ナツとシノ

柴野日向

文字の大きさ
上 下
27 / 35

27話 病気

しおりを挟む
「ナツ、どうしたの、それ……」
 絶句する母に抱きしめられながら、ナツはこれが一番なのだと、何度も自分に言い聞かせた。もう、目を開けているのも辛く感じた。
 言われるままに寝具に潜り込む。すると、ほんの半日前のぬくもりを思い出してしまう。頭を振って布団にしがみつく。息を吐く。
 自分が死んでしまうことに対して、ナツに大きな恐怖はなかった。遠い昔に死んでしまったあの子も、この恐怖を超えていったのだと考えると、恐れてなどいられない。今までこの家にもいなかったのだ。数日帰ってきたところで、両親や姉も悲しみさえすれど、今後も変わらぬ生活を送っていくだろう。だから、ナツの心残りは、ただ一つだった。シノは、うまくやっていくだろうか。また、人々の心を動かす唄を唄えるようになるのだろうか。できれば、その一幕を見て、この世を去りたかった。
 あと幾日、この身体はもってくれるのか。だいぶ熱の上がった頭で、ナツはぼんやりと考えた。あの子は、最後に血を吐いて死んだ。やせ細った腕は、斑点が浮かぶどころではなく、皮膚全てが変色していた。その様子はよく覚えている。それを思えば、あと数日はもつだろうが、長くはない。父や一番上の姉には会えないだろうが、売られた時に、既に彼らと永遠に決別する覚悟はしていたのだ。今更寂しさを覚えることもないと、ナツは重い瞼を閉じた。

 食事は、二番目の姉か、母が食べさせてくれた。決して満ち足りたものではないが、二人が自分の分を削っていることを、ナツは察することができた。
 身体の節々の痛みに、眠れない虚ろな意識の中、母と姉の言葉が聞こえた。
「奴隷」「長くない」「もう少し」「首輪は」そんな台詞が途切れ途切れに聞こえてくる。やはり二人は、奴隷として売られたナツが、何故逃げてこられたのか疑問に思っているらしい。それはそうだと、ナツはぺしゃんこの枕に頭を押し付ける。一度売って金を得たのだから、これは立派な契約違反だ。本来なら、母たちは末娘を主人の元に突き出さなければならない。だが、首輪を外し、遠い距離を明日をも知れぬ身で渡ってきた娘を、非人道的な世界に送り返す非道さは、彼らはまだ持ち得ないようだった。一度は売ったくせにとナツは可笑しささえ覚えてしまう反面、彼らの中途半端な優しさが迫るように身に染みる。どうやら、病気に殺されるまでは、目を瞑って許してくれるようだ。
 もう何も与えられないのなら、一日でも早く、母や姉を楽にしてあげたい。貧乏な家で、遠くないうちに死を迎える体で、働くこともできず一日中寝床にこもり、食べ物だけを貰って生き延びる生活。奴隷として生きたナツは、それに耐えられなかった。
 姉がスプーンで運んでくれる薄い粥もうまく胃に落ちず、こみ上げてくる。弱々しく咳をし、食事すら摂れなくなり始めたナツを、姉は思いつめた表情で見つめた。
「ごめん、姉さん……」
 歪むナツの視界に、目を濡らした姉の姿がある。乾いた唇を動かし、ナツは掠れた声を零した。
「もう、いいから……。あたしは、もう……」
「……ナツ」
 姉は目元を拭い、涙に濡れた手で、優しくナツの頬に触れる。その冷たい心地よさに目を細めるナツは、今や動くことも、喋ることにすらひどく体力を奪われてしまう。
 目を閉じると、あの子の姿が蘇る。瞼の裏で、幼い弟は笑っている。まだ元気だった頃、一緒に山の中を駆け回り、食料を探しながら遊んでいたことを思い出す。明るい笑い声が、鼓膜の奥で響く。もう二度と、触れることのできない記憶。
 静かな寝床で、ナツは大きく息を吐いた。この布団は、幼いナツと弟が共に潜り込んで眠っていたものだった。息を吸えば、あの子のかけらを感じられる気がする。
 あたしも、もうすぐ、いくからな。
 胸の奥で弟に呟く。すると、ちくりとそこが痛む。あの子に似たもう一つの顔が、泣きそうな表情をしている。ナツ、ナツと出せない声で精一杯叫び、一緒に生きてと震えている。シノは、ナツが大好きだ。二人は、相手の名前さえ知らない奴隷同士だったはずが、一人の思いつきの台詞から血の繋がらない姉弟となり、相手を想うようになった。互いが傷つくことを嫌い、生きるために手を握り合って逃げ出した。そうして、いくつもの夜を超え、太陽を迎え、時に悪いこともしながら、必死になって生き延びてきたのだ。ナツの隣にはシノが、シノの傍らにはナツが常に寄り添い、優しい言葉を掛け合って、相手の幸せをただ願って歩いてきた。
 だから、別れは必要だった。ナツはもうじき息絶えてしまい、シノは居場所のないこの世界に、唄うこともできないまま、たった一人で取り残されてしまう。その未来を知っているからこそ、彼を少しでも大事にされる場所に送り出し、唄うたいとしての可能性を抱かせることは、ナツに行える最後の思いやりだった。
 次に目を閉じれば、もう覚めることはないのかもしれない。これでよかったのだと自身に言い聞かせ、夜も昼もわからない一日を、ナツは静かに終える。今までのことがゆっくりと蘇り、頭の奥で囁いて、触れられない場所に消えていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

処理中です...