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第7章 潜った海馬は猛々しく
30話
しおりを挟む時は霜月、年初め。
「きつくはないか」
キュッ、と帯紐を締めながら、縦に頷く彼女を見上げる。化粧を施しているせいか、紅色に色付いた唇が妙に艶めかしい。厘は喉を締め付けながら、己を律した。
「ありがとう」
「ああ」
クリスマスプレゼント、とやらに岬が頼んだ着付け。純白の和装は、無垢な岬によく似合う。それに、余程嬉しいのだろう。母親譲りの朗らかな笑みを浮かべ、彼女はくるりと回って見せた。
「どう、かな……?」
頬を緩め、はにかみながら問う岬。やはり、髪は結って正解だったな、と厘も頬を緩ませた。
「似合っている。お前が着ると、白無垢のようだ」
「そ、れって」
なんだ、意味が分かるのか。口角を持ち上げると同時、彼女の頬は桜色に染めあがる。頬紅のせいでないことは一目瞭然で、至高だった。
「そ、そうだ、」
「どうした」
「ここの刺繍……たぶん、前はなかったと思うんだけど」
わざとらしく話題を変える様が、目に見えて可愛らしい。
あの一夜から。心の内で何かが吹っ切れ、厘は今まで以上に岬の反応を愉しんでいた。何がそうさせたのかは明確ではない。だが、声に出して改めて身に染みたのだろう。
『岬を俺に、くれないか』
この娘のすべてが欲しい。ともに生涯を添い遂げたい、と。
「厘……?あの、この刺繍なんだけど、」
進行形で雑念に塗れる厘を、岬は首を傾げながら覗き込む。前身頃に施された刺繍を差していた。
「縫った」
「え……?」
「その辺りは汚れが酷かったからな。庵に布地を足させたんだ。そこに、俺が刺繍を施した」
太股のあたり。縦長に広く伸びた鈴蘭の画。後付の布地を目立たせないための細工。というのは半分建前で、
「嬉しい……ありがとう、厘」
この笑顔を見たいがために、扱いにくい針を通していた。花弁の部分を優しく撫で、口元を抑えながら喜ぶ岬の顔が見たかった。
我ながら殊勝だ。一朝一夕であしらえる代物ではない。おかげで、聖夜当日には間に合わないという失態を犯した。それでも、岬の為に夜なべを続けていたことは、他の誰にも明かせないだろう。
「ああ。まぁ、時間があったからな」
たとえ、本人であっても明かせない。肝心なところで素直になりきれない性質は、玉に瑕だ。厘は辟易しながら、「そろそろ行くぞ」と先導する。しかしやはり、こそばゆい。しかしやはり、嫌な気はしない。
「遅ぇぞ、何分待たせる気だ」
が、開けた玄関前に立つ庵のしかめ面は、容易く嫌な気を起こさせた。ある意味才能と言える。
「文句を垂れるな。癇性め」
「あぁ?お前こそ、いつもいつも偉そうになぁ、」
ごめん、お待たせ———。
庵が顔を歪めた直後。そう言って後ろから現れた娘の姿に、正面の喉は分かりやすく息を呑む。奴の見開かれた瞳には、彼女の着物姿がくっきりと映っていた。
……この反応が、余計にいけ好かない。岬が誘わなければ、庵など絶対に置いて行くのだが。
「庵?」
岬は履き慣れない桐下駄を鳴らしながら、銀杏の化身に首を傾げる。正面で急に呆けられたのだから、無理もない。
「……あれだな。馬子にも衣装ってやつか」
言葉とは裏腹、気色悪いほどに紅潮する庵。指先で頬を引っ掻く仕草は、自分を見ているようで腹立たしかった。
……へぇ。お前も、こういうのが刺さるのか。厘は眉をピクリと動かしながら、「行くぞ」と岬の肩に手を添えた。
「やっぱり、背伸びしすぎかな……?」
「何がだ」
「馬子にも衣装、って庵も言ってるし」
黙って付いてくる後ろを気にしながら、岬は言う。幸い、この娘の鈍感さは本物だった。
「ああ。あいつの目は節穴だからな。心配するな」
「節穴……?」
「お前が一番、綺麗だよ」
これぐらい直接的でなければ、おそらく彼女は気づかない。思っていた通り、さすがの鈍感も目を逸らす。耳からうなじに掛けてみるみる染まりゆく肌が、厘の理性を揺さぶった。
随分と拗れた性癖だ、と含み笑う。背後で舌を打つ庵には、気づかないふりをした。
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