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第三部 ~ボヘミティリア王国侵攻編~

王と王妃は未来を誓う

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 2月8日の夜10時となり、ユーグリッドは王妃のキョウナンの部屋まで訪れていた。扉の前に立つと、中からは流麗なことの演奏が淑やかに聞こえてくる。

 コン、コン。ユーグリッドはその音色の調和を乱さぬようにと控えめに扉をたたいた。

「はい、どなた様でございましょう?」

 演奏が小波が引いたかのように止まり、キョウナンは扉に向かって尋ねてくる。

「俺だ、ユーグリッドだ。おキョウ、中に入れてくれないか?」

「はい、ユーグリッド様。今扉を開けますので少しお待ちになってください」

 キョウナンは身重な身体を大事そうに立ち上がらせると、腹に手を添えたまま扉の錠を開いた。

 その扉の錠が開く音が聞こえると同時に、ユーグリッドは待ちきれず取手を回して手前に引く。中を覗くと、既に白い寝間着に着替え、艷やかな髪を解いたキョウナンが壁に手をかけて立っていた。

 じっと濡れそぼった美しい瞳で夫の顔を見遣っている。

 ユーグリッドはそのまま王妃の部屋に入ると、扉も閉めずそっと妻の肩を抱き寄せた。

「おキョウ、少しお前と話をしたい。俺は少し、お前に甘えたい気分なんだ」

 子犬のような無垢な目でユーグリッドは妻を見る。

「はい、わかりました。ユーグリッド様。ですが、扉はお閉じにならなくてはなりません。誰か様におキョウたちのことを見られるのは恥ずかしゅうございます」

 ユーグリッドはキョウナンの指摘に気づき、そっと大きく開いたままの扉を閉める。

 やがて二人は箏が置かれている錦の敷物の上に座り、そのままユーグリッドはキョウナンの上品に揃えられた太ももに頭を横たえる。膨らんだ腹に顔を埋め、温かくて心地の良い安らかな感触に包み込まれる。

 まるで自分がキョウナンの胎児となって、胎盤の羊水の中に浸かっているような気分だ。己の全てが今キョウナンに守られている。そんな童心すら覚えてしまうほどユーグリッドは安寧に包まれていた。

「何か、弾いてくれないか? おキョウ。できれば心が落ち着く曲がいい」

「はい、わかりました。ユーグリッド様」

 キョウナンは夫の頭の上から腕を伸ばし、箏の弦をたおやかに弾く。素早く13本の張り詰めた糸を琴爪で鳴らし、ひとつの調和された懐かしい童謡が流れ出す。それはひたすら一定のゆっくりとした音調を保ち、川のせせらぎを思い起こさせるかのような穏やかな調しらべだった。

 このままこの子守唄のような演奏を聞いていると、深い眠りに沈んでしまいそうだ。

 だがユーグリッドは暗い表情をしてキョウナンを見上げた。

「おキョウ、演奏したままでいいから聞いてくれ。俺がボヘミティリア王国でやったことについてどう思っている?」

 ユーグリッドの唐突な質問に、キョウナンははたと演奏を止めてしまった。

 その急変した妻の態度を見れば、明らかにボヘミティリア王国との戦争で起こったことについて既に知っていることがうかがえた。

「おキョウ、俺は戦争で大勢の人間を殺した。兵士だけでなく、何の力も罪もない領民もだ。俺は都に火を放ち、一人残らず皆殺しにしてしまったのだ」

 ユーグリッドはまた顔を太ももに埋め、片耳をキョウナンの腹に当てながら告白する。耳からはキョウナンの体内音が律動して響き、そこに小さな命が確かに生きているということが窺い知れた。

「......ええ、存じ上げております。おキョウもお父様からお聞きしました。それは激しい戦争だったと伝えられております。ボヘミティリア王国は二度と人が住むことができない地になったとも」

 箏の弦に腕を構えたままキョウナンは答える。白い裾がユーグリッドの頬に垂れてゆらゆらと揺れて、慰めるようにしてその弾力のある若い男の肌をくすぐる。

「ああ、そうだ。俺は惨たらしい方法でボヘミティリアの者たちを殺した。アーシュマハ大陸の歴史でも、前代未聞の大虐殺だろう。おキョウ、こんな冷酷で非道な俺を、許してくれるか?」

 ユーグリッドは体を捻り、キョウナンの腰に両腕を回してきつく抱きしめる。体を震わせており、妻の心が離れてしまうことを恐れていた。

 だがキョウナンは箏の弦から指を離し、そっと夫の横顔を見下ろす。そして夫の髪に細い指先を這わせ、赤子の頃から変わらないその重みのある頭を優しく撫でたのだった。

「戦とは天災のようなものです。例えその国の王が戦争を決定したとしても、周りの国や人々との関係のためにそうせざるを得なかったものなのです。そしてその周りの人々も何か人間には抗うことができない因果によって操られてしまっているのです。

