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16話 旅路
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太陽の昇る方角へ、二人は真っ直ぐに歩き続けた。人のいる村や街ばかりに留まってはいられない。それでは、嘗て老人たちの語っていた楽園は目指せない。
彼らの小屋を後にする時に手渡された包みを身体に結びつけ、中に僅かな食料を詰めて、ナツとシノは手を繋いで街道を辿った。時には深い森を抜け、大きな川を迂回して、道なき道に、裸足の足跡を作っていった。
「シノ、あっちだ、走れ!」
ある日暮れ、広々とした草原に雨が降り始めた。辛うじて馬や人が踏み固めた道が伸びるだけの、緑色の大地。そこをまっすぐ進んでいた二人は、身体に触れる冷たい雨に駆け出した。ここ数日は村一つ見かけることもなく、片手で数える回数、荷馬車とすれ違うだけだった。人気のない土地には、時折点々と、人のいなくなった小屋が佇んでいた。
訪れる薄闇の中、思い出したようにぽつりと建つ朽ちかけた小屋にたどり着き、ほっとするや否や、雨足は激しさを増した。
陽の光はあっという間に姿を消し、自分の手さえ見えなくなる暗闇が、あたりをすっかり包み込む。バタバタと降りしきる雨が小さな小屋を乱れ打ち、ところどころでは漏れた雨水がポタポタと床に水たまりを作る。
二人は、半壊している小屋のあちこちに落ちている木材を拾い、中から乾いたものを選ぶと、かまどに丁寧に重ねた。背中に斜めがけした包みを解き、ナツは、袋で幾重にも包まれたマッチ箱を取り出す。火を点けると、ようやく温もりに安堵した互いの顔が、ぼんやりと闇の中に浮かぶ。
小屋の中を隅々まで詮索し、棚の奥に転がっている桃の缶詰を見つけた。包みの中に残っていた干し肉を間に置き、ナツとシノはかまどの火の前で食事を摂った。雨が降っている時分、水に困ることはなく、持ち運んでいた小さな瓶を雨漏りしている場所に置いて、水を溜めた。ピチョ、ピチョン、と。透明な瓶の中で透き通った水が爆ぜる音を聞きながら、乾いた肉に歯を立てた。
「おい、シノ、半分食えって言っただろ」
肉を食べ終え、中身にフォークを立て、シロップを飲んだシノが差し出す缶を覗き込むと、ナツは不満を露わにそれをずいと押し返した。
「見えてるだろ、中身。これのどこが半分なんだよ、嘘つくな。ちゃんと食って飲めよ。初めに入ってた量、あたしもちゃんと見てたんだからな」
シノが口にした分は、明らかに半分には足りなかった。缶には、ひと切れ、ふた切れを余分に残し、それらが浸るほどのシロップが入っている。彼はナツの台詞に、困ったふうに眉根を寄せる。
「気分悪いのか。気持ち悪くて、食えねえのか」
違うと、彼は首を横に振った。
「なら、自分の分はちゃんと食えよ。知ってるか、嘘っていうのは、一番簡単にこなせる悪いことだ。それを重ねれば、そいつはいつか、悪人って呼ばれるようになるんだぜ」
ナツの台詞を聞くと、シノは途端に、黒目がちの目を大きく開いた。手に握った銀色のフォークで缶の中身を突き刺し、慌てて口に運ぶ。シノは、ナツに悪い奴だと思われて、嫌われたくないのだ。
ごくごくとシロップを飲む細い喉が動くのを見て、ナツは笑った。手持ちの食料が尽きてしまった恐れや不安も、この瞬間だけは、溶けて消えるようだった。
奥の部屋にあったベッドは、布地をすっかり剥ぎ取られていた。恐らく、同じように避難をしてきた誰かが旅路のどこかで使おうと、持って行ってしまったのだろう。
