30 / 35
30話 涙
しおりを挟む
そうして薬を五度口にし、更に十日が経った時分には、ナツの体は以前と変わらない調子を取り戻していた。
一番に、シノに会いに行こう。
寝床ですっかり痣の引いた腕を眺めながら、ナツは思った。もう明日には、外に出ても体調は崩れないだろう。そうしたら、シノの元へ走っていこう。孤児院の門が開く時間は正確には知らないが、閉まっていれば、開くまで待っていよう。そして、名前を呼ぶのだ。きっとシノは驚く。もう二度と会えない、死んでしまったはずのナツがそこに居るのを目にして、彼は一体どうするだろうか。
さよならを言ったのが自分であることに、シノに喜んで欲しいと願う自分勝手さに、ナツの心は曇りを覚えてしまう。しかしそれでも、シノに会いたいと思う気持ちは少しも揺るがなかった。例え彼が顔を背けたとしても、捨てたのはナツだろうと拒絶を示したとしても、床に臥せっていた間、一日たりとも忘れることなどなかった彼の顔を、一目見たいとナツは願った。すぐにでも母や姉を手伝い、眠っていた間の恩を返したいとも思うが、それより先に目にしたいのが、シノの姿だった。
優しい笑顔と、涼やかな歌声と、小さな手のひらと、さらさらの髪と、穏やかなぬくもりと。記憶を辿らずとも、いつだってそれらは傍にある。そして、もうじき手で触れることができる。諦めていた愛おしい全てを待ち望みながら、ナツは久方ぶりに夜明けに胸を躍らせ、目を閉じた。
しんと静まり返った家の戸が、小さく叩かれる音がした。
とんとんと、薄い木の板が鳴る。既に日は暮れ、もうじき母や姉が帰ってくる時間だった。布団の中でナツが耳を澄ませていると、再び、遠慮がちな音がした。
訪ねてくる他人など、ナツには一人も思いつかない。居留守を使おうかとも思ったが、もしかしたら自分の知らない重要な人間かも知れない。そうであれば、帰ってくる母たちに迷惑がかかるだろう。ナツは少しの間思案していたが、心細い音が消えることなく玄関で響くのに、ようやく立ち上がった。しばらく横になっていたおかげでふらつく頭を振り、冷たい床を踏みしめ、簡素な鍵に手をかける。少しの緊張を覚えながら、ナツはゆっくりと扉を開けた。
部屋の薄明かりが家の外に立ち込める暗闇に線を引く。ぼんやりと照らされる闇の中に、想像したような誰かはいない。ナツは扉を大きく開け放ち、部屋の明かりで外を照らした。
いたずらかと一瞬考えたが、ほんの少し先の闇が、微かに動いたのが目に入った。よく見ると、地面には汚れた布切れが放られ、その傍に小さな紙袋が置かれている。それを訝しみよくよく目を凝らし、布切れが霞むような呼吸をしているのに、ナツは目を見開いた。おずおずと顔を上げた布の中の彼も、ナツの姿を目にすると、表情いっぱいに驚愕を浮かべた。
「シノ……」
地面に這いつくばり、両手をついて頭を下げているのは、間違いなくひと月前に別れたはずのシノだった。ぼろぼろの着物を体に巻きつけ、顔を土や垢で汚しているが、共に長い時間を旅してきたナツには、それが彼であることを直ぐ様確信した。
「どうして……。あんた、孤児院にいるんじゃ、なかったのか……」
驚きのあまり、声が掠れてしまう。それを振り絞りながら、ナツは一歩足を踏み出した。薄闇の中でシノもナツを見上げながら、よろよろと膝を立てた。
ナツ、と呼ぶのが聞こえる。声を出せない彼が、痩せっぽちの体から、懸命に、祈るように叫んでいる。
「逃げ出したのか……?」
ナツの言葉に、シノがこくりと頷いた。
「どうして、そんなこと」
台詞を言い切る前に、シノが飛びついた。枯れ枝のような腕を精一杯伸ばし、勢いよく駆けてきた彼を、ナツは抱きとめた。シノは、強く、強く腕に力を入れ、抱きついてくる。
懐かしい温もり。死を覚悟するとともに、諦めていた体温。傍にいるべきではないと、彼の幸福には決して繋がらないのだと、わざと突き放したはずの愛しい存在。それは今、ここにいる。
シノは、諦めたくなかった。諦めなかった。弱い彼は、幼い力を振り絞って、ぼろ布のように汚れてしまいながらも、こうして会いに来たのだ。
熱いものがこみ上げてくるのを何とか堪えながら、顔を上げたナツは、それに気がついた。地面に額を擦りつけていた彼の傍ら。置かれた小さな紙袋には、見覚えがある。
手繰り寄せた記憶の中身に気がつくと、ナツの声は震えてしまう。
「あんただったのか……」
看病をする母や姉が手にしていたのは、確かにそれだったのだ。
「薬をくれてたのは、シノだったのか……!」
熱が喉からこぼれ落ちた。彼らは、そこにあるのと同じ袋から薬を出して、自分に飲ませてくれた。だが、今それを手にして家にやってきたのは、まさに腕の中にいるシノだった。
