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第1章 死神はとても麗しく
02話
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岬は混乱していた。
台所に立って味見をする姿はさながら母のようだったし、調味料や器具の場所も熟知しているように見えたからだ。まるで、今まで一緒に共生してきたかのようだった。それに、全く違和感を覚えさせない呼名。
「岬。これをテーブルに」
「あ……うん」
どうして私の名前を知っているのだろう……。
岬は差し出されたお椀を食卓に並べながら、首を捻る。本当に怪しい人だったら危ないのでは、と過るものの、追い出すことはできないでいる。リリィだと名乗られているからか、もしくは心の内で後ろ髪を引く何かがあるのか。根拠は分からなかった。
「よし。食べるか」
袴のように裾広がりのはき物。良い仕立ての藍色の羽織。嫌味なく着こなした背丈が、同じ目線まで下りてくる。岬は喉を鳴らしながら、事もなげに正面に座る(自称)リリィと、目の前に広がる豪華な食事に手を合わせた。
「い……いただきます」
「召し上がれ」
一汁三菜がそろっている食卓はいつぶりだろう。疑い深く男を見つめながら、感心していた。
匂いからも伝うコクの深さ。鼻腔を香りが独占すると、理性が薄まる。早々に箸へと手が伸びる。外見、年齢はそこまで変わらなさそうなのに、良妻賢母と称えたいくらいの出来栄えだった。
こんなの、絶対美味しいに決まっている。
「……っ、おいしい……!」
「当たり前だ」
一番に含んだのは豚汁。味噌のコクも、干からびた喉を溶かすような温かさも、あまりに久しい。それに、母の豚汁とよく似ていて、不覚にも視界を滲ませる。キャベツとネギをふんだんに使った母の豚汁、そのものだった。
「あの……食材ってどこから……」
潤った喉から、控えめに声を通す。
「買ってきた。買い物くらいできるぞ俺は」
「その格好で……?」
「……何か不満があるのか」
未だ箸を持たず腕を組んだままの男は、ギロリと岬を睨んだ。鋭利な矢を彷彿とさせるほどの、眼力だった。しかし、人と長く目を合わせるのが久しぶりで、岬の心は弾んだ。無意識に、顔を綻ばせるほどに。
「何がおかしい」
「え?」
「にやけているだろう。俺の見てくれに、おかしなところでもあるのか」
寄せられた男の眉間には、皺が縦に刻まれていた。その下で、白く長いまつ毛が、これまた鋭利に尖っているのが分かる。
あれほど沈んでいたのに、乾ききっていたのに。口角って、鈍らないのかな……。
岬は頬を押さえながら視線を落とす。最後に笑った記憶があるのは、母親が倒れるよりも前の事だった。
「おかしくなんて……むしろ綺麗です、とても」
「そうか。ならいい」
鋭いところは数多、それでも隙間と味には優しさが垣間見える。不思議、と内側でつぶやきながら、和え物を頬張った。
「あの……」
切り出すと、男は呆れた様子で視線を配る。怖くはない。
「今度はなんだ?」
「あなたは、本当にリリィなの?」
単刀直入に唇を割った。見ず知らずの(とても怪しい)男が作った料理を食し、追い出しもせず留めている状況からして常軌を逸していたが、それを重ね塗るように岬は逸した。
人間でない物が、人間に化けている———事実であれば、信じられるのは自分だけではないのだろうか。岬は喉を上下に揺らす。
「そう言っているだろう」
吐息とともに零しながら、彼はようやく食材を含む。豚汁以外、料理ではなく丸々食材の姿だった。こちらにはゴマと和えられているホウレンソウが、スッピンで彼の口内を潜っていく。生で噛みしめられる音は、とても穏やかだった。
「生野菜って、苦くない……?」
「ああ。生身の人間と違って花には水分が必至だからな。炒めると飛ぶだろう。それに、生の方が美味い」
いまの姿はまったく、お花のようには見えないけれど。
「えっと……つまり、人間の姿に化けている、ってこと?」
核心をついた。
「分かりやすく言えばそうだな。もともと、俺はただの花ではないが」
