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32話 姉弟
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彼が街の片隅で物乞いをしているのを見たのだと、ナツは姉から聞いた。
「唄を、うたっていたみたい……」
困惑した表情で彼女は言った。喋れない彼がまともに唄えるようには思えない。事実、それはお世辞にも唄だと捉えられるようなものではなかった。彼の喉は、言葉ではなくただの掠れた音をかろうじて零すだけで、途切れ途切れのそれは、人々を引き止めるにはあまりに不器用だった。
彼の唄に対してではなく、彼の哀れな姿に、人々はコインを投げた。話せない彼は自分の境遇を語ることなど出来ず、人々は、彼が嘗ては唄うたいとして拍手喝采を浴びていたなどとは知る由もなく。無芸な少年が必死で何かを成そうとしている姿に同情した。中には汚らしいその姿を嫌悪し、街の景観を損ねると石を投げる者もいた。そうすれば、弱いシノは追い立てられるままに、その場を去るしかないのだった。
ナツのいないシノは自分の想いを伝える手段を持たないまま、海を渡った自分たちが生活の糧としていた自分の歌声を、何とか再び響かせようとしていた。金を得る手段を、幼い彼はそれしかとることが出来なかったのだ。話すことの出来ない、ひとりぼっちの子どもを雇う人間など、この街にはいなかった。
ナツは、濡らしたタオルでシノの汚れた顔と手足を拭いてやった。彼には自分の食事を分けると言い、寝床も共にすると告げた。決してこれ以上の迷惑はかけないと、ナツは母たちに訴え、ひと月前に一緒に潜り込んだ布団でシノを抱きしめた。
「シノ、鞄は、どうしたんだ」
二度と離れまいと抱きつくシノの温もりを感じながら、ナツは優しく問いかける。
「毛布だってあっただろ」
シノが首を横に振るのに、それだけでナツは理解した。シノはそれら全てを売ってしまった。少々の金が残っていたはずの小袋には、もうパン切れ一枚買えない程度の数枚の硬貨しか残っていない。彼がサーカスで稼ぎ、施された全てを薬につぎ込んだことは明白だった。幾度も千切れては拾い上げた、嘗てのスカーフを手首に巻き付け、彼はかき集めた小銭を薬屋に持って行った。そして遠い昔に習った文字を書き付け、訝しむ店の人間を懸命に説得し、ようやく薬を得ていた。
その全てを、ナツはシノの表情や身振り、手振りで察した。細い指が自分の腕に物語るのに聞き入り、彼が抱いていた心細さや孤独や絶望がひしひしと染み込んでくる毎に、再び胸が潰れてしまいそうになるのを何とか堪えた。
「あたし、あんたに二回も命を助けて貰ったんだな」
少し伸びたシノの前髪をかきあげてやり、ナツは笑いかける。
「初めて声聞いたのも、あの時だったな。あたしさ、すごく驚いたんだぜ。あたしに死んで欲しくないって言う奴なんてさ、そうして、本当に手を伸ばす誰かなんて、もうこの世のどこにもいないはずだったからさ。……あたしは、そこまであんたに優しくしなかっただろ。姉弟だなんて言うのも、ほんの思いつきだったよ」
深夜の浴場で思いついたのは、何故だったのか。ナツにはもう思い出せない程、些細なことだった。シノの姿が余りにも心細かったからか、それともあの子への罪悪感がそう言わせたのか。それすらも分からないし、最早知る手だてもない。
「あれからも、あたしはあんたに、大したことなんかしてやれなかった。偉そうなこと言ったけどさ、あたしはいつも、見てるだけだったろ。あんたが傷つけられて、苦しんで、あの小屋で死んじまいそうになっても、あたしは何も出来なかった。……あんたは、本当に優しいよ。あたしなんか、何一つ助けてやれなかったのに……」
それを聞くと、胸元を握り締めていたシノの小さな手が、ナツの細い肩をぎゅっと握りしめた。そのことにナツが言葉を切ると、泣くのを堪えているような、揺れる瞳に彼女を映し、シノはぐっと身体を寄せた。
