ナツとシノ

柴野日向

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20話 人さらい

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 夜が明け、日が昇ると、シノは同じように唄いだす。サーカスには、連日大勢の客が詰めかけ、大盛況を博していた。年端の行かない少年の唄声は、その中でも話題となった。団長が直々に拾ってきた実力は確かなもので、更に彼は努力を惜しまず、その日の出番を終えてもひっそりと練習を重ねた。自分の語る物語に従うかのように、決して自分の力を過信することなく、彼は一つ一つの舞台を丁寧に、繊細に作り上げていった。そんな彼の唄声は多くの人気を獲得し、それを求めて、テントの外で耳を澄ませる者もいた。彼が口を開き唄いだすと、テントの外の広場も静まり返り、誰もがその唄声に聞き入った。
 愛らしい見かけも相まって、サーカスの団員たちも彼を可愛がった。客からの差し入れが菓子であれば、それを分けてくれた。受け取った彼は、にこりと笑って頭を下げると、いの一番に彼女のもとへ駆けていった。
 ナツは、シノが手渡す菓子を断ったが、シノはしつこく勧め、突き出した手をいつも引っ込めようとはしなかった。
「唄ったのはあんたなんだから、あたしが貰う道理はないよ」
 そう言ったが、シノは決して引き下がらず、ナツと分けたがった。終いに根負けしたナツが手に取ると、嬉しそうに寄り添い、ようやく頬張るのだった。
 そうしてシノは多くの人に可愛がられるようになったが、彼が一番懐いているのは、共に旅を続けてきたナツだった。しかし彼女は、彼の唄を聴くことができない唯一の人間だった。舞台の真ん中で、一人唄い続ける彼を袖で見つめながら、じっと耳を塞ぎ続けていた。そうしなければ体が震え、叫び出したくなってしまうのを抑えられない。そうした恐怖にひたすら耐えていた。舞台が終わり、ただいまと声なく叫びながら飛びついてくる彼を抱き止めながら、一番安堵しているのはナツだった。

 残酷な男は、今宵も告げる。辛いだろうと、心のないその言葉を。
 口元の笑み。ぼくは知っている。闇夜の拳。ぼくは見ている。
 凍える冬に、身にまとうは一枚の布切れ。
 あすの日の出を夢見て、ぼくたちは、目を閉じる。