ゴク、ゴク、ゴク。コップを片手に「ぬるいな」と顔をしかめたあとで、男は言った。
「岬。お前と、お前の母親が生けていた花は “妖花”。普通の花と違う点があるとすれば、一年中開花させること、人の姿に化けられること……あとは精気の量だ」
「妖花……精気……」
平らげた料理に両手を合わせ、岬はオウムを返した。
記憶は古くとも、母が読み聞かせてくれたおとぎ話、昔話の類には『人に化ける妖怪』や『動物』が登場したことは覚えている。けれど、まさか、花が化けるなんて。
思い伏せながらも、岬自身の脳裏に疑うという分岐は疾うになかった。自分自身も“ただの人間”とは言い難い存在であると、幼心に昔から悟っていたからだ。
「精気の件に関しては、お前にも思い当たる節があるだろう」
「え……それは、どうして?」
「母親から告げられていなかったか?『俺を摂りこめ』と」
彼の言葉に異論はない。言う通りだった。
母との約束、そして日課。身体の不調を訴えると、母は決まって言っていた。現に守らなかった影響で今日日調子が悪く、極楽浄土までもを目前にした。
「『リリィは私を守る、大切な薬』って言ってた……でも、それが精気と関係あるの?」
「大ありだ」
リリィは白髪を扇のように靡かせたあと、無音で腰を持ち上げる。一連のその動きは驚くほど滑らかで、岬は直前まで気配に気づくことができなかった。至近距離で顎を持ち上げられる、そのときまで。
「ぅ、あ……」
情けない声が漏れる。友人は愚か、異性(花に性別があるのかは不明だが、姿見は紛うことなく異性)の身体とこれほど接近する状況は、岬にとっては初めてで。顎をなぞるように触れられる経験など、無論ないに決まっている。
強引に持ち上げられた視線は、鈍色に光る瞳に捉えられた。
「分かるか、岬」
「わ……かりません……?」
容赦なく、さらに近づく端麗なご尊顔。男の表情筋は動かない。しかしそれは真顔というより、若干怒りを含んでいるように見えた。
「お前が俺……鈴蘭を“香り”で摂りこんでいたのが精気。母親が云う薬に、近いと言えば近い」
香り。言われて思い浮かぶのは、少なくとも月に一度摂りこんでいた鈴蘭の香り。どんな処方箋よりも、岬の身体には効果があった。
これまでも不思議に思ったことはあるけれど、まさか、人に化けられる花だとは……。もしかして母はリリィが特別な花———妖花であることを知っていたのだろうか。ずっと前から、最初から。
「つまりな。摂り込むのを一定期間止めた場合———お前は死に至る」
鋭い双眸とは裏腹、白髪から香るそれは確かにリリィの香り。……ああ、だから私は、得体の知れない安心感を彼に感じていたんだ、と今更糸が解けた。
「そっか……ずっと本当に、守っていてくれたんだね」
柔和に目を細める。リリィはその表情を見るなりさらに眉を寄せた。
「分かっているのか。此度それで死にかけたこと。俺を、摂り込まなかったばっかりに」
怒っている。
「あ……え、と……確かに眩暈はいつも以上に酷くて。でも、倒れたときはもう……助からなくてもいいかなって、思ったの」
「それは、母親と同じ場所へ逝きたいと思ったからか」
「……うん」
直後、掴まれていた顎から低い体温が剥がれる。リリィはその手を額に当て、大きく息をついた。
「言っておくが、宇美はそんなこと望んじゃいないぞ。全くな」
宇美。母の名前だった。それに「望んでいない」と刻む口調は明らかに核心を持っている。岬は首を捻った。
「リリィは、お母さんから何か聞いていたの?」
「聞いていたに決まっている。……いや、聞かされていた、と言う方が正しいかもな」
「……?」
「飽きるくらいに聞かされていた。『自分が居なくなった後も、必ず岬を護ってくれ』と」
今まで頭の片隅に眠っていた記憶。それでも余程印象に残っていたのか、手繰り寄せるまでに時間はかからなかった。花開く鈴蘭に向け、こっそり呟いている華奢な背中が、記憶に点った。
お母さん、もしかして———自分の前途がそう長くないことを、ずっと昔から知っていたの? そう遠くない未来で、私の傍に居られなくなってしまうことも。
「だから俺は化身として現れたんだよ。岬の前に」
「お母さんとの約束を、守るために……?」
「あぁ。それが俺の使命だからだ」
少し歪んだ視界の中で、頬を緩めるリリィ。棘のないその笑みは、鈴蘭の毒気を抜いたように朗らかで、不覚にも生暖かい涙が溢れた。
「じゃあ……倒れた私を引き戻してくれたのは、リリィなんだね」
彼の世へ差し伸べた私の手をとって、引いてくれたのは———。
心の内で続けると、湿った瞳に羽織りの袖を押し当てられる。かと思えば、ぶっきら棒に「ああ」とそっぽを向くリリィに、思わず笑みが零れた。
母を亡くしてしばらく、無色空白だった日々。自分の体温さえ見失っていた数十日。失くしたはずだった居場所を、彼が優しく注いでくれたような気がした。
「そうだ……リリィはどうやって、倒れた私に精気を? 香りを摂り込むのってかなり体力がいったはずだし、」
何を笑っているんだ、と再び咎められた後、岬は尋ねる。
無意識にできるとは到底思えない。思い切り吸い込んで喉へと流し込むイメージが、脳裏に浮かぶ。鈴蘭の花弁を傍に全身へ巡らせるためには、それなりに体力が必要だった。
「必要な量も量だ。嗅ぎ入れる、なんて無理に決まっているだろう」
「え、っと……じゃあ、どうやって?」
答えを急かすと、リリィは時間を遡るように顎の先を持ち上げる。強引に交わる視線に、心臓が強く締め付けられた。
「接吻をした。つまり、俺の精気を直接注ぎ込んだ」
ここからな———続けながら、尖った爪が妖艶に唇をなぞる。鋭い瞳に縛られる。
固まったまま、岬は納得した。だから、何度も顔を近づけて示したのだ、と今さら言動を紐付けた。直後、赤面するとともに呆然とした。
華が似合う年頃、十七歳。とはいえ、経験も兆しもこれまで一度もなかったのだから。
「あとな。不便なことに、元の姿には戻れないらしい。だから今後は、その方法でお前を生かすしかなくなる」
「うん……え?」
岬はたじろぐことも許されないまま、唇を噛み締める。ファーストキスの相手は、脅すように瞳を細めた。
「逃げるなよ?」
薄い唇で、艶っぽく笑みを描きながら。
台所に立って味見をする姿はさながら母のようだったし、調味料や器具の場所も熟知しているように見えたからだ。まるで、今まで一緒に共生してきたかのようだった。それに、全く違和感を覚えさせない呼名。
「岬。これをテーブルに」
「あ……うん」
どうして私の名前を知っているのだろう……。
岬は差し出されたお椀を食卓に並べながら、首を捻る。本当に怪しい人だったら危ないのでは、と過るものの、追い出すことはできないでいる。リリィだと名乗られているからか、もしくは心の内で後ろ髪を引く何かがあるのか。根拠は分からなかった。
「よし。食べるか」
袴のように裾広がりのはき物。良い仕立ての藍色の羽織。嫌味なく着こなした背丈が、同じ目線まで下りてくる。岬は喉を鳴らしながら、事もなげに正面に座る(自称)リリィと、目の前に広がる豪華な食事に手を合わせた。
「い……いただきます」
「召し上がれ」
一汁三菜がそろっている食卓はいつぶりだろう。疑い深く男を見つめながら、感心していた。
匂いからも伝うコクの深さ。鼻腔を香りが独占すると、理性が薄まる。早々に箸へと手が伸びる。外見、年齢はそこまで変わらなさそうなのに、良妻賢母と称えたいくらいの出来栄えだった。
こんなの、絶対美味しいに決まっている。
「……っ、おいしい……!」
「当たり前だ」
一番に含んだのは豚汁。味噌のコクも、干からびた喉を溶かすような温かさも、あまりに久しい。それに、母の豚汁とよく似ていて、不覚にも視界を滲ませる。キャベツとネギをふんだんに使った母の豚汁、そのものだった。
「あの……食材ってどこから……」
潤った喉から、控えめに声を通す。
「買ってきた。買い物くらいできるぞ俺は」
「その格好で……?」
「……何か不満があるのか」
未だ箸を持たず腕を組んだままの男は、ギロリと岬を睨んだ。鋭利な矢を彷彿とさせるほどの、眼力だった。しかし、人と長く目を合わせるのが久しぶりで、岬の心は弾んだ。無意識に、顔を綻ばせるほどに。
