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第3章 同族嫌悪も甚だしく

11話

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 伊藤いとう あん
 本人は『ただの庵だ』と言い張っていたけれど、校門前で『伊藤ー!お前はいつまでそんな頭で———』と怒鳴られていたのを隣で聴くことになり、名前を知った。

「今日は静かだなぁ……」

 教室の片隅。窓の外を眺めながら、岬は呟いた。
 朝は全く静けさとは程遠かったけれど、ここ最近は久しく静寂に包まれている。でも、数日もすれば霊に憑かれるの繰り返し。嵐の前の静けさ、と言っても過言ではない。しかし風はすでに、静かに足元を掠め始めていた。

 ヒュンッ、パリンッ———。
 鋭く空気を切る音。そして、完全に閉ざされていたはずの窓際から、隙間風が吹き込む。

「……え?」

 どこから放たれたのか。目の前を通過した白い矢が窓を突き破り、中庭の樹木に刺さったのだと気が付いたのは、教室内が騒然とした直後のこと。

「なっ、なに!? いまの」

「ガラス、飛び散ってるし……いや、とりあえず先生呼びに、」

「どういうこと……? 急に窓が割れるなんて。石でも飛んできたのかしら」

 岬は窓際に寄せられる声と言葉に、大きく目を見開いた。
 急に?石?みんな、あの矢が見えていないの……? 目の前を素早く通過した、あの白い矢、視えていないの?

「先生———!ここっ、ここっ、急に割れたの!」

 戸惑いを隠せない内に、担任がやって来る。見えざる白い矢の謎よりも、クラスメートから詰められる距離の方が怖い。岬の脈は荒波を立てた。

「うわッ。なんだこれ。誰かが割ったんじゃなくてか」

「違いますよ。だって、傍に居たのって……」

 担任を連れてきた女子生徒は、岬を一瞥するなり「あ」と一歩、二歩退いた。触れてはいけないものに近づいてしまった、と言わんばかり。臆されることには慣れていた。

「花籠さんだけです……ここに居たの」

 また一歩二歩と距離を取りながら、クラスメートは告げる。腫れ物以前、敬遠するような瞳で、自ら狭めた距離を遠ざけた。

 ……大丈夫、大丈夫。
 岬はペンダントを握りしめながら調える。この世のモノではない、視えない何かと言葉を交わす様は、さぞ悍ましいのだろう———悟ったのは、中学に上がってからのことだった。

「ごめんなさい、しっかり見ていなくて……でも私は、触れていませんので」

「あ、おい花籠……!」

 震えた唇を割り、小さく頭を垂れた後、岬は教室から飛び出した。
 あの場に居続けたら、クラスメートに恐怖を与えてしまう。痛いほどに解っていた。気味が悪い、と広まる噂が、教師を含め校内全体に知れ渡っていたことも、同様に。だから、窓が割れた要因に疑われても無理はない。花籠岬が常識では説明しがたい力でもたらした、と。

「大丈夫……大丈夫」

 皆は間違っていない。普通でない・・・・・方が、きっと悪い。バランスを保つために必要な、アンバランス。「花籠さんアレが本当にやばくてさ」、そんな切り口で教室が盛り上がる様子が、物語っていた。

 岬は唇を固く結び、早歩きで廊下を行く。途中、「もうすぐ始業だぞ」と掛けられた教師の声は、耳に入らない。内側で鳴る心音の方がはるかに大きかった。昔習った通り、心臓がポンプだと改めて身に染みるほどに、うるさかった。

 何度も経験してきたはずなのに。なのに、どうして———

 鼻の奥を突き刺す痛みに、顔を歪めた瞬間だった。

『危ない……!!』

 内側から響く声。中庭に向かっていた足を止めたのは条件反射。目の前には中二階までの階段が続いている。見据えていたつま先の視界が塞がれたのは、その直後。ガシャンッ、と鼓膜を裂くような大きな音が、岬の肩を震わせた。