彼は、決して諦めなかった。ナツに生きていて欲しかった。どれほど突き放されようとも、辛い別れを告げられようとも、背を向けて振り返ってもらえなくとも、ナツが大好きだった。別れたくない、大事な、かけがえのない家族だったのだ。
その想いが痛いほど胸に流れ込むと、ナツの頬を涙が伝った。こみ上げる熱が、抑えきれずに溢れ出した。これほどまでに自分を愛してくれる存在があることに、それが自分を生かしてくれていることに、計り知れない幸福を感じた。
「ありがとうな……。本当に、ありがとう……。あたしは、もう大丈夫だ。あんたのおかげで、良くなったよ。死ななくて済んだんだ。シノのおかげで、あたしは助かったんだ」
頬に頬を寄せる。幾度も抱きしめた命を、ナツは再び抱きしめる。そうして、気が付いた。
頬を雫が零れ落ちる。自分のものではない、熱い想いが流れていく。その顔を見て、ナツは泣きながら笑った。
「なんだ、シノ。あんた、泣けるんじゃねえか」
涙を忘れていたはずの彼は、泣いていた。親も兄姉も皆殺しにされた絶望の夜から、声とともに失っていたはずの涙を、彼は濡れた瞳から零していた。それが、シノの心がこれまでになく声を上げている何よりの証拠だった。
ナツがシノの逃亡を知らなかったように、シノもナツの様子を知ることはなかった。だから今夜も、すっかりナツがよくなったことを知らずに、薬を運んできたのだろう。顔を見ることすら出来ないまま、ひたすら薬を届け続けた彼がどれだけ安堵しているかを思うと、その涙を無理に止める気など、ナツには起こらなかった。
だが、シノから薬を受け取っていたはずの母や姉は、何故黙っていたのか。これほどまでに彼が心配しているナツの様子を、伝えなかったのか。もう薬など必要ないことを、彼らはシノに伝えるべきではなかったのか。それ以前に、どうしてシノは、決して安くない薬を手に入れ、運ぶことができたのか。
ナツは、シノを優しく抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。家の前に立ち尽くし、何も言えずにいる母親を見上げた。
一番に、シノに会いに行こう。
寝床ですっかり痣の引いた腕を眺めながら、ナツは思った。もう明日には、外に出ても体調は崩れないだろう。そうしたら、シノの元へ走っていこう。孤児院の門が開く時間は正確には知らないが、閉まっていれば、開くまで待っていよう。そして、名前を呼ぶのだ。きっとシノは驚く。もう二度と会えない、死んでしまったはずのナツがそこに居るのを目にして、彼は一体どうするだろうか。
さよならを言ったのが自分であることに、シノに喜んで欲しいと願う自分勝手さに、ナツの心は曇りを覚えてしまう。しかしそれでも、シノに会いたいと思う気持ちは少しも揺るがなかった。例え彼が顔を背けたとしても、捨てたのはナツだろうと拒絶を示したとしても、床に臥せっていた間、一日たりとも忘れることなどなかった彼の顔を、一目見たいとナツは願った。すぐにでも母や姉を手伝い、眠っていた間の恩を返したいとも思うが、それより先に目にしたいのが、シノの姿だった。
優しい笑顔と、涼やかな歌声と、小さな手のひらと、さらさらの髪と、穏やかなぬくもりと。記憶を辿らずとも、いつだってそれらは傍にある。そして、もうじき手で触れることができる。諦めていた愛おしい全てを待ち望みながら、ナツは久方ぶりに夜明けに胸を躍らせ、目を閉じた。
しんと静まり返った家の戸が、小さく叩かれる音がした。
とんとんと、薄い木の板が鳴る。既に日は暮れ、もうじき母や姉が帰ってくる時間だった。布団の中でナツが耳を澄ませていると、再び、遠慮がちな音がした。
訪ねてくる他人など、ナツには一人も思いつかない。居留守を使おうかとも思ったが、もしかしたら自分の知らない重要な人間かも知れない。そうであれば、帰ってくる母たちに迷惑がかかるだろう。ナツは少しの間思案していたが、心細い音が消えることなく玄関で響くのに、ようやく立ち上がった。しばらく横になっていたおかげでふらつく頭を振り、冷たい床を踏みしめ、簡素な鍵に手をかける。少しの緊張を覚えながら、ナツはゆっくりと扉を開けた。
部屋の薄明かりが家の外に立ち込める暗闇に線を引く。ぼんやりと照らされる闇の中に、想像したような誰かはいない。ナツは扉を大きく開け放ち、部屋の明かりで外を照らした。
いたずらかと一瞬考えたが、ほんの少し先の闇が、微かに動いたのが目に入った。よく見ると、地面には汚れた布切れが放られ、その傍に小さな紙袋が置かれている。それを訝しみよくよく目を凝らし、布切れが霞むような呼吸をしているのに、ナツは目を見開いた。おずおずと顔を上げた布の中の彼も、ナツの姿を目にすると、表情いっぱいに驚愕を浮かべた。
「シノ……」
