を大事に育てること───
母と岬の間に生まれた契りを呼び起こしながら、懸命に試みた。それに伴い、徐々に辿られていく記憶。河川敷で倒れたとき、魂に触れられたこともその一片で。あの頃、意識はすでに朦朧としながらも、生きようと懸命にもがいていた。母の笑顔と、再び出会うために。
———『私と厘の、邪魔をするな……!』
ミシミシ。重厚な扉が開かれる音。それと同時に響いていた声は、幸……あなたのものだったんだね。
「り……ん……っ」
曇天を背景に、視線の先に浮かぶ表情。不敵な笑み。すりガラスは結露のように溶けていき、靄が薄れていくのが分かる。たとえ視界が完全には晴れずとも、全身で愛しいものだと覚えている。
自分の体がこうなってしまったときのことも、全て、思い出した。憶えていた。
「……岬?」
慎重に、瞳の色を変えて覗き込む厘。もう少し———心の内で唱えながら、岬は喉を絞った。
「う、ぅァ……何……何なのよこの娘」
しかしそれは、瞬く間に幸の支配へと下る。きっと、開いてしまった扉を閉ざさなければ、事態が変わることはない。岬の脳は、冷えていた。
「何か、内側で。内側で何か、企んでるみたい。……ああ、そうね。もう。もう、いっか」
もう、いい?
苛立ちと高揚を含んだ幸の口調に、岬は心臓を荒立てる。唇の小刻みな揺れが、武者震いのようで不気味だ。
「アッ、ハハッ、分かってる? 分かってるのね? これから私が、何をしようとしているのか」
幸は胸に手を当て、荒立つ鼓動を嘲笑する。岬の意識が介入しようと、もう関係ない。暗に放たれたような気がして、岬は体を冷やした。
「岬、いるのか……?聴こえているのか、俺の声が」
「無駄よ。聴こえてたって、もー意味ないんだから」
意を決した彼女は、厘の後ろ首に腕を回す。自分の意思では一度も触れたことのなかった首筋。そこは、雨でしっとり湿っていた。
「あーあー……可哀想。もう抵抗する力もないのね」
「おい、お前———!」
トンッ———。
随分と久しく感じられる庵の怒号と、指に伝う彼の温度。同時にその綺麗な金髪が、扇状に地面に広がっていくのが見えた。
一瞬で、何が何だか分からない。否、感触で一つ分かる。幸がこの体を操り、意のまま庵の額に触れたのだ。それで———。
「お前……庵に何を」
「心配しないで。お友達には眠ってもらっただけだから」
口角を持ち上げる幸は、再び正面で厘を捉える。その間、岬は意識の淵で肩を竦めた。
“誰の邪魔も許さない”
その強い執念に体が縛られていくようだった。
私だって……私の方が……。
意識を研ぎ澄ませ、深海に身を沈める。背丈は同じだけの戸口。両端に聳える扉はだらしなく開かれたままで、しかし触れても動かない。
……どうして、どうして。
「大丈夫だよ。厘のあとに、素行の悪そうな彼を貪るほど、私は飢えてナイし」
近づく唇の気配。慣れはなくとも、幾度も親しんだ厘の唇だと、すぐに判る。
「こんなに、一途なんだから」
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そして彼が持ち出した条件は婚約破棄しても身体を寄越せと下卑た笑いで告げるのだ
そんな彼を殴りつけたのはとある人物だった
このキズの謎を知ったとき
アルベルト王子は永遠に後悔する事となる
永遠の後悔と
永遠の愛が生まれた日の物語

神の居る島〜逃げた女子大生は見えないものを信じない〜
(旧32)光延ミトジ
キャラ文芸
月島一風(つきしまいちか)、ニ十歳、女子大生。
一か月ほど前から彼女のバイト先である喫茶店に、目を惹く男が足を運んでくるようになった。四十代半ばほどだと思われる彼は、大人の男性が読むファッション雑誌の“イケオジ”特集から抜け出してきたような風貌だ。そんな彼を意識しつつあった、ある日……。
「一風ちゃん、運命って信じる?」
彼はそう言って急激に距離をつめてきた。
男の名前は神々廻慈郎(ししばじろう)。彼は何故か、一風が捨てたはずの過去を知っていた。
「君は神の居る島で生まれ育ったんだろう?」
彼女の故郷、環音螺島(かんねらじま)、別名――神の居る島。
島民は、神を崇めている。怪異を恐れている。呪いを信じている。あやかしと共に在ると謳っている。島に住む人間は、目に見えない、フィクションのような世界に生きていた。
なんて不気味なのだろう。そんな島に生まれ、十五年も生きていたことが、一風はおぞましくて仕方がない。馬鹿げた祭事も、小学校で覚えさせられた祝詞も、環音螺島で身についた全てのものが、気持ち悪かった。
だから彼女は、過去を捨てて島を出た。そんな一風に、『探偵』を名乗った神々廻がある取引を持ち掛ける。
「閉鎖的な島に足を踏み入れるには、中の人間に招き入れてもらうのが一番なんだよ。僕をつれて行ってくれない? 渋くて格好いい、年上の婚約者として」
断ろうとした一風だが、続いた言葉に固まる。
「一緒に行ってくれるなら、君のお父さんの死の真相、教えてあげるよ」
――二十歳の夏、月島一風は神の居る島に戻ることにした。
(第6回キャラ文芸大賞で奨励賞をいただきました。応援してくださった方、ありがとうございました!)
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