それでも、二人は満足だった。散らばった藁を集め、床板よりも柔らかな場所ができると、その中心に並んで横になった。柔らかな肌をちくちくと藁がくすぐる。それらが刺さり難い体勢を探し、その上、互いに抱きついた。かまどを離れて冷え始めた身体が、こうすれば、自分のものでない体温に巻きついて一つになるような心持ちで、何よりも安心できるのだ。
「今日も、何とかなったな」
止まない雨が、天井を叩く。その音にかき消えそうな声で、ナツはシノに囁いた。
「ここにいた誰か、缶詰食べちまって、怒るかな。この辺、店どころか、家も何もないだろ。きっと貴重な食料だったんだよ。それをさ、どこから来たかもわからねえガキに食われて、腹立てたりしねえかな」
そっと、シノの額に、鼻先を押し付ける。彼がどう応えればいいのか分からず、瞬きを繰り返しているのが感じられる。
ナツは、小さく笑った。
「シノ、これはきっと、悪いことだ。泥棒だぜ。人のものを勝手に取って食ったんだ。わかるよな」
こくりと、胸元でシノが頷いた。
「それならいいよ。あたしらは生きるんだ、悪いことしたって、生き延びるんだ。ただ、この気持ちだけ忘れるなよ。忘れちまったその時には、ほんとに悪い奴になってるんだからな。取り返しのつかない、嘘つきになるんだ。あたしはそんなの嫌だ。シノだって、嫌だろ」
うん、うんとシノが幾度も首を振るのに、ナツは彼の柔らかな髪を梳いてやった。絶対に忘れないと訴えるのが、ナツには聞こえる。
「今日も生きられた。それは、この家と、住んでた誰かがいたからだ。きっと、それさえ覚えていれば、許してもらえる。楽園って場所に行って、悪い奴だからって、門前払いされたらたまんねえからな」
少し頭を引き、白い歯を見せて笑うナツを見上げ、シノもにっこりと笑いかけた。
藁の感触、枯れたにおい。遠く離れた主人の家で、毎晩それに包まれていた夜を思い出す。
だが、あの頃とは確実に違う感覚を抱きしめ、ナツとシノは眠りについた。誰も自分たちを知らない、追わない場所で、誰よりも大事な温もりを全身で感じる。雨音がぱたぱたと屋根を駆け回る音の洪水の中、互いに瞼を閉じた。
彼らの小屋を後にする時に手渡された包みを身体に結びつけ、中に僅かな食料を詰めて、ナツとシノは手を繋いで街道を辿った。時には深い森を抜け、大きな川を迂回して、道なき道に、裸足の足跡を作っていった。
「シノ、あっちだ、走れ!」
ある日暮れ、広々とした草原に雨が降り始めた。辛うじて馬や人が踏み固めた道が伸びるだけの、緑色の大地。そこをまっすぐ進んでいた二人は、身体に触れる冷たい雨に駆け出した。ここ数日は村一つ見かけることもなく、片手で数える回数、荷馬車とすれ違うだけだった。人気のない土地には、時折点々と、人のいなくなった小屋が佇んでいた。
訪れる薄闇の中、思い出したようにぽつりと建つ朽ちかけた小屋にたどり着き、ほっとするや否や、雨足は激しさを増した。
陽の光はあっという間に姿を消し、自分の手さえ見えなくなる暗闇が、あたりをすっかり包み込む。バタバタと降りしきる雨が小さな小屋を乱れ打ち、ところどころでは漏れた雨水がポタポタと床に水たまりを作る。
二人は、半壊している小屋のあちこちに落ちている木材を拾い、中から乾いたものを選ぶと、かまどに丁寧に重ねた。背中に斜めがけした包みを解き、ナツは、袋で幾重にも包まれたマッチ箱を取り出す。火を点けると、ようやく温もりに安堵した互いの顔が、ぼんやりと闇の中に浮かぶ。
小屋の中を隅々まで詮索し、棚の奥に転がっている桃の缶詰を見つけた。包みの中に残っていた干し肉を間に置き、ナツとシノはかまどの火の前で食事を摂った。雨が降っている時分、水に困ることはなく、持ち運んでいた小さな瓶を雨漏りしている場所に置いて、水を溜めた。ピチョ、ピチョン、と。透明な瓶の中で透き通った水が爆ぜる音を聞きながら、乾いた肉に歯を立てた。