地面に這いつくばり、両手をついて頭を下げているのは、間違いなくひと月前に別れたはずのシノだった。ぼろぼろの着物を体に巻きつけ、顔を土や垢で汚しているが、共に長い時間を旅してきたナツには、それが彼であることを直ぐ様確信した。
「どうして……。あんた、孤児院にいるんじゃ、なかったのか……」
驚きのあまり、声が掠れてしまう。それを振り絞りながら、ナツは一歩足を踏み出した。薄闇の中でシノもナツを見上げながら、よろよろと膝を立てた。
ナツ、と呼ぶのが聞こえる。声を出せない彼が、痩せっぽちの体から、懸命に、祈るように叫んでいる。
「逃げ出したのか……?」
ナツの言葉に、シノがこくりと頷いた。
「どうして、そんなこと」
台詞を言い切る前に、シノが飛びついた。枯れ枝のような腕を精一杯伸ばし、勢いよく駆けてきた彼を、ナツは抱きとめた。シノは、強く、強く腕に力を入れ、抱きついてくる。
懐かしい温もり。死を覚悟するとともに、諦めていた体温。傍にいるべきではないと、彼の幸福には決して繋がらないのだと、わざと突き放したはずの愛しい存在。それは今、ここにいる。
シノは、諦めたくなかった。諦めなかった。弱い彼は、幼い力を振り絞って、ぼろ布のように汚れてしまいながらも、こうして会いに来たのだ。
熱いものがこみ上げてくるのを何とか堪えながら、顔を上げたナツは、それに気がついた。地面に額を擦りつけていた彼の傍ら。置かれた小さな紙袋には、見覚えがある。
手繰り寄せた記憶の中身に気がつくと、ナツの声は震えてしまう。
「あんただったのか……」
看病をする母や姉が手にしていたのは、確かにそれだったのだ。
「薬をくれてたのは、シノだったのか……!」
熱が喉からこぼれ落ちた。彼らは、そこにあるのと同じ袋から薬を出して、自分に飲ませてくれた。だが、今それを手にして家にやってきたのは、まさに腕の中にいるシノだった。
彼は、決して諦めなかった。ナツに生きていて欲しかった。どれほど突き放されようとも、辛い別れを告げられようとも、背を向けて振り返ってもらえなくとも、ナツが大好きだった。別れたくない、大事な、かけがえのない家族だったのだ。
その想いが痛いほど胸に流れ込むと、ナツの頬を涙が伝った。こみ上げる熱が、抑えきれずに溢れ出した。これほどまでに自分を愛してくれる存在があることに、それが自分を生かしてくれていることに、計り知れない幸福を感じた。
「ありがとうな……。本当に、ありがとう……。あたしは、もう大丈夫だ。あんたのおかげで、良くなったよ。死ななくて済んだんだ。シノのおかげで、あたしは助かったんだ」
頬に頬を寄せる。幾度も抱きしめた命を、ナツは再び抱きしめる。そうして、気が付いた。
頬を雫が零れ落ちる。自分のものではない、熱い想いが流れていく。その顔を見て、ナツは泣きながら笑った。
「なんだ、シノ。あんた、泣けるんじゃねえか」
涙を忘れていたはずの彼は、泣いていた。親も兄姉も皆殺しにされた絶望の夜から、声とともに失っていたはずの涙を、彼は濡れた瞳から零していた。それが、シノの心がこれまでになく声を上げている何よりの証拠だった。
ナツがシノの逃亡を知らなかったように、シノもナツの様子を知ることはなかった。だから今夜も、すっかりナツがよくなったことを知らずに、薬を運んできたのだろう。顔を見ることすら出来ないまま、ひたすら薬を届け続けた彼がどれだけ安堵しているかを思うと、その涙を無理に止める気など、ナツには起こらなかった。
だが、シノから薬を受け取っていたはずの母や姉は、何故黙っていたのか。これほどまでに彼が心配しているナツの様子を、伝えなかったのか。もう薬など必要ないことを、彼らはシノに伝えるべきではなかったのか。それ以前に、どうしてシノは、決して安くない薬を手に入れ、運ぶことができたのか。
ナツは、シノを優しく抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。家の前に立ち尽くし、何も言えずにいる母親を見上げた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
アレンジ可シチュボ等のフリー台本集77選
上津英
大衆娯楽
シチュエーションボイス等のフリー台本集です。女性向けで書いていますが、男性向けでの使用も可です。
一人用の短い恋愛系中心。
【利用規約】
・一人称・語尾・方言・男女逆転などのアレンジはご自由に。
・シチュボ以外にもASMR・ボイスドラマ・朗読・配信・声劇にどうぞお使いください。
・個人の使用報告は不要ですが、クレジットの表記はお願い致します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる