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第7章 潜った海馬は猛々しく
32話
しおりを挟む『ここを出て、行きたいところがある』
厘に導かれるまま訪れたのは、山の麓に建てられた寺院だった。正月でも閑散としているのは、アクセスの悪いこの立地のせいだろう。落石注意の看板を、ここまで何度目にしたか分からない。
しかし、岬は何度か訪れたことがあった。バスを二本乗り継いで、毎月五日に訪れていた。
「ここ、お母さんの———」
年季の入った本堂を見上げ、岬は呟く。母、宇美の居場所だった。月命日に必ず訪れていたお墓が、本堂横に細く続く砂利道の奥に、いまも佇んでいる。
「ああ。……後で行こう。墓参りに」
「なんで後なんだよ。今行きゃいいだろ」
厘に抗う庵は、余程名残惜しいのか、先ほどまで食べていた焼き鳥の串を未だ口に咥えていた。
「後だ。これからあいつに会ってからな」
あいつ……?岬は庵と首を捻る。厘は構うことなく、そしてどこか焦燥を含むように、真っ直ぐと本堂へ向かった。
神社の鳥居より、厘には堂々と腰を下ろす伽藍の方が似合うな、とお門違いな感想を浮かべ、岬は呆けていた。
「おい、いるのだろう。顔を出せ」
本堂に向かい「おい———」と、厘は同じ台詞を繰り返す。痺れを切らしたのか、いよいよ本堂の床下を覗き込む。なぜそんなところを、と目を丸くする。砂利と本堂の間から “彼女” が顔を出すまで、岬と庵はその隙間に目を凝らしていた。丸くしていた瞳は、早い瞬きを伴った。
『幽霊みたいだね』
中の声は冷静に放つ。岬は返答に困った。あなたも幽霊だよ、と言うのはさすがに野暮だろうか。しかし、その指摘は的を得ている。
厘が呼んだ女性は、誰もが想像する霊の像に等しい。這うようにして砂利を引きずる彼女は、気怠そうな様子で伽藍の段差に腰をかけた。ひざ下まで伸びた長い髪を、無造作に垂らしたまま。
「……なんですか。何か御用ですか」
濁り気のない声が、細々響く。厘と庵が傍にいなければ、疾うに震えあがっていたことだろう。霊魂との意志疎通は普通に出来ているのに、と自分が少し可笑しかった。
でも目に見えているということは、霊ではない……? 串を咥えた庵の背から覗くように、長い髪の向こうを気に掛けた。
「久しぶりだな。胡嘉子」
コガネ———。庵にゆっくり背を押されながら、岬は足を進める。履き慣れない下駄が、砂利をゆっくり擦る。どうやら庵も、彼女が何者なのか分かったらしい。つまり、二人の知り合いということになるのだろう。
「胡嘉子も、あいつも俺たちと同種。……だが正直、俺は苦手だ」
後ろから控えめに響く声。背を押したのは、庵自身を隠すためでもあったらしい。岬は “同種” という言葉に納得し、厘の横についた。
「此れは菊の化身。同じ妖花だが、特別な妖術を持っている」
特別……?そう首を傾げると、厘は頷きながら岬の手を引いた。徐々に縮まっていく胡嘉子との距離。苦み走る一見爽やかな匂いが、次第に鼻腔を突いた。
———『まだ若かったのに可哀そうねぇ。風邪を拗らせて亡くなったんですって』
その香りは、岬を引き戻す。土地勘もない場所で盛大に執り行われた、母の葬式へと引き戻す。まだ解像度は高い。棺の近隣、仰々しく飾られていた菊の花。
何本も。何本も。何本も。
「岬」
冷えていく手を、厘の体温が優しく包み込む。思い返した過去、震えていた体さえも包み込んでくれるかのように、とても温かかった。
「大丈夫。厘、大丈夫だよ」
岬は足を伸ばす。香りの濃度が高まる度に震える足で、懸命に踏みしめる。
「……胡嘉子。見てほしいんだ」
傍ら、ふぁ、と欠伸をする彼女に厘は言った。
「ご用件はもっと詳らかにお願いします。……あなたは毎回唐突なんです」
纏う装束の端をいじいじと触りながら、胡嘉子は視線を落とす。瞳の色は、まだ見えない。
「ああ。岬に触れてほしいんだ」
意図も、まだ見えない。解らず厘を見上げると、彼は縦に頷きながら背に手を添える。一体、何が始まるというのだろう。
「へぇ……あなたが噂の……。いいでしょう。とりあえず、中に入りましょう。今日は比較的、客人も少ないので」
気怠げな声色とは釣り合わないほど、丁寧な口調。岬たちはそんな彼女に付き従い、本堂の中へと踏み入った。
「……俺は外にいる」
やはり物憂げな、庵を残して。
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