柔らかで少し熱い感触は、ナツにとって、ひどく懐かしいものだった。
泣きそうな顔をしたシノが、自分の唇をナツの唇に押し付けていた時間はほんの僅かで、彼は顔を離すと、訴えるようにナツを見つめる。そうして、シノは叫んでいる。ナツが与えてくれた優しさを、忘れていた誰かの体温を。生を望んでくれる誰かがいるという、この上ない幸福と、それを離したくないと思う愛おしさと、自分を削ってしまっても、必ず助けたいと願う存在を。
傷つけられ、動けなくなり、死を待つばかりのシノに口移しで食べ物を与えた、そんな短い時間のことをナツは思い出す。あの時抱いていた感情は確かに、シノを助けたいという一途な愛情だった。自分が売られたときから失ってしまっていたはずの、誰かを想うという、人として抱ける最高の幸福だった。
声を出せず息を呑み、ナツはシノを強く抱きしめた。堪えきれずに嗚咽が漏れる。そうして震える肩を、シノの温もりがそっと包み込む。
シノは、覚えていた。知っていた。ナツが心の奥に捨てきれないまま抱えていた想いを、一番近くにいた彼は、誰よりも強く胸に刻んでいたのだ。
「ありがとう……。シノ、本当に、ありがとう……」
ナツの声は震える。言いたいことがたくさんある、伝えたい気持ちが、抑えきれないほど溢れてくる。
そうして、気がつく。ナツは、シノの言いたいことを、空気を震わせずとも聞くことが出来る。それはシノも同じなのだ。ナツの想いを、シノは心で聞くことが出来る。言葉にすれば稚拙に直るような台詞を紡がずとも、こうするだけで、自分たちは互いの心を理解し合えるのだ。
「シノに会えてよかった。姉弟になれて、本当によかった……。ありがとう、一緒にいてくれて」
涙を流すナツの頬を、そっとシノが拭う。そして、ぼろぼろと溢れるそれを受け止めながら、彼は優しく笑った。幼い光を含んでいる、深く澄んだ彼の瞳を見ると、ナツの頬は緩んでいく。同じようにシノの頬を両手で包み返し、幸せそうに笑う彼に、ナツは笑いかけた。
ずっと、一緒にいよう。
幼い約束を、強くほどけない約束を、言葉を使わず、二人は心で結び合った。大好きで堪らない、かけがえのない存在を抱きしめた。
「唄を、うたっていたみたい……」
困惑した表情で彼女は言った。喋れない彼がまともに唄えるようには思えない。事実、それはお世辞にも唄だと捉えられるようなものではなかった。彼の喉は、言葉ではなくただの掠れた音をかろうじて零すだけで、途切れ途切れのそれは、人々を引き止めるにはあまりに不器用だった。
彼の唄に対してではなく、彼の哀れな姿に、人々はコインを投げた。話せない彼は自分の境遇を語ることなど出来ず、人々は、彼が嘗ては唄うたいとして拍手喝采を浴びていたなどとは知る由もなく。無芸な少年が必死で何かを成そうとしている姿に同情した。中には汚らしいその姿を嫌悪し、街の景観を損ねると石を投げる者もいた。そうすれば、弱いシノは追い立てられるままに、その場を去るしかないのだった。
ナツのいないシノは自分の想いを伝える手段を持たないまま、海を渡った自分たちが生活の糧としていた自分の歌声を、何とか再び響かせようとしていた。金を得る手段を、幼い彼はそれしかとることが出来なかったのだ。話すことの出来ない、ひとりぼっちの子どもを雇う人間など、この街にはいなかった。
ナツは、濡らしたタオルでシノの汚れた顔と手足を拭いてやった。彼には自分の食事を分けると言い、寝床も共にすると告げた。決してこれ以上の迷惑はかけないと、ナツは母たちに訴え、ひと月前に一緒に潜り込んだ布団でシノを抱きしめた。
「シノ、鞄は、どうしたんだ」
二度と離れまいと抱きつくシノの温もりを感じながら、ナツは優しく問いかける。
「毛布だってあっただろ」