「おい、シノ、半分食えって言っただろ」
肉を食べ終え、中身にフォークを立て、シロップを飲んだシノが差し出す缶を覗き込むと、ナツは不満を露わにそれをずいと押し返した。
「見えてるだろ、中身。これのどこが半分なんだよ、嘘つくな。ちゃんと食って飲めよ。初めに入ってた量、あたしもちゃんと見てたんだからな」
シノが口にした分は、明らかに半分には足りなかった。缶には、ひと切れ、ふた切れを余分に残し、それらが浸るほどのシロップが入っている。彼はナツの台詞に、困ったふうに眉根を寄せる。
「気分悪いのか。気持ち悪くて、食えねえのか」
違うと、彼は首を横に振った。
「なら、自分の分はちゃんと食えよ。知ってるか、嘘っていうのは、一番簡単にこなせる悪いことだ。それを重ねれば、そいつはいつか、悪人って呼ばれるようになるんだぜ」
ナツの台詞を聞くと、シノは途端に、黒目がちの目を大きく開いた。手に握った銀色のフォークで缶の中身を突き刺し、慌てて口に運ぶ。シノは、ナツに悪い奴だと思われて、嫌われたくないのだ。
ごくごくとシロップを飲む細い喉が動くのを見て、ナツは笑った。手持ちの食料が尽きてしまった恐れや不安も、この瞬間だけは、溶けて消えるようだった。
奥の部屋にあったベッドは、布地をすっかり剥ぎ取られていた。恐らく、同じように避難をしてきた誰かが旅路のどこかで使おうと、持って行ってしまったのだろう。
それでも、二人は満足だった。散らばった藁を集め、床板よりも柔らかな場所ができると、その中心に並んで横になった。柔らかな肌をちくちくと藁がくすぐる。それらが刺さり難い体勢を探し、その上、互いに抱きついた。かまどを離れて冷え始めた身体が、こうすれば、自分のものでない体温に巻きついて一つになるような心持ちで、何よりも安心できるのだ。
「今日も、何とかなったな」
止まない雨が、天井を叩く。その音にかき消えそうな声で、ナツはシノに囁いた。
「ここにいた誰か、缶詰食べちまって、怒るかな。この辺、店どころか、家も何もないだろ。きっと貴重な食料だったんだよ。それをさ、どこから来たかもわからねえガキに食われて、腹立てたりしねえかな」
そっと、シノの額に、鼻先を押し付ける。彼がどう応えればいいのか分からず、瞬きを繰り返しているのが感じられる。
ナツは、小さく笑った。
「シノ、これはきっと、悪いことだ。泥棒だぜ。人のものを勝手に取って食ったんだ。わかるよな」
こくりと、胸元でシノが頷いた。
「それならいいよ。あたしらは生きるんだ、悪いことしたって、生き延びるんだ。ただ、この気持ちだけ忘れるなよ。忘れちまったその時には、ほんとに悪い奴になってるんだからな。取り返しのつかない、嘘つきになるんだ。あたしはそんなの嫌だ。シノだって、嫌だろ」
うん、うんとシノが幾度も首を振るのに、ナツは彼の柔らかな髪を梳いてやった。絶対に忘れないと訴えるのが、ナツには聞こえる。
「今日も生きられた。それは、この家と、住んでた誰かがいたからだ。きっと、それさえ覚えていれば、許してもらえる。楽園って場所に行って、悪い奴だからって、門前払いされたらたまんねえからな」
少し頭を引き、白い歯を見せて笑うナツを見上げ、シノもにっこりと笑いかけた。
藁の感触、枯れたにおい。遠く離れた主人の家で、毎晩それに包まれていた夜を思い出す。
だが、あの頃とは確実に違う感覚を抱きしめ、ナツとシノは眠りについた。誰も自分たちを知らない、追わない場所で、誰よりも大事な温もりを全身で感じる。雨音がぱたぱたと屋根を駆け回る音の洪水の中、互いに瞼を閉じた。
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