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第7章 潜った海馬は猛々しく
33話
しおりを挟む線香と木の匂いが擦れ合う部屋の隅。目先に広がるご本尊。氷の上かと錯覚するほど冷たい畳。
「勝手に入っていいのかな……」
明かり一つ点らない伽藍の中を見渡しながら、岬は不安げに呟いた。
「大丈夫ですよ。ここはまだ外陣ですから。どちらにせよ、今日はお坊さんも不在なので平気です」
胡嘉子は脱力したまま、半身になって振り返る。彼女にも、ここに住む人間との接点があるのだろうか。厘との関係を重ねながら疑問に思う。砂利を這って出てきた様子からは、とても一緒に住んでいるとは考えにくいけれど。
巡らせている内、胡嘉子は今度こそ振り返る。
「ここに、座ってください」
示されたのは紫色の座布団の上。岬は言う通りに膝を折る。慣れない着物が、少し崩れた。
「それで、厘さん。見返りは何かありますか」
隣に座る彼に、胡嘉子は問う。
「やはり、無償で、というわけにはいかないか」
「当たり前です。妖力を使うのですから……。ただでさえ、今日はゆっくり寝て居たかったのに」
「分かった。ほら、これでいいか」
見返り。厘が懐から取り出した果実に、岬は目を丸くする。屋台で林檎飴として売っていたはずの、林檎が現れたからだ。もしかして、店主と交渉したのだろうか。妖花は “生” の方が好きだから。
「まあるい……赤い……」
「ひと手間かかっている。大事に食えよ」
胡嘉子は林檎を受け取るなり、大きく喉を鳴らす。暖簾のような長い髪から覗く口角は、不気味さを一層引き立てていた。
「いいでしょう。これで手を打ちます」
「頼んだぞ」
よほど林檎が嬉しかったのか、否か。瞬きの直後、目と鼻の先に及ぶ胡嘉子の微笑み。今までの様子からは考えられないほどの機敏さで、彼女は岬と距離を詰めた。
「岬さん。私は対価を受け取りました。ので、貴方を透かしたいと思います」
「すかす……?」
「はい。この手で触れることで体内を巡ります。もちろん、脳の海馬も例外ではありません。つまり記憶も辿る為、私はこれを “旅” と呼びます。いいですか? その間、貴方にも旅が巡ります。酔わないよう私も気を付けますが———」
息継ぎのない長い説明の中、ようやく見えた胡嘉子の瞳。金色を成したその大きな瞳に、吸い込まれそうになった。厘や庵にはない奥深さが、彼女の瞳には在った。
「解りましたか?」
「は、はい……」
高揚の収まらない胡嘉子に、岬はたじろぎつつも頷いた。
触れることで身体の性質、宿る力、すべてを透かすことができるという趣旨。特別な妖術の正体が見え、岬は納得した。彼女に厘が依頼したワケは、おそらく———。
「では、肩の力を抜いて。邪念も失くして。ゆっくり、息を吐いてください」
気怠さの抜けた歯切れのよい口調。慎重を語る瞳に、思わず緊張の糸を張る。しかし、言われた通り息を吐き切ると、自然と力は抜けていった。
ブワッ———。
胡嘉子の低い体温が額に触れる、その瞬間。菊の香りが全身を巡る。喩えるなら、厘を摂り込んでいた感覚に近い。目を瞑っているはずなのに、眩暈がする。ぐわり、目が回る。ときおり混じる線香の香りは、酔いを加速させた。
・
・
・
『ねぇ。お母さぁん? 何してるの?』
次に視界を明らめたとき、そこは夢の中だとすぐに解った。視線の先に見えるのは幼少期の自分と、死んだはずの母親だったからだ。
いまの私と、同じ着物を———。岬は白い袖口を握り、まだ刺繍のない母の和装を捉えた。
『ねぇ、お母さん。お母さん』
着物の価値を知らぬまま、容赦なく引っ張る少女。母は「待っててね。直ぐ、直ぐに終わるから」と目を細める。額に汗を浮かべていた。
よく見ると、膝元は土で汚されていて、手元も葉で擦ったような傷が目立つ。しかし、母はやめなかった。曇天の河川敷。たったひとつの花を摘もうと、懸命に根を引き抜こうとしていた。
「え、あれって———」
岬は彼女の手元に目を凝らし、息を呑んだ。母が抜こうとしているその花は、よく身に覚えのある鈴蘭だった。
「お母さん……お母さん……!」
幾度声を掛けても反応はない。母は花を抜くこと一心に力を注いでいた。
女性とはいえ、大の大人があれほど汗を流しても引き抜けないものなのか。幼い頃は気づくことができなかった。この異様な空気にも。母の焦燥にも。鈴蘭が萎れかけている状況にも。
でも、今なら分かる。これは夢なんかじゃない。私たちが過ごした過去だ。
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