 唄う時間を除けば、相変わらずシノはナツの傍らに寄り添っていた。公演が終わると、団員たちは客を見送りに出る。そこに並ぶシノはナツと一緒に行きたがり、団長は苦笑しながらそれを許してくれた。終了の合図を惜しみ、楽しいひと時の余韻に沸く人々が、舞台に上がらなかった少女を目ざとく見つけて不審がることもなかった。
「あんた、随分人気者になっちまったな」
 ナツはそう言って、人ごみからようやく逃れたシノに笑いかける。
 まるで可愛らしい子犬を見つけたかのように、シノを数人の客が取り囲み、もみくちゃに撫で回したあとだった。そこには他人を見下す人はおらず、シノも笑ってされるがままに撫でられていたが、解放された後は髪はぼさぼさになり、衣装も乱れてしまう。
「な。可愛い顔してんだから、気をつけろよ。悪い奴ってのは、どこにでもいるんだからよ」
 そう言ってナツがしっかりとシノの手を握る理由は、確かに存在していた。
 公演を数日終えたばかりの頃、人でごった返す中、ナツはある団員に呼ばれてシノの手を離した。だがシノも、顔の知った団員と並んでいたこともあり、焦ってナツについていかなかった。
 手を振る人に手を振り返すと、彼らは顔をほころばせて笑う。それがシノには嬉しかった。ありがとうと礼を言う人もいれば、よかったよと褒める人もいる。彼らはシノが言葉を話せないことを知っても、不思議な顔さえすれど眉をひそめることはない。唄うたいの少年の事情は、日を追うごとに広く知れ渡ったが、それをからかい苛めようとする誰かは現れなかった。
「坊やは、本当に唄が上手だね」
 そう言ってにこやかに笑う男にも、シノは喜んで笑顔を向けた。
「ほかの村でも、よく唄ってきたのは本当なのかい」
 彼の連れらしい男が寄ってくるのに、シノは頷いた。二人の男はシノの視界を塞ぎ、内緒話をするように声を潜めた。家に病気の娘が居るのだと、彼女は噂で聞いたサーカスを一目見たいと言っているのだと。シノの唄声なら、娘の元でサーカスを見せてやれるだろうと、男たちは言った。
 だが、その話にシノは躊躇い、すぐには肯けなかった。唄の交渉は、いつもシノではなく、ナツが行っていたのだ。すると返事を待たず、男は細い腕を握り、彼を団員たちの列から引き剥がした。人で溢れる場所では、彼らの行動を見とがめる者もおらず、小さなシノはよろめきながら懸命に手を引いた。だが、彼の力が及ぶはずもなく、大の男二人に挟まれれば、声を出せないシノは助けを求めることもできない。
「喋れないのなら、返事もいらないな」
 噂通り話せないことを確認し、吊り上がる男たちの口元は、シノがいつか見た主人のものにそっくりだった。人ごみから外れて物陰に引きずられる体を、必死でシノは踏ん張った。
「唄を聴かせてくれ。金になる唄をな」
 細い体を抱えようと、男がシノに手をかける。
「待て!」
 甲高い声が響くとともに、シノに手を伸ばした男は呻いてつんのめった。後ろから体当たりをくらわせたナツは、もう一人に腕を掴まれているシノに抱きつき、相手の腕に噛み付いた。
「誰か、来てくれ! 人さらいだ!」
 痛みに悲鳴を上げる男を尻目に、ナツはしっかりとシノを抱きしめ、大声を上げる。たちまち逃げ出す二人の男を、ナツの言葉に気がついた大人たちが追っていく。
 ナツも彼らを追おうとしたが、身体を強く引き戻され、ようやく視線を落とした。シノが強く、強く体に抱きついている。細い指を食い込ませ、顔を押し付け、決して離れるまいとしがみついていた。
「もう大丈夫だ。悪かった、あたしが離れてたせいだ」
 そんなシノを優しく抱きしめ、頭を撫でてやりながら、ナツは語りかけた。余程恐ろしかったのか、シノの小さな体がかすかに震えているのが伝わってくる。
「……どうした。そんなに怖かったのか」
 そう言って、ナツははっとした。随分と前のことを思い出す。シノが主人に痛めつけられ、朝になればナツを殺すと告げられた夜のこと。離れ離れになる寸前、シノはこうして震えながら抱きついてきた。絶望的な別れを知ってしまった彼は、目の前で火の手が上がっていても、決してナツを離そうとはしなかった。一緒に生きていて欲しいと、全力で叫んでいた。今の台詞は、あの時にナツがシノに問いかけたのと同じものだった。
「……そうだな。怖かったよな」
 屈んで抱きしめてやる。がたがたと、シノは震えている。そしてナツも、あとほんの僅か、気が付くのが遅ければ訪れていた望まない別れに、背筋を凍らせる。
「あたしも、怖いよ、あんたと離れるのは。よかった。そんなことにならなくて、本当によかった」
 シノは涙を流せない。きっと、言葉と共に、流し方を忘れてしまったのだろう。覚えていれば零れているであろう、幻の涙を拭うように頬を撫で、ナツは確かな温もりで語る。今は、怖くないのだと、確かに自分たちはこうして傍にいるのだと、言葉よりも確かな体で伝える。
「あんたはこんなに小さくて弱い。それに、声も出せないし、親もいない。人さらいが狙うには、格好の獲物なんだ。あいつらは、旦那様と同じだ、きっとあんたを死ぬまで唄わせるつもりなんだよ。だから、あたしから離れんなよ。何があっても、この体がある限り、あたしはあんたを守る」
 そんなナツの優しさに、シノは何度も頷いた。傍にいてくれるナツの温もりに縋りつき、声のない言葉で、大好きだと叫んでいた。
 そうした恐ろしい事件があったから、団長も、常にシノの隣にナツがいることを大目に見てくれたのだった。
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