「何がおかしい」
「え?」
「にやけているだろう。俺の見てくれに、おかしなところでもあるのか」
寄せられた男の眉間には、皺が縦に刻まれていた。その下で、白く長いまつ毛が、これまた鋭利に尖っているのが分かる。
あれほど沈んでいたのに、乾ききっていたのに。口角って、鈍らないのかな……。
岬は頬を押さえながら視線を落とす。最後に笑った記憶があるのは、母親が倒れるよりも前の事だった。
「おかしくなんて……むしろ綺麗です、とても」
「そうか。ならいい」
鋭いところは数多、それでも隙間と味には優しさが垣間見える。不思議、と内側でつぶやきながら、和え物を頬張った。
「あの……」
切り出すと、男は呆れた様子で視線を配る。怖くはない。
「今度はなんだ?」
「あなたは、本当にリリィなの?」
単刀直入に唇を割った。見ず知らずの(とても怪しい)男が作った料理を食し、追い出しもせず留めている状況からして常軌を逸していたが、それを重ね塗るように岬は逸した。
人間でない物が、人間に化けている———事実であれば、信じられるのは自分だけではないのだろうか。岬は喉を上下に揺らす。
「そう言っているだろう」
吐息とともに零しながら、彼はようやく食材を含む。豚汁以外、料理ではなく丸々食材の姿だった。こちらにはゴマと和えられているホウレンソウが、スッピンで彼の口内を潜っていく。生で噛みしめられる音は、とても穏やかだった。
「生野菜って、苦くない……?」
「ああ。生身の人間と違って花には水分が必至だからな。炒めると飛ぶだろう。それに、生の方が美味い」
いまの姿はまったく、お花のようには見えないけれど。
「えっと……つまり、人間の姿に化けている、ってこと?」
核心をついた。
「分かりやすく言えばそうだな。もともと、俺はただの花ではないが」
ゴク、ゴク、ゴク。コップを片手に「ぬるいな」と顔をしかめたあとで、男は言った。
「岬。お前と、お前の母親が生けていた花は “妖花”。普通の花と違う点があるとすれば、一年中開花させること、人の姿に化けられること……あとは精気の量だ」
「妖花……精気……」
平らげた料理に両手を合わせ、岬はオウムを返した。
記憶は古くとも、母が読み聞かせてくれたおとぎ話、昔話の類には『人に化ける妖怪』や『動物』が登場したことは覚えている。けれど、まさか、花が化けるなんて。
思い伏せながらも、岬自身の脳裏に疑うという分岐は疾うになかった。自分自身も“ただの人間”とは言い難い存在であると、幼心に昔から悟っていたからだ。
「精気の件に関しては、お前にも思い当たる節があるだろう」
「え……それは、どうして?」
「母親から告げられていなかったか?『俺を摂りこめ』と」
彼の言葉に異論はない。言う通りだった。
母との約束、そして日課。身体の不調を訴えると、母は決まって言っていた。現に守らなかった影響で今日日調子が悪く、極楽浄土までもを目前にした。
「『リリィは私を守る、大切な薬』って言ってた……でも、それが精気と関係あるの?」
「大ありだ」
リリィは白髪を扇のように靡かせたあと、無音で腰を持ち上げる。一連のその動きは驚くほど滑らかで、岬は直前まで気配に気づくことができなかった。至近距離で顎を持ち上げられる、そのときまで。
「ぅ、あ……」
情けない声が漏れる。友人は愚か、異性(花に性別があるのかは不明だが、姿見は紛うことなく異性)の身体とこれほど接近する状況は、岬にとっては初めてで。顎をなぞるように触れられる経験など、無論ないに決まっている。
強引に持ち上げられた視線は、鈍色に光る瞳に捉えられた。
「分かるか、岬」
「わ……かりません……?」
容赦なく、さらに近づく端麗なご尊顔。男の表情筋は動かない。しかしそれは真顔というより、若干怒りを含んでいるように見えた。
「お前が俺……鈴蘭を“香り”で摂りこんでいたのが精気。母親が云う薬に、近いと言えば近い」
香り。言われて思い浮かぶのは、少なくとも月に一度摂りこんでいた鈴蘭の香り。どんな処方箋よりも、岬の身体には効果があった。
