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8話 森の小屋2
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老人たちは、森を抜けた先の街に住んでいた夫婦だった。自分たちが歳をとり、息子が家を出たのをきっかけに、森の中の一軒家に越し、隠居生活を営んでいた。
その二人に助けられ、ナツとシノは留まることにした。元々行くあてのない旅路である上に、風は冷たさを増し、冬の訪れを伝えていた。飢えに加え、寒さに襲われれば、自分たちの身体などあっという間に壊れてしまうことは、容易に想像できた。
ナツとシノは、囲炉裏の傍に敷かれたひと組の布団で寄り添って眠り、老人たちは隣の部屋で眠る。
ひどく右足をくじき、歩くのが困難なナツは、一日の大半を寝床で過ごし、夜になれば抱きつくシノを抱きしめた。彼の髪に鼻を埋め、痛む体を丸め、そのぬくもりに安堵する。
「シノ……」
薄闇の中、ナツは自分に腕を回すシノの名前を呼ぶ。大きな瞳を開くシノの頭を撫で、布団の中でナツは語りかけた。
「あたし、まだ信じられないんだ……。こんな生活、あたしがしてていいのか……何か、罠じゃないかって、思っちまうんだ」
老人たちは、彼らと同じ食事を与えてくれる。温かく栄養のある食べ物を惜しげなく勧め、体の調子が悪ければ、食べやすいよう味を変えたり煮込んだりしてくれる。それだけでなく、汗をかけば風呂にいれ、夜がふければ温かい布団で寝かせてくれるのだ。冷えの厳しい夜には、甘酒や湯たんぽを貸してくれる。ほんの数日前まで、硬い藁に刺され、眠れない寒さに凍える夜を過ごしていたのが信じられない生活だった。
ナツよりも怪我が軽く済んだシノは、少しずつ彼らの手伝いを始めていた。それに顔をほころばせ、褒めてもくれる。来る日も来る日も罵声を浴びせられ、明け方から深夜にかけて倒れるまで働かされていた生活が、まるで嘘のようだった。
今も、もしも自分たちが悪い奴であれば、寝ている間に金目の物を漁るかもしれないというのに、丸きり警戒する様子はない。初めて与えられる無償の優しさに、ナツの心は戸惑い、身を任せていいのかと思案してしまう。
「……シノは、信じられるのか」
彼が頷けないまま、困ったような顔をするのが月明かりの中に見え、ナツはほうっと息をつく。
「……そうだよな。あんたにも、わかんないよな。こんなの、初めてだもんな」
細い腕でシノの頭を掻き抱く。冬の訪れる寒い夜、ふたりの体温で温もる布団の心地よさに、ナツは身を任せた。
「こんなの、元いた家でさえ、なかったからさ、どうすりゃいいのか分かんねえんだ……。だけど、なんでだろ……疑うのが、すごく嫌なんだ」
すると、頷いてシノは胸に顔をうずめる。彼も同じ気持ちなのだと気がつき、どこか力を抜いて、ナツは目を閉じた。今はこの優しさに包まれていたかった。
少しずつ足の腫れが引いて痛みが治まってくると、ナツも彼らの手伝いを始めた。
元々、働くことを条件に買われたふたりは、嫌な顔ひとつ見せず、文句など思うことすらせずによく働いた。
朝は表にある鶏小屋を掃除し、卵を集め、世話をした。まだ幼く非力なふたりに、斧を担いで薪を割ることは難しかったため、代わりに森の中へ薪を拾いに行った。それぞれ背に籠を担ぎ、途中に生えている茸を取り、兎や狐を捕らえる罠を仕掛けていった。
「外れないなら、せめて見えないようにね」
ナツの髪を梳きながら、老婆はふたりの首輪を覆うように、首にゆるく布を巻いてくれた。ナツには鮮やかな赤色、シノには静かな青色のスカーフを与え、二人が普通の子どもに見えるよう手を施してくれた。その色のおかげで、森の中に入っても、互いの姿は直ぐに見つけられた。
小屋に帰ると、たらいで洗濯をし、水を運び、料理を手伝い、ふたりはくるくるとよく働いた。自分たちが切った食材を口にできるのは、どちらも初めてのことだった。老婆は縫い物を彼らに教え、老爺は森に住む動物のことを教えてくれた。
雨や粉雪が舞う日には、小屋の戸をきっちり閉め、彼らは囲炉裏端で異国の物語を聞かせてくれた。人から伝え聞いたという、幻のような、にわかに信じられない話を口にし、二人が目を丸くするのを見て穏やかに笑う。
「楽園って、なんだ?」
ある時、ひとつの話に聞き覚えのない言葉を耳にし、ナツは呟いた。囲炉裏端で隣に座るシノの顔を覗き込んだが、彼もその実態は知らないらしく、困ったように首を傾げた。
