ナツとシノ

柴野日向

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18話 サーカス1

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 その大きな街は、有名なサーカスがやってくるということで、大いに賑わっていた。テントが組み立てられている最中から、大人たちは興味深げに見物し、子どもたちは期待に胸をふくらませ、周囲を走り回った。
 テント内の一角で生活することを許されたナツとシノは、サーカスというものを見たことがなかった。目が眩むような高さで鳥のように舞う空中ブランコ乗りや、人間など食い殺してしまいそうな猛獣が火の輪をくぐり練習をするのに、二人は見入った。自分たちは、まるで知らない世界に迷い込んでしまったのだという気がした。
 その世界の人々は、反対に二人の付けている首輪を見たことがないと言った。シノに合った舞台用の服を採寸していた衣装係は、華やかなサーカスに似合わない薄汚れた布を、シノが手を伸ばす間もなくあっさりと取ってしまった。
「あなたたち、奴隷だったの?」
 彼女は驚きを露わにし、それを見ていたナツも当のシノも背筋を凍らせたが、奴隷を目にしたことのない人々は、却って寛容だった。それを自分では外せないと知ると、彼女はシノにスカーフを返し、首輪を隠す衣装を作ることを決めていた。
 そうして、慣れた空気で準備は進んでいった。
「これが、君に唄ってもらいたい唄だ」
 流石に才覚があるといえども、これほどの舞台で何の用意もなく唄うのは難しいことだった。不安に思っていたナツはいくらかほっとしながら、手渡された紙の中身をシノと読んだ。読み書きが出来ることは、依頼を受ける際に重要な教養だった。
 一幕にふさわしい、長い唄だった。
 だが読み進めるうちに、ナツは自分の顔が強ばっていくのを感じた。
「なんだ、これ……」
 そんな言葉が、思わず口をついて出ていた。サーカスの華やかさには、とても似つかわしくない詞だった。咄嗟に振り向くと、シノも真っ黒な瞳を大きく見開いて中身を凝視している。
「決して明るい唄ではないが、明暗が必要なのだよ。サーカスとはいえ、馬鹿明るいだけでは、お客も飽きてしまう」
 そう取りなす団長の声に、ナツは首を横に振った。これをシノに唄わせるのは、あまりに酷だと思った。
 それは、一人の男の物語だった。一代で財を成した男が、どのように華やぎ、そして没落していったのか。その半生を語ったものだった。
 その中身にナツは見覚えがある。いや、体験したことがあった。自分を甚振って笑みを浮かべる主人やその家族、下人たちの様子がまざまざと浮かんでくる。鞭でぶたれた傷から流れる血を見て、汚いと罵り嘲笑う声が耳の奥で響く。八つ当たりで腹を蹴飛ばされ、空っぽの胃がひっくり返る感覚がよぎる。髪を掴まれ引きずり回される鋭い痛みが、頭を駆けていく。
 ナツは口元を押さえ、その場にうずくまった。全身が怖気立ち、背に氷水を入れられたかのように震えが止まらない。吐いてしまうのを何とか堪え、薄れることのない記憶を懸命に散らす。今にも主人の怒鳴り声が降ってくるような気がし、あの日々がこんなにも自分の心を支配していることに、改めて気がついた。だが今はそれよりも、更に傷の深い相手が傍にいるのだ。ナツは何とか、よろめく足を立たせた。
「こんなの、唄わせられない……」
 呻きながら、かぶりを振る。
 ナツは非道い目に合わされたが、主人のお気に入りだったシノは、ひときわ残酷な仕打ちを受けた。命を顧みない傷を負わされ、首を絞められ、血を流しながら涙も忘れてひたすらに耐えていた。その上、この唄に書かれている男に、親兄姉までも殺された。それこそ声を失ってしまうまで、心を抉られ、生涯癒えることのない傷を負ったのだ。
「この人は、あたしたちの主人だった人だ……。逃げ出した奴隷ってのは、あたしたちのことだ」
 ナツの言葉に、まさに青天の霹靂だと、団長も驚いた顔を見せた。その男の奴隷に対する扱いは、後に唄として遠い地に語り継がれるほどに惨たらしいものだった。気に入る奴隷を自ら狩り、支配し、蹂躙し。やがて下人の不始末から屋敷に火事が起き、その怒りに身を任せ全てを失った男の物語は、決して驕るなという教訓を伝える物語として、離れた地で伝えられていたのだ。
 こんな詩をシノに唄わせるわけにはいかないと、ナツは訴えた。
「ここにある通りのことが、あったんだ。あたしも……それ以上に、シノは虐められたんだ。まだ体にも、たくさん傷が残ってる」
 だが、唄を変えてくれというナツの言葉に、団長は渋い顔を見せる。
「今から新しい唄を探すのは、難しい話だ。もう演目の順序も決まってしまっているし、時間の調整も難しい」
「だけど、こんな唄、シノの傷を広げるだけなんだ」
 そんなナツと団長のやり取りの中、シノは俯いて、じっと詞の書かれた紙を見つめていた。ナツのように震えることなく、かといって、人々から旅の話を聞く時のように顔をほころばせることもなく、ただ目を伏せている。
「悪いけど、こんなこと、出来ない……。これが付いてる限り、無理なんだ」
 そう言ってナツは、自分の首にそっと触れ、スカーフを軽くめくる。
「首輪か……」
 団長は、ナツの首輪に目をやり、納得した風に幾度か頷いた。
「それが外れるなら、話は別だと捉えていいんだね」
「これを……?」
「唄ってくれるのなら、その首輪を外してあげよう」
 目を丸くするナツの首輪に、団長は指先を触れさせる。彼女が奴隷であった過去を消せないように、無骨な革の首輪はその細い首を固く締め、鎮座している。
「公演を終わらせられれば、職人を呼んで外させよう。多くの奴隷に使われていたものならば、外せる人間もいるはずだからな」
 この首輪を外せる。それは願ってもないことだった。どれだけ主人の屋敷を離れても、いくつ山を越え、広い海を渡っても、首輪の存在は自分たちの身分を周囲に触れ回った。こいつは人ではない、人に仕える奴隷なのだと声を大にし、訴えた。家畜以下の存在なのだと、初めて見る者にもしつこく告げるのだ。
 その首輪を外せるという事態は、想像したこともなかった。ナツは思わず自分の首輪を握り締め、奥歯を噛んだ。
「だけど……」
 今となっても記憶は薄れることなく、過去は決して消し去ることはできない。それでも、首輪を外すということは、大きな自由の獲得を意味している。それは喉から手が出るほど、望んでいるはずのものなのだ。
 返事をできないでいるナツの袖が、小さく引かれた。
「シノ……?」
 考え込んでしまったナツが見下ろすと、シノはにこりと笑顔を見せて頷く。その表情に暗いところはなく、いつも通りの優しく可愛らしい顔立ちで、彼は笑っていた。
「嘘つくなよ……。あんただって、苦しいだろ。あたしでも目眩がするんだ。あんたはよっぽど非道い目にあったじゃねえか」
 悲痛なナツの声に、しかしシノは首を大きく横に振る。
「馬鹿言うな。こんな詩(うた)唄って平気でいられるわけねえだろが。適当な事言うと、後であんたが辛いだけなんだぞ」
 説得しようとするナツに、シノは幾度も首を横に振る。その表情には一分の陰りもなく、ナツがどれだけ訴えようと彼の意志が変わる気色はない。
「わかんないのか……あんたは馬鹿だよ」
 遂にナツがぽつりと呟くと、シノはその笑顔を団長の方に向けた。まるで、ここまで怯えるナツの方が異常なのだと言わんばかりの様子だった。
「よし」
 満足そうに団長が頷く。
「腕のいい職人を探しておこう」
 そんな言葉に、ナツは頷くことができなかった。
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