白の甘美な恩返し 〜妖花は偏に、お憑かれ少女を護りたい。〜

魚澄 住

文字の大きさ
上 下
35 / 50
第7章 潜った海馬は猛々しく

34話

しおりを挟む

 「頑張れ」

 過去と分かった直後も、岬は爪が食い込むまで拳を強く握りしめていた。

 ───『それが俺の、使命だからだ』

 厘と出会ったあの日。どうして、あれほど忠実に母の願いを聞いてくれるのだろう、と浮かべていた疑問。その答えが今、目の前で示されているのかもしれない。

『ぬ、けたぁー!』

 重心を後ろに、転げ笑う母。懐かしくも、鮮明に刻まれている表情に、岬は安堵した。よほど体力を擦り減らしたのか、彼女はそのまま河川敷に寝そべった。

『お母さん。だいじょうぶ?』

 上から顔を覗き込む娘に、母は『へーきへーき』と高笑い。その明るさは何よりも眩い、少女の光だった。それは、今も昔も変わらない。

『お母さんね。このお花をたすけたかったの』

 曇天に翳した鈴蘭の花。根から丁寧に抜かれたその花が、なぜか安堵しているように見えた。ただの花ではない、と今なら分かるからだろうか。

『悪い瘴気が流れてる。ある人間の負の感情が、この地をむしばんでいたみたい。それになぜか、この子・・・に向けて一層強く』

『……お母さん?』

『岬にはちょっと難しいかな?……よしっ、じゃあひとつだけお約束』

『うんっ!みさき、約束すき!』

『んー?そうなの? 可愛いなぁ岬は』

 起き上がった母は、少女の柔い頬にキスをした。目を細めながら、心底、愛おしそうに額を合わせた。それは憶えのない出来事。今日までずっと、忘れていた。

 岬は自分の頬に手を滑らせる。
 どうして思い出せなかったのだろう。母が注いでくれた愛情すべてを刻むことが、どうして出来ないのだろう。幼い頃に戻ってでも刻みたい。

 ……でも、もう知っている———過去を恋しく思う自分は、とても脆いこと。

『約束はね、このお花を大事に育てること。いーい? 大事に、大事にね』

『うんっ。だいじょうぶだよ。だってみさきもこのお花大好き!かわいい!』

『でしょう? あ、それより大変。着物汚れちゃったわ』

『あらあら、おせんたくが大変ですねぇ』

『えぇ? それは幼稚園で覚えたのですねぇ?』

 微笑む母と、一緒に土を払う少女。まだあの子は、何も知らない。十数年後、目の前の居場所が突然消えてしまうことを———。

 変哲のない日常。いつも通りの帰り道。「今日はね、体育でキーパーをやったんだよ」と、常套句に答える準備を整えて、真っ直ぐアパートに帰ったあの日。玄関を抜けた狭い廊下で、母は倒れていた。唇は色を青くして、頭上に放られた腕は脈を失っていた。
 その後、自分がどう動いたか。憶えているのはいずれも断片———救急車のなか、母の笑顔を浮かべた。自分を責め立てる気力すらなく、血の気を失った。
 もしも。少女がこのとき、母が逝ってしまうと知っていたのなら。代わり映えのない日常の一コマすべて、刻むことができていたのだろうか。おそらく、きっと。


『岬』

 曇天が少しずつ晴れていく。一筋差し込んだ光から伝播する。広がる。母が少女を呼ぶ声は、まさにその情景によく似合う。母はいつでも、一筋の光だった。

『……岬?』

「え……」

 しかし、雲は再び影を作る。容赦なく被さる。雨が降りだしそうな、灰色がかった雲だった。
 岬は幼い自分の姿を見据え、喉を狭める。少し前まで楽しそうに母と笑い合っていた少女が、微かに体を痙攣させ、卒倒したからだ。
 先ほど母が放っていた “瘴気” と何か関係があるのだろうか。証拠に、母は冷静に「大丈夫」と何度も刻む。現在から運ばれた・・・・岬自身には、何も感じ取ることはできなかった。

『岬、大丈夫だよ。大丈夫だからね』

 自分の額を震える少女のそれに合わせながら、彼女は微笑んだ。そして、手にした草花を大切に包み込んだ。

 ———『あなたは特別なんでしょう? ねぇ、リリィ・・・。教えて。あなたに、岬を護ることが出来るのか』


  ・
  ・
  ・


 リリィ。
 そう呼んだ母の声が、残像となり脳を霞める。瞬間、岬の視界は閉ざされた。来た・・時と同じく、再び眩暈の渦に苛まれる。しかし、往きと違う出来事もあった。

『岬。私はいつでも、見守っているからね』

 母の声が、奥底で響いたこと。金縛りのように固まった体が、優しく包まれたこと。すべて、懐かしい気がした。


 ———「岬さん。終わりましたよ」

 気が付いた時。岬は長い髪に埋もれていて、涙を流していた。胡嘉子が抱きしめてくれている、と悟るまで、時間を要した。

「随分長い旅をしていましたね。少し心配しました」

 頭上で響く、波長の緩い声。岬は涙を懸命に拭い、彼女を見上げた。

「あの、わたっ、わたし……」

 息はうまく整わず、吃る声。

「大丈夫ですよ。あなたの旅は、決して悪いものではありません。きっと何か、意味があるのだと思います。それに———」

 胡嘉子は岬を再び抱きしめながら、厘に視線を向けた。

「少し、厘さんとお話があります。岬さんは、庵さんと休まれてください。……ああ、そうそう。憑依されていた霊魂は旅と同時に離れていきましたので、ご安心を」

 プツリ———。ブラウン管のテレビの、電源を切られたような音。同時に深く落ちていく。抵抗の余力も、気力も残っていない。

 胡嘉子の腕のなか、岬は深い眠りについた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし狐の京都裏町案内人

狭間夕
キャラ文芸
「今日からわたくし玉藻薫は、人間をやめて、キツネに戻らせていただくことになりました!」京都でOLとして働いていた玉藻薫は、恋人との別れをきっかけに人間世界に別れを告げ、アヤカシ世界に舞い戻ることに。実家に戻ったものの、仕事をせずにゴロゴロ出来るわけでもなく……。薫は『アヤカシらしい仕事』を探しに、祖母が住む裏京都を訪ねることに。早速、裏町への入り口「土御門屋」を訪れた薫だが、案内人である安倍晴彦から「祖母の家は封鎖されている」と告げられて――?

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち

鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。 心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。 悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。 辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。 それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。 社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ! 食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて…… 神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

処理中です...