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第4章 貫く瞳は常より眩しく
17話
しおりを挟む最初に変化を見せたのは庵だった。
「なんだ……この感じ……」
夕刻、デパートのガラスにネオンが揺らぎ始める頃。庵はスンスンと鼻をひくつかせながら、頬を紅潮させる。心なし目も垂れて、徐々に覇気が失われているように見えた。
「庵?どうかしたの?」
「……いや、」
様子がおかしい。
「何だ、何に釣られている」
厘も怪訝そうに、その姿を見つめていた。“釣られている” ———庵の様子を的確に示す言葉だった。岬にも、夕飯の香りに誘われ自然に足が赴く経験はあったが、庵の様子は似て非なるもの。誘われるだけでなく、何かを吸い取られているようだった。
「身体が少し、熱くなってきた」
「……え?」
ただでさえ薄着だというのに頬は火照り、口調にも力がない。
「風邪……かな?体温診て、」
「いや、違う」
庵の額へ差し伸べた手は厘に遮られ、握られたそれは強く締め付けられる。らしくなく、加減のないその強さは、緊迫感を覚えさせた。
「ついて行くぞ」
「う、うん……」
厘は何かに気づいている……?
鋭く双眸を光らせた彼を横目に、岬は唇を堅く結んだ。庵が立ち止まったのは、およそ数分後。
「ここだ……ここが一番キツイ」
センター街の、空気を割るような賑わいが嘘のよう。正面に写る路地裏だけが、街から切り取られたように静まり返っている。ただ、人の影はいくつも見えるのが一層不自然極まりなく、まるでテレビの無音状態だった。
「ほう、原因はあの集りか」
物怖じする岬とは対照に、厘は堂々前を行く。そして、頬を紅潮させたままの庵は力なく放った。
「ハッ……なるほど……引き付けられてんのは全員野郎共、ってワケか」
岬は喉を鳴らす。月を隠し、曇天へ移り変わった空の下。藻のように無音で集る男たちが、一人の少女を囲っていたからだ。
「ねぇ厘、あれって……」
「ああ。様子がおかしい。男共だけでなく、あの娘もだ」
厘の言葉を反芻し、再び前を見据える。壁に追いやられている少女は覇気がなく、目は虚ろ。彼女を囲う男たちよりはるかに小柄で、獣に狙われた小動物のよう。しかし、動揺の気配はない。
確かに『様子はおかしい』けれど———最悪を案じた岬は、思わず一歩踏み出す。
「やめろ、行くな」
制止したのは庵だった。
「よく見ろ……男共の息が荒ぇだろ……異常に」
僅かだった。庵から言われなければ気づかないほど、些細な音量。それは、遠目に写る彼らだけのものではないことを、岬は悟った。
庵も、微かではありながら厘も同様。握られた手首に伝わる体温は、今までにないほど高温だった。
「野生の勘だけどな……あの女は危険だ。絶対近寄んじゃねぇぞ」
何かを堪えて絞り出された庵の声。汗ばんだ額と湿った群青の瞳に、岬は唇を噛み締めた。
「生憎、俺も同感だ。どうしても助けたいというのなら、俺が行く」
どうする、と厘に問われ口籠る。
……いつも私は何もできない。厘がいなければ、女の子一人救えない。もし……もし、お母さんだったらどうする。紙袋を握りしめ、岬は俯いた。
『岬は、出来てるよ』
「……え?」
内側で、さざ波のように穏やかな声が響いたのは、ちょうどそのときだった。
『少なくとも僕が長くここに居るのは、岬の温度が心地いいから。あ。変な意味じゃなくてね?』
「汐織……」
霊魂といえど、心の声を掬われたのは初めてのこと。それでも違和感を覚えなかったのは、汐織の鋭さを知らされて来たからだろう。
『ぬくもりを思い出させてくれた。人を恨んだまま成仏できなかった僕に』
淡色の絵の具が水に溶けていくように、ゆっくり広がる声の波長。恨む、という言葉とは裏腹、彼は変わらず穏やかだった。
『きっとそれは、厘も庵も同じ。……そうじゃないと岬を助けたりしないよ。でしょ?厘』
「……皆まで言うな」
厘の頬は蒸気していた。岬は唇を噛み締めた。
助けられてばかり。私には、未だ何も出来ない———それは紛れもない事実。
「厘」
「なんだ」
「……お願い———あの子を助けて」
『助けさせて』と言えない自分を卑下したい。でも今、救える方法があるのなら。私は私のもてる劣等感も罪悪感も、全部認めて力にするから———
岬は割った唇を震わせて、厘の手を握る。
「仰せのままに」
直後、殊勝なセリフと不敵に笑う白い影の残像が、風を呼ぶ。ものの数秒で少女の元へ追いつく厘の姿に、岬は心を貫かれた。深く、深く、貫かれた。
ドクン、ドクン———。脈が濁った音を立てる。今までにないほど強く、押し寄せる。脳天がぐらついた。
「いいの、見つけた」
だからこそ、“彼女” が目の前に現れるまで、気づくことができなかったのだろうか。厘の残像に、心を奪われていたから。
「っ、岬!……岬———!!」
少女を救いに行ったはずの厘の声が、濃く脳裏に刻まれる。表情は見えずとも、彼が必死な様子は手に取るようにわかった。いつも、厘はそうだった。
「最高ね、あなたの身体」
虚ろな瞳が光を宿す。正面で微笑を浮かべた彼女は、岬の手を取った。瞬間、プツリと途絶える意識。テレビの電源を切られたように、視界は暗闇に包まれる。
『……っ、何もできなくてごめん、岬』
最後に刻まれたのは汐織の、柔く弱々しい声だった。
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