白の甘美な恩返し 〜妖花は偏に、お憑かれ少女を護りたい。〜

魚澄 住

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第3章 同族嫌悪も甚だしく

10話

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 胸元でタイを縛り、玄関の戸を開く。彼と出会った頃の蒸し暑さは大分和らいで、吹き込む風が心地よかった。

「鍵は」

「持ちましたっ」

「じゃあ行くぞ」

「うん」

 そういえば、少し銀杏と金木犀の匂いも含んでいる。母が好きだった、湿り気のない香り。

 ———『嫌う人も多いけど、お母さんは秋を感じられて幸せな気分になるの。一番好きな季節だから』

 岬は思い返しながら、鎖骨の窪みに映える形見のペンダントを握りしめる。その言葉を簡単に受け止めきれないのは、きっと、母と最後に過ごした季節の終わりを感じているからかもしれない。

「そういえば、その首飾り……」

 厘は首元に視線を注ぐ。

「うん……お母さんからもらったの。きっと何かの役に立つ、って」

「そうか」

 柔らかい陽光にかざしたその飾りを見据えた直後、厘は一歩後ろへ下がる。適度に置かれる距離。みさ緒が離れてから、決まってこの距離を保ちながら登校するようになっていた。
 目立たないように、という配慮なのか。先日まで、みさ緒が憑いている頃までは、絶対傍から離れない強い意思(むしろ意地)さえ感じていたのに。

「これ……押し花かな」

 どうせなら、学校まで一緒に行けたらいいのに。岬は視界に写らない厘の気配を感じながら、翳したガラスの楕円を見つめる。中に散りばめられた黄色の粒は、花びらのように見えた。
 厘に訊けば、すぐに何の花か見抜いてくれるだろうか。……そういえば、厘のような妖花は他にも———

「お、っと」

「わっ……」

 逡巡の最中、岬は大きな図体に身体を弾かれる。人影に気づかなかったのは、ペンダントを見つめたまましばらく呆けていたせいだろう。

「ご、ごめんなさい」

 相手は肩幅の広い大柄の男性。体をよろつかせるだけで済んだのは幸いだったが、その大柄を見上げるなり冷や汗が要所から吹き出す。首筋に入った蛇の入れ墨が、こちらを睨んでいるように見えた。同時に、凄まれることを覚悟した。

「……あぁ、いいっていいって~」

 しかし、それは杞憂だったらしい。持ち上げた視線の先、糸目をさらに細める男性に、岬は胸を撫で下ろした。

「す……すみません。気を付けます」

「気にしないでよ。ところでさぁ、お嬢さん」

 しかし再び、一転、男の目の色が変わる。撫で下ろしたはずの胸が、ざわつきを覚える。

「その制服、環央かんおう学園のだよね?カワイイなァ」

 蛇の男は膝を曲げ、岬の胸元に視線を合わせた。途端香るタバコの匂いに、金木犀が掻き消される。鼻の奥をつつくような香りに口を結んだ。

「俺ね、実は新しいカフェをオープンする予定でさぁ」

「……カ、フェ……」

「よかったら、何枚か写真撮らせてくれないかな。その制服、スタッフ用の制服の参考にさせてもらいたいんだけどなァ」

 ゾクリ。足先から胸元まで、舐められるように持ち上がる男の視線が、背筋を妙に凍らせる。

「その色のタイも、可愛いよねぇ」

 え、へへ。ひきつった頬が痛い。岬は声にならない声で笑った。

「少し触ってもいい?」

 承諾などあってないもの。直ぐにもったりとした手がタイに伸びる。

「っ、」

 反動で胸元に触れたのは、まぐれじゃない。そう理解してしまったのに、声ひとつあげることができなかった。

 りん……厘……ッ———心の内で助けを求める声だけが、脳天を支配した。

「やっぱり可愛いねぇ……君」

 至近距離に、入れ墨と先の尖った口角が近づく。
 同じ異性であっても、厘が距離を詰めるときに覚える緊張感とはまったく違う。あやかしだから?妖花だから?———自問自答の終点はなく、それでもただ “違う” ことだけが、目の前の恐怖を煽った。

