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第9章 浮わつく望みは憂わしく
40話
しおりを挟む前兆が無かった訳ではない。それなりに覚悟もできていたわけだが、どうにも調子が狂う。
「……———」
厘は傍で横たわる岬の髪を、一束大事に掬い取る。彼女はすっかり安心しきった様子で、細い寝息を立てていた。
男の横で安堵しきるな、と言いたいのは山々。しかし、昨晩落ち度があったのは自分だと、身をもって知っている。体調を崩し項垂れてるところを、岬は夜な夜な看病してくれていたのだろう。まぁ、ともに居間で寝ていたということは、睡魔に耐えきれず寝落ちてしまったらしいが。
「……やはり、少しは警戒しろ」
ため息交じりに呟く。そして、彼女の首筋に顔を埋め、触れるだけのキスをした。同時に、少しでも力を込めればすぐに痕付けできてしまいそうな、その白い肌に目が眩む。
命を賭してでも守る———。
その決心に揺らぎはない。しかし、岬の将来を案じる自分が存在するのも確かだった。齢十七の少女も、いずれは淑女へと成長していく。あり得なくはない。むしろ、高確率で訪れる未来。この無垢な肌に男の手が触れることも、唇を寄せられることも、岬が男の背に爪を立て、愛されることを望む日々も。
「見届けるよりは大分ましか」
ピクリ。吐息に反応する華奢な体。どうか、他の男にはそんな風に反応しないでくれ。そう呪いをかける方法はないのか、と邪念が浮かぶくらいにはすでに狂っていた。出来ることなら、何事もなくこの日々が続くように、と天に祈るくらいには———、
「あ、れ……わたし……」
傍ら、少し掠れた朝の声が響く。まだ薄開きの瞳に、厘は笑みを零した。
「おはよう。岬」
「……え」
仰向けだった岬がこちらを向いて、鼻先が微かに触れ合う。そこから熱が広がったのか、やけに血色が良くなる頬。そろそろ花開く、梅の色によく似ている。そうしてしばらく、口をパクパクと動かしているだけの図に、厘は喉を鳴らした。
「随分と大胆だったな。まさか、隣で寝られるとは」
ぬけぬけとよく言う。厘は自然と持ち上がる口角に、改めて失望する。
『愛している』『ずっと傍にいてほしい』———殊勝な言葉はより単純で、鈍いこの娘にも必ず伝わる代物だというのに、そんなものはちっとも出てこない。代わりに放たれるのは、捻くれた冷やかしの言葉だけ。
しかし、仕方がないと擁護もできる。だからこそ、愛情表現というものは易くないのだろう。
「ご、ごめん……っ、すぐに退くから、」
あわてふためく岬。厘は退こうとする彼女の腕を引き寄せ、あえて妖艶に見上げた。打算を含んだ身のこなしであったことは否めない。
「お前の温度は心地いい。回復するまで、もう少し此処に居ろ」
「は……はい」
乱れた髪を素早く梳かしながら、彼女は再び横たわる。先刻より、纏う体温は上がっているようだ。
「岬」
愛おしい。愛している。……籠に入れてしまいたいほど、愛している。
体温に触れるほど、芽生えては消え、また芽生える儚い言葉。出来ることなら、朽ち果てる前に伝えたい。
「桜が咲いたら、花見に行こうか」
厘は微笑み、余寒の空へ思いを馳せた。願わくば、桜が舞う木の下で〝この想い〟を伝えさせてほしい、と。
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