「っ……、」

 思わず閉じていた瞼を持ち上げると、鉛色の大きな箱が目の前に横たわる。すぐに、それが脇に佇んでいた掃除用具入れだと気づき、岬は足を竦ませた。

『危なかった。あと一歩踏み出してたら君、下敷きになってたよ』

 用具入れに視線を落としながら、の存在を思い出す。内側から響く警告が無ければ、立ち止まることはなかっただろう、と更に背筋が凍った。

「……今度は、男の子?」

 岬は腕を擦りながら、憑依した新たな霊魂に尋ねる。

『全然入るつもりじゃなかったんだけど、君が潰される寸前だったから』

「じゃあ、私を助けるために……?」

『まぁ、そういうことになるかな』

 優しく、でも張りのある爽やかな声。青さが抜けきっていないため、享年はみさ緒よりも若く感じられる。ただ、

『君は結構あれだね。危なっかしい感じだね』

 口調は冷静で、妙に大人びていた。

「あの、ありがとう……本当に危なかったみたいだし」

『いいよ。それより用具入れ、一人で直せる?』

「うん。やってみる」

 意気込んだものの、かなりの重量。秋風に押し倒された、とは考えにくい。もしかしなくとも、あの白の矢と関係があるんじゃ、と鉛色に手を掛けながら巡らせた。

「……そんなんじゃ持ち上がんねぇだろ」

「え?」

 手に錆の匂いを擦り付けながら、奮闘する最中。横から響いた声に不意をつかれる。

「あぁ?なんだよその顔。手伝ってやるっつってんだから、もっと敬え」

 秋風に靡く金色の束。秋の匂い。強引にも場所を取って替わり、素早く用具入れを立てるその人物には、非常に見覚えがある。漁船が再びやってきた、と悟るまで、そう時間はかからなかった。

「伊藤くん……」

「……その名で呼ぶな。俺はあん、敬称もいらない」

 敬え、と言っていたのに。いつの間にやら元の通りになっている用具入れを見据え、岬は呆けた。持ち上げることすら叶わなかった用具入れを早々に、彼は立て直してしまった。意識を巻き戻しても、正確に作業の内訳を思い出せない。まるで魔法のようだと思った。

「おい、聞いてんのかチビ」

「は、はいっ……その、ありがとう……また助けてもらって」

 見下ろすように睨まれ、岬は怯む。魔法に宛がったと言えば、機嫌の悪そうなこの顔はさらに歪むだろう、と確信した。

「……別に。それよりお前もサボりか?」

 庵は、すぐに顔を背けて後ろ髪に手を添える。その仕草は、照れ隠しをしている厘によく似ていた。

「私はその……少し外の空気を吸おうと、」

「つまりサボりってことだろ。言い訳すんな」

「ごめんなさい……」

「俺はいまから中庭で授業をバックレる。邪魔しにくんじゃねぇぞ」

 ぶっきら棒に、しかし手をハラハラと振る庵は、大股で階段を下っていく。すこし丸まった背中が今朝よりも優しく見えたのは、気のせいだろうか。

『随分と乱暴な男だな。友だち?』

 息を潜めていた中の声が尋ねる。悪い人ではないと庇いながら、なぜか “乱暴” という言葉を否定することはできないでいた。同時に少し笑みが漏れた。やっぱりちょっと、厘に似ている。

「友だち……ではないかな。今朝知り合ったばかりだし」

『今朝?』

「今朝、危ないところを助けてもらったの。そのときもすごく強引だったけど」

 笑みを浮かべながら踵を返す。中庭に行けないとなると、なかなか逃げ場がない。それなのに、心は大分軽くなっていた。

『でも、あいつ自身が危ない奴だと……いや、それより、僕の名前は汐織しおりっていうんだ。長く居座るつもりはないけど、よろしく』

「男の子で汐織って珍しいね。すごく素敵」

『そうかな。その反応は初めてかも』

 ホームルームを終えた教室に戻るまで、岬は汐織と他愛のない話をした。同じ異性でも厘や庵、まして蛇の男とは全く違い、穏やかな気持ちで会話は弾む。透き通った水が包み込むような声に、癒された。

『岬。あの庵って男、気を付けた方がいいかもよ』

 だからこそ、汐織の忠告には思わず言葉を詰まらせた。知らぬ間に、庵への情が沸いていたのかもしれない。

『僕、勘が働く方なんだ』

 その勘の鋭さが嘘ではない、と明らかになったのは、放課後のことだった。
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