東には楽園がある。そんな老婆の話を理解できず、二人は顔を見合わせる。
「楽園っていうのは、とても幸せな場所のことよ。何の痛みも苦しみもない、誰もが幸福を感じられるところ」
だから、いざとなれば東を目指せばいいのだと、彼女は言う。太陽の昇る方角を目指して進めば、楽園と呼ばれる場所にいつかはたどり着けるのだ。
「どれくらい先にあるのかは、わからないわ。少なくとも、この森や街の先ではないでしょうね」
「誰か、見てきたって人に話を聞いたら」
「戻ってきた人は、聞いたことがないわねえ。一度行けば戻りたくなくなる、そんなところなんでしょう」
それなら、何故「東の楽園」の話が広まっているのか。実際に帰ってきた者がいないのに、現実に存在するとどうして言えるのか。
そんな疑問を、ナツは口にしなかった。彼らの話を疑うという行為に嫌気がさしていたし、彼女自身の心の奥にも、そんな場所があればどんなに良いかと囁く声があったのだ。
行った者が誰ひとり、戻りたいとも思わず、実際に戻ってくることもなかった楽園。痛みも苦しみもない、どこか遠くにある、見知らぬ世界。
「それって、天国じゃないのか」
まるで、この世にあるものじゃない。そう思い呟いたナツの台詞に、シノと反対隣に座っていた老爺が、大きな笑い声を上げた。
「はっはっは。天国か。まさにそうだな。行った者が、誰ひとり帰ってこないんだからな」
「そうねえ」
老婆も口元に片手を当て、納得したように笑う。ナツの横で膝を抱えるシノは、彼女を見上げ、にっこり笑うと体をもたせかけてくる。そうだねと言っているのが、ナツにはわかる。
「天国に限りなく近いが、東の楽園は、きっと、この世のどこかにあるんだ。目指せば、いつかはたどり着ける場所なんだろう」
ふうん、とナツは頷いた。恐らくそこでは、首輪をはめているからといって、追い出されることはないのだろう。それならば、悪くはないとも思う。
ただ、シノの頭を撫でながら、この囲炉裏端よりも暖かいのかと考えれば、それは疑わしいとも感じる。少なくとも、今の自分たちが率先して向かいたいと思う場所ではない。
そうして夜が更けると、大人用のひと組の布団を温かくして寝かせてくれる。そんな彼らのために、怪我を癒しながらふたりは懸命に働いたし、子どもらしい文句を一度も口にしないのに、彼らは幾度も褒めながら頭を撫でてくれた。
その二人に助けられ、ナツとシノは留まることにした。元々行くあてのない旅路である上に、風は冷たさを増し、冬の訪れを伝えていた。飢えに加え、寒さに襲われれば、自分たちの身体などあっという間に壊れてしまうことは、容易に想像できた。
ナツとシノは、囲炉裏の傍に敷かれたひと組の布団で寄り添って眠り、老人たちは隣の部屋で眠る。
ひどく右足をくじき、歩くのが困難なナツは、一日の大半を寝床で過ごし、夜になれば抱きつくシノを抱きしめた。彼の髪に鼻を埋め、痛む体を丸め、そのぬくもりに安堵する。
「シノ……」
薄闇の中、ナツは自分に腕を回すシノの名前を呼ぶ。大きな瞳を開くシノの頭を撫で、布団の中でナツは語りかけた。
「あたし、まだ信じられないんだ……。こんな生活、あたしがしてていいのか……何か、罠じゃないかって、思っちまうんだ」
老人たちは、彼らと同じ食事を与えてくれる。温かく栄養のある食べ物を惜しげなく勧め、体の調子が悪ければ、食べやすいよう味を変えたり煮込んだりしてくれる。それだけでなく、汗をかけば風呂にいれ、夜がふければ温かい布団で寝かせてくれるのだ。冷えの厳しい夜には、甘酒や湯たんぽを貸してくれる。ほんの数日前まで、硬い藁に刺され、眠れない寒さに凍える夜を過ごしていたのが信じられない生活だった。
ナツよりも怪我が軽く済んだシノは、少しずつ彼らの手伝いを始めていた。それに顔をほころばせ、褒めてもくれる。来る日も来る日も罵声を浴びせられ、明け方から深夜にかけて倒れるまで働かされていた生活が、まるで嘘のようだった。
今も、もしも自分たちが悪い奴であれば、寝ている間に金目の物を漁るかもしれないというのに、丸きり警戒する様子はない。初めて与えられる無償の優しさに、ナツの心は戸惑い、身を任せていいのかと思案してしまう。
「……シノは、信じられるのか」
彼が頷けないまま、困ったような顔をするのが月明かりの中に見え、ナツはほうっと息をつく。
「……そうだよな。あんたにも、わかんないよな。こんなの、初めてだもんな」
