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第5章 理性の破綻は著しく

19話

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 「いつまで狸寝入りをするつもりだ」

 厘は羽織のなかで腕を組み、居間で横たわる岬を見据えた。瞬間、彼女の口角はゆったり持ち上がる。やはり、岬本人の持つ表情ではない。
 警戒する厘をよそに、彼女は気だるげに上半身を起こした直後、悠々と欠伸を吐いた。

「うーん……バレてたのね」

 ふぁ、と放たれる吐息に、齢十七の娘には不釣り合いな色気が垣間見える。今日はまだ、新月の数日前。通常ならあり得ないが、この風体は間違いなく“完全憑依”の形態。厘は「当たり前だ」と余裕を繕った。

「あれぇ、……あなたって雄よね」

 顎に人差し指を添え、小首を傾げる岬。艶のあるその表情に、ゾクリと何かが掻き立てられた。

「だったらなんだ」

「不思議だなぁと思って。この私に・・・・あまりそそられないみたいだから」

 ふふ、と息を漏らしながら立ち上がり、彼女は厘と距離を詰める。
 床を擦るような足の運び。妖艶な空気。岬の体を纏っていても、改めて違うと判る。すべて憑依している霊魂の性質に基づいており、そこに岬の意思はない。さらに言えば、みさ緒の時より溶け込みは著しく、厄介に違いない。
 理由は二つ。新月でもないのに完全憑依ができる、黒闇天みさ緒以上に特殊な霊魂だということ。そして、雄にとっての天敵であるということ。

「もしかして、同性愛者の類い?」

「答える必要がどこにある」

 厘はゴクリと喉を鳴らしながら、彼女の肩を強引に遠ざける。岬の身体を纏っている分、余計に扱いにくい。———諸々散漫、顔を歪めた。

「へぇ……なるほどね」

「何がだ」

「この体の娘……ミサキ、って言ったっけ。随分大事にしているのね」

 彼女は、気だるげに垂れた瞳を細め、妖艶な笑みを点した。

「あぁ、ごめんなさい。私は早妃さきっていうの。地に追放された悪魔にも、名前はあるんだ」

 悪魔———。反芻する。半分憑依を経ず、岬を乗っ取ることができたワケ、憑いていた汐織が枷にならなかった理由にも紐付いていく。厘はさらに顔を歪めた。

「悪魔というより、お前は悪霊だろう」

「ふふっ……そう呼ばれるのも、嫌いじゃない」

 早妃はおもむろにブラウスのボタンを外しだす。今朝、岬が時間を掛けて選んでいた、レース生地のブラウスがはだけていく。

 ———『どう、かな……お母さんのお下がりなんだけど、』

 脳裏を擦るあどけない声。目の前の事情と合わせると、これ以上ない程ばつが悪い。

「ねぇ、どう?これでもそそられない?」

 パックリと開いた胸元に、小ぶりな果実が垣間見える。一層、大変、ばつが悪い。……庵を置いてきたのは、どうやら正解だったようだ。

「小娘の体になどそそられん」

 厘は額に手を当てながら、出来る限り熱を吸う。
 ……———舐めるなよ、悪霊。これまで俺がどれだけ耐えてきた・・・・・と思っている。……本人あいつ以外に、理性を壊されてなるものか。

「ふーん、つまらないの」

「……それより、早く正体を明かせ。まぁ、検討はついているがな」

「んー、だろうね」

 本当はもっと驚いて欲しいんだけど、と溢しながら椅子に腰を下ろす早妃。テーブルに肘を立てて足を組む様は、岬の仕草言動から遠くかけ離れていた。

「わかりやすく言うとね、私は夢魔むまの一派。分かるでしょう?路地裏で男たちが言い寄ってきたのも、夢魔の力」

「ああ。本能には逆らえないだろうな。普通の人間は」

 夢魔———性的魅力を武器として男を誘惑し、それを襲う悪魔の一種とされていた。存在した時代も国も違っていたはずだが、彼女が夢魔、もしくはそれに準ずる悪霊であるという証拠は嫌と言うほど揃っている。雄の強い庵があれほど異常を見せたのも、早妃の “武器” によるものに違いないだろう。

「それで……なぜ憑依対象を変えたんだ」

 厘は、路地裏での出来事を回顧しながら尋ねる。あのときは。男を誘っていたときは、虚ろな瞳の少女に棲みついていたはずだ。岬の手をとった、あの瞬間まで。

「うーん……言わなくてもわかるんじゃない?」

「勿体ぶるな」

「厳しいなぁ……」

 細々とした黒髪を指に巻きつけながら、早妃はぼやいた。

「居心地がいいからに決まってるでしょう?」

 そして、鋭角に唇を持ち上げる。
 何度その言葉を耳にしたか分からない。居心地がいい、入りやすい———その度、岬は命を賭しているというのに。

「それはなんだ……ほかの人間にはないものなのか」

 沸々と込み上げる怒りを抑えながら、厘は訊いた。

「ないない。路地裏で憑いた子はまぁまぁだったけどー……基本は憑くことなんてできないよ。私でさえ」

「路地裏の娘と岬、何が違う」

「何かなぁ。うーん……」
 
 どうやら、この夢魔の口癖は「うーん」のようだ。スムーズに話を進められた試しがない。厘は苛立ちを指に込め、組んだ腕に何度も落とした。先を急いていた。

「白々しい……岬に移る前『最高』と言っていただろう。一体、何が違う」

「あぁ~……、そうね。そうだった」

 わざとらしく見開かれる瞳。猿芝居にもほどがある。もしや、誘惑に乗らなかった嫌がらせだろうか、と眉を寄せた。

「岬は規格外に憑きやすいのよ。それに、操りやすい。他の人間は窮屈なのに、この子は魂の居場所が広い感じ。……わかる?」

「わからんな」

 憑いたこともないのに解るはずもない。しかし確かに、あの少女のときと岬である今とでは、言動が全く違う。操りやすい、という表現は気に食わないが、嘘をついているわけではないらしい。

「それとお前、いつまで乗っ取るつもりだ」

 ただ、このままの状態を許すわけにはいかない。完全憑依を保てているのは、悪霊であるが故。つまり、岬の精気はその分減らされる吸われる。できる限り早く追い払わなければ、危ういどころではない。

 ———致命傷になり兼ねない。
 厘は焦燥に駆られた。その様を見据えた早妃は、岬の顔で微笑んだ。

「うーん……内緒かな」

 妖艶に。執拗に。
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