「や……」

「何してんだよ、おっさん」

 やめてくださいっ……———懸命に絞り出そうした声は遮られ、握った拳は解かれる。岬は正面を覆う影に目を見張った。

「いっ……タタタタ!!」

 男の手首が何者かによって掴まれ、突き上げられていた。見ている方まで痛々しいと思えるほど、太い手首はキリキリと皺を刻んでいく。大蛇は呻いた。

「目障りなんだよ。男が嫌がる女に手ぇ掛けんのが。……わかったら、さっさと失せろ」

 突如現れた助け船。絵の具で塗ったようにむらのない金髪。背は丸まっている割に高く、声は少し掠れ気味。見上げると睫毛がとても長く、こちらも黄金色。それと———岬は彼の纏う服に再び目を見開いた。

「ッつ……俺ァ、制服参を考にしたいって頼んでただけだ……!」

 同時に、手を解こうと暴れる大蛇の気迫に一歩退く。瞬間、金髪の彼は「フハハハッ、これで技が入るぁ~!」と舌を巻きながら、口角を持ち上げた。

 ゴキッ———。
 華麗で見事なハンマーロックに、男の関節が弾ける。声すら出ないといった表情に、金髪の彼は乾いた笑いを響かせた。

「ガハハハハッ、観念したかクソ野郎ー!」

 恩人といえど、どこか悪役臭の漂う言動に、思わず苦笑を浮かべた。

「あ、あの……もう離してあげてもいいんじゃ……」

「あ?俺に指図すんな」

「う……」

 横から挟めば睨まれる。むしろ、蛇よりも鋭い。

「かっ、観念した……、それでいい!イイから、放してくれ……」

「話す?何をだ?まだキメてる途中なのに、無駄話なんかしてられっか」

 それに、理由は何でもいいらしい。助け船云々よりも、今は技を決める方に傾いているらしい。船は船でも、荒波に揉まれながら進む漁船のようだった。

「たのむ、頼むよォ……!コレじゃあ使い物にならなく———」

「ハァァ?……ったく、わかったよ。もういい」

 呆れたように投げ捨てる恩人の言葉に、岬は今度こそ胸を撫で下ろした。本当にカフェを営むつもりだったとしても、あのひとは今後、この制服をモチーフになどしないだろう。絶対に。
 逃げるように去っていく大蛇の背を見つめながら、岬は思い伏せた。入れ墨が泣いているように見えた。


「あの……すみません。助けてくれて、ありがとうございました」

 金髪の彼に首を折る。漁船といえど、助けてもらった事実は変わらない。純粋な感謝だった。

「謝りたいんだか礼がしたいんだか分かんねぇな」

 ぶっきら棒。振り返りながらに言われ、「す、すみません……」と声を細くする。直後、逸らした視線を再び注ぎ、風体を改めて一瞥する。
 彼は同じ環央学園の制服を纏っていた。

「つーかお前、なんか匂うな」

 あれだけの力、きっと運動部に違いない。柔道部にしては線が細いので、空手部あたりだろうか。

「に、おう……?」

 太陽を優しく反射する金髪に、群青の瞳。不毛な推測をしていると、その端麗な容姿に視界を奪われる。気づいたころには、彼は至近距離で鼻をひくつかせていた。

「ああ。……匂う」

「な、なにがでしょうか、」

 毎日お風呂も入っているし、制服もまだ汚れていないはず。え……もしかして。
 岬は自らの体臭と口臭を案じ、掌で口元を塞いだ。スンスン、と距離を詰めながら寄せられる鼻腔への配慮と、年頃の女子としての恥じらいだった。

「いけ好かねぇ匂いだ」

 彼が口を開く度、心臓に刺さる。厘にもそう感じられていたらどうしよう、と肩を落とし、岬は後ろを気に掛ける。しかし、後ろに居たはずの厘はすでに、どこかへ気配を消していた。

「でも薄い。……妙だな」

 眉を顰めた美青年に首を傾げる。瞬間、ふわりと頬を撫でるように漂う風。そこには朝に感じたときよりも濃く、深く、秋の香りが含まれていた。


  ◆


 細い束の金髪に、少し伸びた襟足。群青の瞳。大男に絡まれている岬を救けようと足を踏み込んだ瞬間現れた、その男。厘は直ぐさま察知して、気配を消した。

「また厄介なものに……アイツはなんだ、面倒を引き寄せる才能があるのか」

 ため息とともに額を抱える。厘は岬が再び不運に巻き込まれる予感を、密かに感じていた。
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