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17話 勧誘
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そんな、川を流れる小舟のように翻弄される生活の中、ある街のある大きな店で、三日間の幕を唄いきった日のことだった。
「あなたたちのおかげで、いつもの倍以上、お客さんが来てくれたわ」
舞台から降り、少しの間休憩を挟んだシノと、彼を労い、水の入ったコップを渡すナツ。そんな二人を店の隅のテーブルに呼び、満足気な女将は言った。人目につく席に座れば、他の客たちに囲まれてしまう。それでは、まだ小さなシノが気疲れするだろうという配慮だった。
「これ、今日はもう売り切れって、さっき言ってたやつじゃないのか」
「あなた達の分ぐらい、とっておいたわ。たくさんお客さんを呼んでくれたお礼よ」
「でも、金だってもらってるのに」
「いいのよ。うちの看板商品よ、食べていって。それに、まだ子どものあなたたちへのお礼には、お金よりもこっちの方が似合う気がするわ」
いいから食べてと差し出されたパンケーキの皿を前に、ナツが礼を言うと、シノも頭を下げる。昼をまたいだ公演だった。勿論、シノが何も口にしていないのに、ナツが食事を終えているはずがなく、二人とも素直に腹を空かせていた。
微笑ましく見守る彼女に教えられる通り、小瓶に入った蜂蜜をかけ、銀色のナイフとフォークを差し込む。ふんわりと膨らんだパンケーキはほんのり温かく、生地の控えめな甘味と蜂蜜の風味は舌に優しく、焼きたての香ばしさが鼻をくすぐった。
美味しいとナツが感想を返し、シノも小さな口いっぱいに頬張りながら、何度も頷く。そんな彼らに温かなミルクを手渡し、一息ついた頃、彼女はナツとシノの顔を交互に見やると人差し指を立てた。
「お客さんの中にね、あなたたちに会いたいって人がいるの」
「会いたいって、どうして」
「まさに探してた通りだって」
瞬間、ナツの背筋が凍りついた。視線を向けると、シノも瞳を大きく開き、驚愕を露わにした顔で、こちらをぎこちなく振り返る。
まさか、とナツは唾を飲み込んだ。目線で店の中をさっと洗うが、見覚えのある顔は全くない。それでも、海を越えて安心していたのは間違いだったのかと、冷や汗が背を伝う。せっかく食べたパンケーキが、胃の中からせり上がってくる気配さえある。もったいない。こんな時なのに、そんなことをナツは考えてしまう。
「どうしたのよ、二人とも。顔色真っ青よ」
「それって一体、どんな人なんだ。なんであたしたちを探してるんだ」
「なんでって、そんなの、決まってるじゃない」
首輪は見られてないはずだと、ナツはそっと、自分のスカーフに手を当てた。自分たちが奴隷という身分から逃れられない事実を知っている人間が、シノの舞台を観ていたと想像すると、いてもたってもいられなくなる。
だが彼女は、怪訝な顔をしながらも、どこか嬉しそうに声を弾ませた。
「褒めてたわ、すごく綺麗な声だって」
隣で身を固くするシノの髪を優しく梳きながら、彼女はその誰かの言葉をなぞった。
「初日に見かけてから、三日間、ずっと通ってくれてね。こんな唄声を探してたんだって、言ってたわ」
是非うちで唄ってほしいと言ったのは、あるサーカスの団長だった。娯楽に対する知識の乏しいナツやシノでも耳にしたことのある、サーカス団の名だった。
「まだほんの子どもだね」
紳士らしいシルクハットを脱いだ彼は、戸惑うようにナツにくっつくシノを見下ろし、声に僅かな驚きを込めて言った。
「随分評判だということでね。勝手な想像をしてすまない」
そうした前置きの後に聞かされる話に、ナツもシノも、目を丸くした。時間を埋める余興や前座ではなく、一つの演目として唄ってほしいという依頼だったのだ。予想される観客の数も、耳にしたことがない。これまで様々な場所でシノは唄声を披露してきたが、ここまでの大舞台は初めてだった。
「唄はこちらで用意してあるから、それを唄ってもらいたいのだが、どうかね」
尋ねられ、シノの言葉を代弁するナツは、傍らに寄り添う彼を見下ろした。
「シノ、唄うのはあたしじゃない。だから、あんたが好きに決めていいんだぞ。乗っても乗らなくても、誰も文句なんか言わない」
真剣な眼差しで言うナツを見上げて少し思案した風だったが、シノはやがて笑って頷いた。それを見て、ナツも頷く。
「やります」
交渉を行うのは彼女の役目だった。
こうして、一つの大きな舞台の幕開けが決まった。
「あなたたちのおかげで、いつもの倍以上、お客さんが来てくれたわ」
舞台から降り、少しの間休憩を挟んだシノと、彼を労い、水の入ったコップを渡すナツ。そんな二人を店の隅のテーブルに呼び、満足気な女将は言った。人目につく席に座れば、他の客たちに囲まれてしまう。それでは、まだ小さなシノが気疲れするだろうという配慮だった。
「これ、今日はもう売り切れって、さっき言ってたやつじゃないのか」
「あなた達の分ぐらい、とっておいたわ。たくさんお客さんを呼んでくれたお礼よ」
「でも、金だってもらってるのに」
「いいのよ。うちの看板商品よ、食べていって。それに、まだ子どものあなたたちへのお礼には、お金よりもこっちの方が似合う気がするわ」
いいから食べてと差し出されたパンケーキの皿を前に、ナツが礼を言うと、シノも頭を下げる。昼をまたいだ公演だった。勿論、シノが何も口にしていないのに、ナツが食事を終えているはずがなく、二人とも素直に腹を空かせていた。
微笑ましく見守る彼女に教えられる通り、小瓶に入った蜂蜜をかけ、銀色のナイフとフォークを差し込む。ふんわりと膨らんだパンケーキはほんのり温かく、生地の控えめな甘味と蜂蜜の風味は舌に優しく、焼きたての香ばしさが鼻をくすぐった。
美味しいとナツが感想を返し、シノも小さな口いっぱいに頬張りながら、何度も頷く。そんな彼らに温かなミルクを手渡し、一息ついた頃、彼女はナツとシノの顔を交互に見やると人差し指を立てた。
「お客さんの中にね、あなたたちに会いたいって人がいるの」
「会いたいって、どうして」
「まさに探してた通りだって」
瞬間、ナツの背筋が凍りついた。視線を向けると、シノも瞳を大きく開き、驚愕を露わにした顔で、こちらをぎこちなく振り返る。
まさか、とナツは唾を飲み込んだ。目線で店の中をさっと洗うが、見覚えのある顔は全くない。それでも、海を越えて安心していたのは間違いだったのかと、冷や汗が背を伝う。せっかく食べたパンケーキが、胃の中からせり上がってくる気配さえある。もったいない。こんな時なのに、そんなことをナツは考えてしまう。
「どうしたのよ、二人とも。顔色真っ青よ」
「それって一体、どんな人なんだ。なんであたしたちを探してるんだ」
「なんでって、そんなの、決まってるじゃない」
首輪は見られてないはずだと、ナツはそっと、自分のスカーフに手を当てた。自分たちが奴隷という身分から逃れられない事実を知っている人間が、シノの舞台を観ていたと想像すると、いてもたってもいられなくなる。
だが彼女は、怪訝な顔をしながらも、どこか嬉しそうに声を弾ませた。
「褒めてたわ、すごく綺麗な声だって」
隣で身を固くするシノの髪を優しく梳きながら、彼女はその誰かの言葉をなぞった。
「初日に見かけてから、三日間、ずっと通ってくれてね。こんな唄声を探してたんだって、言ってたわ」
是非うちで唄ってほしいと言ったのは、あるサーカスの団長だった。娯楽に対する知識の乏しいナツやシノでも耳にしたことのある、サーカス団の名だった。
「まだほんの子どもだね」
紳士らしいシルクハットを脱いだ彼は、戸惑うようにナツにくっつくシノを見下ろし、声に僅かな驚きを込めて言った。
「随分評判だということでね。勝手な想像をしてすまない」
そうした前置きの後に聞かされる話に、ナツもシノも、目を丸くした。時間を埋める余興や前座ではなく、一つの演目として唄ってほしいという依頼だったのだ。予想される観客の数も、耳にしたことがない。これまで様々な場所でシノは唄声を披露してきたが、ここまでの大舞台は初めてだった。
「唄はこちらで用意してあるから、それを唄ってもらいたいのだが、どうかね」
尋ねられ、シノの言葉を代弁するナツは、傍らに寄り添う彼を見下ろした。
「シノ、唄うのはあたしじゃない。だから、あんたが好きに決めていいんだぞ。乗っても乗らなくても、誰も文句なんか言わない」
真剣な眼差しで言うナツを見上げて少し思案した風だったが、シノはやがて笑って頷いた。それを見て、ナツも頷く。
「やります」
交渉を行うのは彼女の役目だった。
こうして、一つの大きな舞台の幕開けが決まった。
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