 そうした人の森羅万象に突き動かされてしまう性質や業が、やがて誰も止めることができない大波となり、全ての人々をまた運命という名の嵐の中に飲み込んでしまうのです。

 人とは自分が思っているほど自分の運命を選ぶことができません。その己が選択したのだと思った道さえも、どこかの大きな波に引き寄せられて作り出された、大自然の影響の産物なのでございます」

 キョウナンはユーグリッドの頭を撫でながら、あやすように語り続ける。

「人の意志とは全て儚いもの。だからこそその人の姿は美しく見え、皆が惹かれてしまうものなのです。そして運命の波に攫われたはずの人がまた、新たな運命の波を引き起こす。人の世とは全て互いの波の打ち付け合いによって成り立つ因果応報の世界。

 ユーグリッド様のアルポート王国を守りたいという希望も、覇王の天下統一を成したいという野望も根源的には同じもの。万人の人々が流される波に攫われた果ての、流れ島のように浮き出た願いなのです」

 キョウナンは人間の運命について独自の虚無的な解釈を述べる。

 だが、その妻の流麗な言葉遣いの語り口を聞き終えると、ユーグリッドはますます落ち込んでしまった。

「......そうか、俺も覇王と一緒なのか。そんなことを誰かから言われたのは初めてだ。俺の海城王の遺志を継ぐという意志も、結局誰かに操られただけの借り物の決意なのか?」

 珍しくキョウナンの言葉に傷ついてしまったユーグリッドは、それでもキョウナンの太ももに顔を埋めて甘える。まさに今波に攫われようとする子供が、必死に母に縋りついているかのような有様だった。

「ええ、そうです。ユーグリッド様。あなた様の救国のご意思も自然の因果の果てに成り立ったものでございます。

 ですがおキョウは元来人とは全て同じものだと思っております。人は皆生まれた時から、いいえ、母親のお腹の中にいる時から、大海原のどこかに放り出されてしまっているものなのです。

 その波が穏やかな時もあれば、大荒れになってどこか別の場所に流されてしまうこともある。その波の気まぐれな動きを予測して、自由に海を泳ぎ切ることができる人は、この広い世の中で誰もおりません。

 波に流され辿り着いた果てに、しがみつかねばならぬものは皆人によって変わるものです。

 それが明日の食料の確保すら難しい貧しい農民であったり、
常に戦に駆り出され、永遠に命を賭けねばならぬ武人であったり、
そして国の者の全ての命を背負い、皆の信頼を得ねば命を狙われる王であったりするのでございます。

 人は姿や身分や居場所が変われど、いずれも皆何かに必死にしがみついて生きることしかできぬもの。人とは運命の波に力なく抗うたった一人しかいない船乗りなのです。己たちが生き残るために無尽蔵に湧き上がる大波や小波に逆らって、舟から落ちまいと一所懸命にかいを漕がねばならぬ儚い生き物でございます。

 そしてその櫂が作り出す波もまた人の運命を操る波となってしまう。人とは誰しも万物の波によって作り出された、先の見えぬ広い大海原を彷徨う遭難者なのです。人が生かされることも、人が殺められることも、全ては大勢の人々が作り出した津波の果ての因果なのです。

 ですからおキョウは、例えユーグリッド様が大勢の人々を殺めたとしても、それが因果の成れの果てに起こった自然の業なのだと理解します。あなた様は永遠に責め苛まれなければならない咎人とがびとではなく、今を必死に生きようとした一人の心細い海の迷人まよいびと

 おキョウは妻として、あなた様が抱えきれぬ櫂の重みを共に支えとうございます」

 キョウナンは抗いがたい運命の果てに犯してしまった夫の罪を、全て共に背負う意志を示す。それはこの世の儚い運命の正体を知り、それでもなお夫を支えようとする女の許容と包容を併せ持った心の強さだった。

 ユーグリッドは頭をガバリと妻の太ももから起こし、その決意を露わにした凛とした顔立ちをじっと見据える。

「......おキョウ、お前はやはりどんな時でも俺を受け入れてくれるのだな。俺はお前の海のように広い心にずっと救われてばかりいる。そして俺はもっと、結局その救いをまた求めてしまうのだ」

 ユーグリッドは両膝をキョウナンに寄せ、妻の細く痩せた、けれど確かに頼もしい両肩を引き寄せて強く抱きしめる。華奢な肩にまた顔を埋め、その横顔にかかる艷やかな髪の柔らかさを感じ取る。

「なあ、俺はもっとお前に弱さを見せてもいいか? 実を言うと、俺は今覇王と戦うことが怖いのだ」

 ユーグリッドは震え、冬の寒さが身に沁みたかのように頼りない心を曝け出す。

 キョウナンはそんなユーグリッドの髪をまた何度もさすり、その強張った体の凍てつきを溶かすように、温かく、柔らかく、安らぐようにく。その心の拠り所となる夫の居場所が確かに今ここにあるのだと伝える。