シノが首を横に振るのに、それだけでナツは理解した。シノはそれら全てを売ってしまった。少々の金が残っていたはずの小袋には、もうパン切れ一枚買えない程度の数枚の硬貨しか残っていない。彼がサーカスで稼ぎ、施された全てを薬につぎ込んだことは明白だった。幾度も千切れては拾い上げた、嘗てのスカーフを手首に巻き付け、彼はかき集めた小銭を薬屋に持って行った。そして遠い昔に習った文字を書き付け、訝しむ店の人間を懸命に説得し、ようやく薬を得ていた。
その全てを、ナツはシノの表情や身振り、手振りで察した。細い指が自分の腕に物語るのに聞き入り、彼が抱いていた心細さや孤独や絶望がひしひしと染み込んでくる毎に、再び胸が潰れてしまいそうになるのを何とか堪えた。
「あたし、あんたに二回も命を助けて貰ったんだな」
少し伸びたシノの前髪をかきあげてやり、ナツは笑いかける。
「初めて声聞いたのも、あの時だったな。あたしさ、すごく驚いたんだぜ。あたしに死んで欲しくないって言う奴なんてさ、そうして、本当に手を伸ばす誰かなんて、もうこの世のどこにもいないはずだったからさ。……あたしは、そこまであんたに優しくしなかっただろ。姉弟だなんて言うのも、ほんの思いつきだったよ」
深夜の浴場で思いついたのは、何故だったのか。ナツにはもう思い出せない程、些細なことだった。シノの姿が余りにも心細かったからか、それともあの子への罪悪感がそう言わせたのか。それすらも分からないし、最早知る手だてもない。
「あれからも、あたしはあんたに、大したことなんかしてやれなかった。偉そうなこと言ったけどさ、あたしはいつも、見てるだけだったろ。あんたが傷つけられて、苦しんで、あの小屋で死んじまいそうになっても、あたしは何も出来なかった。……あんたは、本当に優しいよ。あたしなんか、何一つ助けてやれなかったのに……」
それを聞くと、胸元を握り締めていたシノの小さな手が、ナツの細い肩をぎゅっと握りしめた。そのことにナツが言葉を切ると、泣くのを堪えているような、揺れる瞳に彼女を映し、シノはぐっと身体を寄せた。
柔らかで少し熱い感触は、ナツにとって、ひどく懐かしいものだった。
泣きそうな顔をしたシノが、自分の唇をナツの唇に押し付けていた時間はほんの僅かで、彼は顔を離すと、訴えるようにナツを見つめる。そうして、シノは叫んでいる。ナツが与えてくれた優しさを、忘れていた誰かの体温を。生を望んでくれる誰かがいるという、この上ない幸福と、それを離したくないと思う愛おしさと、自分を削ってしまっても、必ず助けたいと願う存在を。
傷つけられ、動けなくなり、死を待つばかりのシノに口移しで食べ物を与えた、そんな短い時間のことをナツは思い出す。あの時抱いていた感情は確かに、シノを助けたいという一途な愛情だった。自分が売られたときから失ってしまっていたはずの、誰かを想うという、人として抱ける最高の幸福だった。
声を出せず息を呑み、ナツはシノを強く抱きしめた。堪えきれずに嗚咽が漏れる。そうして震える肩を、シノの温もりがそっと包み込む。
シノは、覚えていた。知っていた。ナツが心の奥に捨てきれないまま抱えていた想いを、一番近くにいた彼は、誰よりも強く胸に刻んでいたのだ。
「ありがとう……。シノ、本当に、ありがとう……」
ナツの声は震える。言いたいことがたくさんある、伝えたい気持ちが、抑えきれないほど溢れてくる。
そうして、気がつく。ナツは、シノの言いたいことを、空気を震わせずとも聞くことが出来る。それはシノも同じなのだ。ナツの想いを、シノは心で聞くことが出来る。言葉にすれば稚拙に直るような台詞を紡がずとも、こうするだけで、自分たちは互いの心を理解し合えるのだ。
「シノに会えてよかった。姉弟になれて、本当によかった……。ありがとう、一緒にいてくれて」
涙を流すナツの頬を、そっとシノが拭う。そして、ぼろぼろと溢れるそれを受け止めながら、彼は優しく笑った。幼い光を含んでいる、深く澄んだ彼の瞳を見ると、ナツの頬は緩んでいく。同じようにシノの頬を両手で包み返し、幸せそうに笑う彼に、ナツは笑いかけた。
ずっと、一緒にいよう。
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