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第6章 聖夜の夜は湿っぽく
26話
しおりを挟む『あーあー、なんだ?結局リア充しかいねぇじゃねーか』
内側から久しく声が響いた時、岬は緊張の糸を弛ませた。同時に胸を撫で下ろした。対照に、厘は隣で「……頗る悪いタイミングだ」と眉を顰めた。
『クリスマス前ってのは本当に、チャラチャラとしてやがる』
「五月蝿い。少し黙ったらどうだ」
ドスの効いた声が響く。聞き慣れたモノとは違う、しかし波長は確実に厘の声。向けられている相手は撞いている霊魂だ、と分かっているのに、微かに肩が震えた。厘を本気で怒らせないようにしなければ、と先程までとは違う意味でドキドキした。
『あぁ?なんだお前……俺が視えんのか?』
しかし、中の声も負けず劣らず。少し掠れた野太い声で、口調はどちらかというと銀杏の庵に近い。
「視えるとも。それすら分からないとは……さては愚図か、お前」
腕を組みながら、嘲笑う厘。無意識に感情を吐露してしまった、あのときに向けられていた表情とは、打って変わっていた。
『はぁ?何言ってんだ。つーかおい、オマエ!女!』
「……えっ、あ、はいっ」
呼ばれた反動で、凭れた背筋がピンと伸びる。乗り物酔いが遠い昔に感じられるほど、体はよく火照っていた。
『お前は何者だ』
「何、と言われても……私は、」
『あぁん!? もっとデケェ声で喋りやがれ!』
キィーンッ———。脳内へ電流が走るような衝撃に、岬はたまらず額を押さえる。内側の神経が鋭い刃に掻かれ、俯いた。
「岬」
痛い、痛い。
そう目を瞑る寸前、額に宿る厘のぬくもり。傍から見れば、熱を診ているかのような仕草だが、実際は違う。厘は岬の頭上に睨みを利かせ、「黙れ」と霊魂を鎮めようとしていた。
「大丈夫だよ、厘。私は大丈夫」
温かい。自分の手を厘のそれに重ねた後、「あのね。貴方は、私に憑依しているんです」と岬は歯切れよく放った。周りの喧騒にかき消されないよう、はっきりと告げた。
『……憑依だと?』
やはり、解っていなかったのだろう。想定外の状況に驚いたのか、先ほどよりもいくらか鋭さの抜けた声。どうやら、厘の形相もよく効いているようだった。
「もし不本意だったら、ごめんなさい」
「……」
厘は、何かを逡巡する様子でこちらを見据える。彼の言わんとしていることに、岬にも思い当たる節があった。
これまで憑依した霊魂には、必ず“憑く”という意志があって、“憑いてしまった”パターンはこれが初めて。早妃の悪霊憑依に続いて、特例と言えるケースに違いなかったからだ。しかし、幸いにも今日は———
「岬。日没まであとどのくらいだ」
「今が二時だから……あと、三時間くらいかな」
岬が答えると、厘は「そうか」とほくそ笑む。彼も同じ考えが過っているのだろう、と確信する。
———今日は、満月だった。
意志に関わらず、霊魂が離れざるを得ない夜が残り数時間で訪れる。満月を恋しく思うのは久しぶりだった。
『何だ、気持ちわりぃ』
「ああ、なんでもない。今日が今日で良かったと安堵しているだけだ」
『はぁ……?ワケわかんねぇ』
「だろうなぁ。男女の空気さえまともに読めない、その稚拙な頭では」
『……なんだァ?何か言ったか。はっきり物を言え』
「いいや、なんでもない」
相手に聞こえないよう呟いたのは、岬の中で暴走するのを防ぐため。その配慮は彼らしいけれど、文句を垂れない、という選択肢を選ばないところも彼らしい。岬は密かに苦笑した。
「さあ岬、次はどこへ行く。体調はもう良いのか?」
「うん、平気だよ。どうしようか」
『おい待て、俺がいるのにイチャつくんじゃねぇぞ』
「妙に突っかかるな。お前、さてはモテないだろう」
『うっ、るせぇ……俺が生きてたらお前なんてなァ……』
日没までの数時間。
あれほど乗り物にはしゃいでいた厘は嗜好を変えたらしく、散歩がてら園内をひたすら巡っている。途中で見かけたチュロスや、季節外れのソフトクリームを頬張って、しかし時折真剣な瞳で岬の頭を撫でた。
中の声に眉を寄せると、彼は優しく「平気か」と顔を覗き込む。その度、岬は笑ってみせた。時折、不安になって空を仰いだ。憑いている霊魂が苦手だということ以外にも、自分の身体に変化が起こっていることに、気づき始めたからかもしれない。
……まだ蒸し暑かったあの頃に、極楽浄土を望んでいた私はもういない。厘と共に、生きていたい。
岬は明確に、そして久しく自分の体調を案じる。心から、満月を待ちわびた。
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