これまでも不思議に思ったことはあるけれど、まさか、人に化けられる花だとは……。もしかして母はリリィが特別な花———妖花であることを知っていたのだろうか。ずっと前から、最初から。
「つまりな。摂り込むのを一定期間止めた場合———お前は死に至る」
鋭い双眸とは裏腹、白髪から香るそれは確かにリリィの香り。……ああ、だから私は、得体の知れない安心感を彼に感じていたんだ、と今更糸が解けた。
「そっか……ずっと本当に、守っていてくれたんだね」
柔和に目を細める。リリィはその表情を見るなりさらに眉を寄せた。
「分かっているのか。此度それで死にかけたこと。俺を、摂り込まなかったばっかりに」
怒っている。
「あ……え、と……確かに眩暈はいつも以上に酷くて。でも、倒れたときはもう……助からなくてもいいかなって、思ったの」
「それは、母親と同じ場所へ逝きたいと思ったからか」
「……うん」
直後、掴まれていた顎から低い体温が剥がれる。リリィはその手を額に当て、大きく息をついた。
「言っておくが、宇美はそんなこと望んじゃいないぞ。全くな」
宇美。母の名前だった。それに「望んでいない」と刻む口調は明らかに核心を持っている。岬は首を捻った。
「リリィは、お母さんから何か聞いていたの?」
「聞いていたに決まっている。……いや、聞かされていた、と言う方が正しいかもな」
「……?」
「飽きるくらいに聞かされていた。『自分が居なくなった後も、必ず岬を護ってくれ』と」
今まで頭の片隅に眠っていた記憶。それでも余程印象に残っていたのか、手繰り寄せるまでに時間はかからなかった。花開く鈴蘭に向け、こっそり呟いている華奢な背中が、記憶に点った。
お母さん、もしかして———自分の前途がそう長くないことを、ずっと昔から知っていたの? そう遠くない未来で、私の傍に居られなくなってしまうことも。
「だから俺は化身として現れたんだよ。岬の前に」
「お母さんとの約束を、守るために……?」
「あぁ。それが俺の使命だからだ」
少し歪んだ視界の中で、頬を緩めるリリィ。棘のないその笑みは、鈴蘭の毒気を抜いたように朗らかで、不覚にも生暖かい涙が溢れた。
「じゃあ……倒れた私を引き戻してくれたのは、リリィなんだね」
彼の世へ差し伸べた私の手をとって、引いてくれたのは———。
心の内で続けると、湿った瞳に羽織りの袖を押し当てられる。かと思えば、ぶっきら棒に「ああ」とそっぽを向くリリィに、思わず笑みが零れた。
母を亡くしてしばらく、無色空白だった日々。自分の体温さえ見失っていた数十日。失くしたはずだった居場所を、彼が優しく注いでくれたような気がした。
「そうだ……リリィはどうやって、倒れた私に精気を? 香りを摂り込むのってかなり体力がいったはずだし、」
何を笑っているんだ、と再び咎められた後、岬は尋ねる。
無意識にできるとは到底思えない。思い切り吸い込んで喉へと流し込むイメージが、脳裏に浮かぶ。鈴蘭の花弁を傍に全身へ巡らせるためには、それなりに体力が必要だった。
「必要な量も量だ。嗅ぎ入れる、なんて無理に決まっているだろう」
「え、っと……じゃあ、どうやって?」
答えを急かすと、リリィは時間を遡るように顎の先を持ち上げる。強引に交わる視線に、心臓が強く締め付けられた。
「接吻をした。つまり、俺の精気を直接注ぎ込んだ」
ここからな———続けながら、尖った爪が妖艶に唇をなぞる。鋭い瞳に縛られる。
固まったまま、岬は納得した。だから、何度も顔を近づけて示したのだ、と今さら言動を紐付けた。直後、赤面するとともに呆然とした。
華が似合う年頃、十七歳。とはいえ、経験も兆しもこれまで一度もなかったのだから。
「あとな。不便なことに、元の姿には戻れないらしい。だから今後は、その方法でお前を生かすしかなくなる」
「うん……え?」
岬はたじろぐことも許されないまま、唇を噛み締める。ファーストキスの相手は、脅すように瞳を細めた。
「逃げるなよ?」
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