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閑話:セバスチャンの半生

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 お嬢と出会ったのは、酷く寒い日だった。
 その頃の俺はただの一匹の獣で、知能も低かった。だから、ぼんやりとした記憶しか残っていない。
 だが、ロクでもない生活をしていたのは間違いない。

 その日食うのに必死で、まともな奴なら床下の鼠を捕まえたり、ゴミ箱から食べ物を漁ったりしているところを、俺は平然と人間の家に盗みに入り、夕飯の準備中の肉片をくすね、市場の軒先に並ぶ干物に手を伸ばし、ロクでもない野良だといつも追い回されていた。
 誰かとツルむということもなく、顔を見たら縄張り争いをしていた。同族連中の中でも、俺は鼻つまみ者だった。

 運悪く、その日盗みに入った家の主はタチの悪い男だった。浴びるように酒を飲んでは周囲に当たり散らす男だった。そんな男だから、もしかすると蓄えもなく、その日暮らしだったのかもしれない。
 俺は奴が酔ってテーブルに突っ伏したままいびきをかいているところに侵入し、卓上に飛び乗って干し肉を咥えた。
 逃げようとした矢先に飛び起きた男に尻尾を捕まれ投げ飛ばされた。

 それからどんな目にあったのかは覚えていないが、気がつくと積もり始めた雪の上に倒れていた。

 体を動かす力もなく、ただ、少しずつ俺の体を覆い隠していく雪を眺めていた。きっと、そのまま何時間も。

 次に目を覚ましたときには、俺は公爵邸にいた。
 暖かい毛布にくるまれて快適だったが、俺には差し出された食べ物に手を付ける力も残っていなかった。

 人間の子供が俺の前に来て、泣きながら俺に向かって話しかけていた。
 それが俺の、獣としての最後の記憶だ。

 その次に起きたとき、俺はもう、お嬢の使い魔だった。
 人に近い知性が与えられ、内面に劇的な変化が起こったあとの俺は、もう獣の俺としての自我とは別物だった。生まれ変わったと言ってもいいくらいだ。
 公爵家の連中は、俺を赤子か何かと勘違いしているのか、何くれとなく世話を焼いてきた。
 何をしても可愛らしいと褒められ、旨い飯をたらふく与えられた。
 俺は、ものすごく特別な何かに生まれ変わったのかもしれないと思った。
 誰からも愛され称賛されるような何かに。
 
 それが俺の勘違いだったと気づいたのは、人間の使う鏡で自分の姿を確認した時だった。
 俺はただの獣だった。
 どうして、人間の子供にでも生まれ変わったような気がしていたんだろうか。
 毛並こそゴロツキ時代とは比べ物にならないほどツヤツヤしているが、どこからどう見ても、あのろくでなしの獣に違いなかった。
 それどころか、俺は同族のなかでも随分と醜いように思われた。
 顔に広がる黒い斑模様は非対称で不格好極まりなく、目つきも悪かった。
 おまけにあの雪の日に付けられたのか、額の上に大きな傷すらあった。

 俺の主人であるお嬢は、人間でない俺から見ても上等に見えた。
 それもそもはず、公爵家というのは、人間たちの中でも随分上等な血族の集まりらしい。
 立派な家から産まれた立派なお嬢は、なぜだか下等な俺を一番目の使い魔に選んでしまった。
 いや、理由はわかっている。俺に同情したからだ。

 だが、上等のお嬢が俺みたいな下等を引き連れているのを見られるのはいやだった。
 俺を自分たちの子供のように勘違いしている公爵家の連中とは違い、外の人間は持っているものが上等かどうかでそいつのことを判断する。俺たち獣が、見た目で喧嘩が強そうか判断するようなものだろう。つまり、俺といるとお嬢がナメられる。

 俺の心配をよそに、お嬢は俺を連れ歩くと宣言し、俺はうまく丸め込まれた。
 心配していたほどお嬢がナメられなかったのは、持っているものなんか関係ないくらいお嬢が上等だからだろう。

 だが、おかしな絡み方をしてくる連中はどこにでもいるものだ。

 お嬢とあの坊ちゃんを番としては認めないと騒ぐ連中がいるらしい。
 あの坊ちゃんは、人間のボスにあたる王の息子なので、上等だと思われていた。
 俺に言わせれば、頼りない男でお嬢にふさわしいかは怪しいと思っていたが、お嬢はアレが良いというのでしかたがない。

 その後、やたらと煩いハムスター女や、その主であり、身の毛もよだつ異様な魔力を放っている化け物などが絡んできたが、お嬢はうまくいなした。お嬢の強さに恐れをなしたのか、坊ちゃんは以前よりお嬢に従順にになった。
 さすがお嬢としか言いようがない。俺を連れてようと連れてまいと、お嬢はとびきり上等な人間だった。俺はお嬢の使い魔であることを誇りに思った。

 だが、お嬢があのハムスター女が着ていた、やたらヒラヒラした布を俺にも着せたがっていたことだけは、忘れない。
 「ダサい」とはっきり伝えたが、今後も警戒するに越したことはない。

「せばすちゃ、ねちゃってるー」
 がっかりした様子で覗き込むお嬢の赤子に、俺は寝たふりを決め込んだ。
 俺のガキの頃もたいがいだったが、人間の赤子というのはマジで何をするかわからない。力の強弱の問題ではない。奴ら手加減はおろか善悪の区別もわからないからな。近くにいるだけで命の危機を感じる。
「寝かせておいてあげよう。リック、今日は父様と遊ぶぞ」
「あそぶー!」
 赤子のはしゃいだ声が遠ざかっていくのを確認して、俺は薄目を開けた。
「セバスチャン、寝たふりが上手になったわね」
 お嬢が面白そうに話しかけてくる。勘弁してくれ。
「あともう少しの辛抱よ。リックも少しずつ大人になってきているから」
 あいつが大人になるまで、何年かかると思っているんだ。無意識に耳と髭が垂れ下がるのを感じた。

 まあいいさ、お嬢に貰った命だ。
 あの雪の日に死ぬはずだった命なのに、同族よりずいぶん長生きできることになった。
 あのチビがでかくなるまでくらいは、なんとか逃げ切ってやるさ。

 その時が来たらさ、もう少し俺に構ってくれてもいいんだぞ、お嬢。
 くそ、俺もヤキが回ったもんだ。こんなことを考える日が来るなんて!

 そこへ、マーシャが手のひらに何かを乗せて俺を探しにやってきた。
 あの匂いは、茹でたササミだ。違いない。
「セバスチャン、おやつよー」

 ナオーン。俺は思いっきり甘えた声をあげて返事をしてしまった。
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