細い腕でシノの頭を掻き抱く。冬の訪れる寒い夜、ふたりの体温で温もる布団の心地よさに、ナツは身を任せた。
「こんなの、元いた家でさえ、なかったからさ、どうすりゃいいのか分かんねえんだ……。だけど、なんでだろ……疑うのが、すごく嫌なんだ」
すると、頷いてシノは胸に顔をうずめる。彼も同じ気持ちなのだと気がつき、どこか力を抜いて、ナツは目を閉じた。今はこの優しさに包まれていたかった。
少しずつ足の腫れが引いて痛みが治まってくると、ナツも彼らの手伝いを始めた。
元々、働くことを条件に買われたふたりは、嫌な顔ひとつ見せず、文句など思うことすらせずによく働いた。
朝は表にある鶏小屋を掃除し、卵を集め、世話をした。まだ幼く非力なふたりに、斧を担いで薪を割ることは難しかったため、代わりに森の中へ薪を拾いに行った。それぞれ背に籠を担ぎ、途中に生えている茸を取り、兎や狐を捕らえる罠を仕掛けていった。
「外れないなら、せめて見えないようにね」
ナツの髪を梳きながら、老婆はふたりの首輪を覆うように、首にゆるく布を巻いてくれた。ナツには鮮やかな赤色、シノには静かな青色のスカーフを与え、二人が普通の子どもに見えるよう手を施してくれた。その色のおかげで、森の中に入っても、互いの姿は直ぐに見つけられた。
小屋に帰ると、たらいで洗濯をし、水を運び、料理を手伝い、ふたりはくるくるとよく働いた。自分たちが切った食材を口にできるのは、どちらも初めてのことだった。老婆は縫い物を彼らに教え、老爺は森に住む動物のことを教えてくれた。
雨や粉雪が舞う日には、小屋の戸をきっちり閉め、彼らは囲炉裏端で異国の物語を聞かせてくれた。人から伝え聞いたという、幻のような、にわかに信じられない話を口にし、二人が目を丸くするのを見て穏やかに笑う。
「楽園って、なんだ?」
ある時、ひとつの話に聞き覚えのない言葉を耳にし、ナツは呟いた。囲炉裏端で隣に座るシノの顔を覗き込んだが、彼もその実態は知らないらしく、困ったように首を傾げた。
東には楽園がある。そんな老婆の話を理解できず、二人は顔を見合わせる。
「楽園っていうのは、とても幸せな場所のことよ。何の痛みも苦しみもない、誰もが幸福を感じられるところ」
だから、いざとなれば東を目指せばいいのだと、彼女は言う。太陽の昇る方角を目指して進めば、楽園と呼ばれる場所にいつかはたどり着けるのだ。
「どれくらい先にあるのかは、わからないわ。少なくとも、この森や街の先ではないでしょうね」
「誰か、見てきたって人に話を聞いたら」
「戻ってきた人は、聞いたことがないわねえ。一度行けば戻りたくなくなる、そんなところなんでしょう」
それなら、何故「東の楽園」の話が広まっているのか。実際に帰ってきた者がいないのに、現実に存在するとどうして言えるのか。
そんな疑問を、ナツは口にしなかった。彼らの話を疑うという行為に嫌気がさしていたし、彼女自身の心の奥にも、そんな場所があればどんなに良いかと囁く声があったのだ。
行った者が誰ひとり、戻りたいとも思わず、実際に戻ってくることもなかった楽園。痛みも苦しみもない、どこか遠くにある、見知らぬ世界。
「それって、天国じゃないのか」
まるで、この世にあるものじゃない。そう思い呟いたナツの台詞に、シノと反対隣に座っていた老爺が、大きな笑い声を上げた。
「はっはっは。天国か。まさにそうだな。行った者が、誰ひとり帰ってこないんだからな」
「そうねえ」
老婆も口元に片手を当て、納得したように笑う。ナツの横で膝を抱えるシノは、彼女を見上げ、にっこり笑うと体をもたせかけてくる。そうだねと言っているのが、ナツにはわかる。
「天国に限りなく近いが、東の楽園は、きっと、この世のどこかにあるんだ。目指せば、いつかはたどり着ける場所なんだろう」
ふうん、とナツは頷いた。恐らくそこでは、首輪をはめているからといって、追い出されることはないのだろう。それならば、悪くはないとも思う。
ただ、シノの頭を撫でながら、この囲炉裏端よりも暖かいのかと考えれば、それは疑わしいとも感じる。少なくとも、今の自分たちが率先して向かいたいと思う場所ではない。
そうして夜が更けると、大人用のひと組の布団を温かくして寝かせてくれる。そんな彼らのために、怪我を癒しながらふたりは懸命に働いたし、子どもらしい文句を一度も口にしないのに、彼らは幾度も褒めながら頭を撫でてくれた。
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