 やがてキョウナン自身も震えたまま、夫に共感の言葉を送った。

「ええ、ユーグリッド様。おキョウも覇王が怖うございます。おキョウの故郷がこれほど大きな軍隊と戦火を交えるのは初めてでございます。おキョウも戦争という大きな波に攫われ、いずれ死を迎えてしまうかもしれません」

 キョウナンもユーグリッドの小さな体に両腕を回し、強く抱きしめる。夫の肩に顔を埋め、艷やかな目をじっと瞑る。

 二人は互いに固い肩の温度を感じながら、確かに二人がそこにあるという実感を確かめ合う。

 キョウナンはまたユーグリッドの背中をあやすようにさすり、勇気を出して言葉を紡ぐ。

「ですが、ユーグリッド様。おキョウはそれ以上に信じております。あなた様がこの戦争に勝ち、このアルポート王国に平和をもたらしてくださるのだということを。そしてこの腹の中の、私たち夫婦が授かる初めての子と、私たち家族が揃って未来へと歩んで行けるのだということを。おキョウはあなた様の全てを信じております。

 例えこの世の大波が人が決して抗えぬ残酷なものだとしても、例えこの戦争の津波が多くの人の命を波に攫ってしまうのだとしても、それでもおキョウは、ユーグリッド様と、この子と、共に3人で、この先の見えぬ大海原へと舟を漕ぎ出して行けるのだと信じております。

 私たち家族は人の業を背負ったこの万物の流転に負けず、永遠に離れることのない家族のままであり続けたいと願っております。例えある日荒波に飲まれ繋がれた手が解かれることになろうとも、例え暗闇に溺れ家族の姿が見えなくなろうとも、必ずおキョウはユーグリッド様と、この子の手を見つけてまた強く結び直します。

 おキョウはレグラス家の女として永遠に、皆が安心して帰ってこられる居場所を作り、どんな時も家族が揃って笑い合える家を守り抜くことを誓います。

 それがユーグリッド様のための、未来のこの子のための、そして私自身の幸せのための、おキョウが果たすべき妻と母としての役目なのです。おキョウはずっと、あなた様が戦場から帰ってくることを信じて待ち続けます」

 キョウナンは強く家族への信念と信頼を夫であるユーグリッドに打ち明かす。

 ユーグリッドとキョウナンの体の震えはやがて止まり、確かに途切れることのない夫婦の愛がここにあることを分かち合う。ユーグリッドとキョウナンは戦争の先の未来へと進む覚悟が既にもう決まっている。そして二人がまた同じ道を歩んで行けるのだと信じ合っていたのだ。

 ユーグリッドはキョウナンの肩から顔を外し、その妻の丸く膨らんだ腹をさする。

 キョウナンも夫のその優しい手に己の手を重ね、愛撫するようにその腹の奥にいる我が子の存在を慈しむ。

「ありがとう、おキョウ。俺はもう迷わない。覇王と戦い、そしてお前と俺達の子供のために未来を作る。俺はアルポート王国の国王として、海城王の息子として、何よりもお前たち家族を守る男として、俺は戦場で生き抜くことを誓う。

 だからお前はここで信じて待ち続けてくれ。この国の未来を、俺たち家族の幸せを」

 ユーグリッドはキョウナンの肩を力強く両手で握り、情熱的な視線でじっと妻を見据える。

「ええ、ユーグリッド様。おキョウはあなた様を信じてずっと待ち続けます。この戦争が終わり、家族が共に笑い合える瞬間を。

――だから、今日は少しだけ、おキョウの我儘に付き合って欲しゅうございます」

 キョウナンはそう告げると、そっとユーグリッドの両頬に手を添える。そのまま蕾のような赤い唇を寄せ、ユーグリッドの唇に重ねる。互いの小さな口の中で、何度も熱くなった舌を交差させる。キョウナンはお淑やかな気品ある王妃の姿を捨て、ただ甘えん坊な肉食の子猫のように夫の愛の証を貪ろうとする。

 ユーグリッドもそれに応え、何度も互いの唇を食むことを繰り返す。蜜を舐め合うような感覚に蕩け、二人は互いの服の中に手を入れ合う。しっとりとした汗の感覚が生肌の上に流れており、それが互いの興奮を証明しているだと理解した。

 ねやを共にすることはまだできない。だが、可能な限り男と女の肌の欲望を満たし合い、この最後の戦いを忘れてしまうほどに二人は情欲の海に溺れていった。

 そしてそのまま朝を迎えた。

 2月9日朝4時、覇王10万の軍がアルポート王国に襲来するまで後3日となった。
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