ナツとシノ

柴野日向

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2話 奴隷2

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 奴隷である彼らは、朝は日が昇ると共に起床し、夜は主人から下人までが床に就くまで働き続けなければならなかった。
 一代で財を成した主人と妻、その両親や息子娘たちと直接言葉を交わす役目は、男女含めて二十をくだらない数の下人達のものだった。主人一家に汚い奴隷の姿をそうそう近づけるわけにはいかないのだ。彼らは下人たちのさらに下働きだった。朝と夕の二回の食事を除き、屋根の下に入ることなく田畑を耕し、自分たちの分ではない炊事や洗濯に明け暮れた。彼らの役割は二つ、一つは季節を顧みない過酷な労働であり、もう一つは人々の憂さ晴らしへ身を落とすという、重要な役割だった。
 主人一家だけではなく、下人達の常日頃の鬱憤を晴らすべく、彼らはひどい差別と暴力に身を晒された。そういった点ではどの家も似たような境遇だった。下人の中には、何らかの才覚を認められれば主人の養子として拾われる場合もあったが、最底辺に位置づく彼らは人とも成りえず、生涯外れることのない首輪を嵌めたまま泥濘を這うしかない。
 中でもナツやシノが買われた家はひどいもので、既に何十人もの奴隷が命を落としていた。敷地の隅に鎮座する、元は家畜を飼っていた粗末な小屋が、彼らの寝場所だった。そこに居た鶏たちは、母屋のそばに建てられた真新しい小屋に移っていった。
 寒風の中で凍え死んだ者もいれば、殴られて血を吐き死んだ者も数しれず、二人のような子どもであれど、瞳の光を失い諦観を心に宿して生きる他ないのだった。
 み月前に幼い約束を交わした後も、彼らが言葉を交じえ隣にいることは滅多になく、そんな時間も存在しなかった。
 だがある晩、他の者たちが粗末な食事を与えられている間、ナツは離れの食堂を抜け出して、広い庭の隅にある小屋に潜り込んだ。奴隷たちが雑魚寝するだけの小屋には、板張りの壁の隙間から薄い月明かりが差し込んでいる。その月光が、隅で小さく丸くなり転がっているシノの姿を、敷かれた藁の上にうっすらと浮かび上がらせていた。
「シノ……」
 くすんだ群青色の汚れた布に包まれた細い体は、ぴくりともしない。
 周囲に立てかけてある鍬や鋤が影を落とす中、ナツは痩せた裸足を彼の枕元に立たせ、そっと膝を折って顔を覗き込んだ。顔に掛かる髪を傷だらけの手でかきあげてやると、ようやっと、シノは腫れた瞼を重く開く。
「生きてるよな……」
 非道い主人が労働の免除を許すほど、シノはぼろぼろにされていた。元々の幼く可愛らしい表情を思い出せないほど顔は腫れ、首と首輪の隙間には、手で絞められた痕が赤黒く残っていた。その口元に転がっている白いものを指でつまみ、目を凝らして、それが彼の歯であることにナツは気がついた。彼の口元には溢れた血がこびりつき、何度もそれを拭った腕は血の赤と内出血の青が入り混じり不気味な色を浮かべている。その上、これまで奴隷を介抱してきたナツは、シノの痩せた背が幾度も鞭で打たれたことを察した。皮の剥けた血まみれの背中では、痛みがひどいのだろう。仰向けになれない彼は横を向いたまま、手足をかき抱いて、まるで石の下にいる虫のようにひっそりと呼吸をするだけだった。
「旦那様、あたしじゃなくて、医者なんて呼んで診せたって話だから……あたしらに医者なんて、それこそ普通じゃないからさ、死ぬんじゃないかと思ったんだよ。まだ生きてるよな。死んだりしないよな」
 ナツは、膝をついて耳元で確かめるように呟き、安堵のため息をついた。冷たい手を顔に当ててやると、それがひんやりして心地よいのか、シノは真っ黒な目を細めて緩慢にナツを見上げる。シノの瞳は、奥深く、漆黒を孕んでいる。黒の対流しているような、闇とも異なる美しい黒色を、ナツは彼の瞳以外に見たことがなかった。泣いているわけではないのに水の膜が張っているかのような瞳は、薄い月明かりを受けて純粋に光っている。
「何も食べてないんだろ。食べられないよな。あたし、今朝の分隠しておいたんだ」
 手のひらに乗る小さなパンを懐から取り出して、ナツは小さな声でシノの耳に囁く。誰かに見つかるわけにはいかないのだ。彼らは勝手な行動が見つかれば、その場で首が刎ねられてもおかしくない立場だった。
「……口ん中、切れてんだろ。噛めないか……」
 しかし、口元に持っていったパンを、シノは前歯で軽く食んだだけでぽろりとこぼしてしまう。医者に診せたと言えどろくな手当などされず、今すぐ死なないという判断をされたのみだ。咀嚼する力がなければ、このまま傷を治せずに死ぬか、飢えに殺されてしまうだけだった。
「待ってろ。食わせてやるから」
 手に持ったそれを奥歯で噛み、乱暴に千切った。バリ、と硬い音を立てるそれを幾度も噛み締め、柔らかくし、ナツはそっとシノの額と顎に手を当てる。促されるまま小さく開いた彼の口に、口をつけた。
 ゆっくりと舌で押し込んでやると、シノはなんとか口を動かして、それを飲み込んだ。ナツの舌に鉄臭い血の味が広がり、熱があるのか高いシノの体温が感じられる。
 小さなパンをさらに小さく分け、ナツは口移しで彼に食べさせてやる。それは厭らしさなど感じさせない、むしろ動物の親が子を生かすための愛情にあふれた行為に似通っていた。懸命に喉を動かすシノは、まだ生きていたいと言葉もなく訴えているようで、ナツは細い両腕で彼の頭を抱きしめ、その願いを叶えてやる。
「あんた、あたしの弟なんだから、勝手に死ぬんじゃないよ。年下なんだから、あたしより先に死ぬなんて許さないからな。分かったな」
 全てを食べさせてやり、空腹を抱えた少女は、厳しい口調で優しい言葉を囁く。少年は声を返せなくとも、手元にたれた彼女の袖を指先でそっと握った。頬を微かに緩める少女が頭に頭を寄せると、縋るように首を振って目を閉じた。
「……でも、こんなの、死んじゃうよな」
 悲しい言葉は誰にも届かず、照らされる薄闇の小屋の中で静かに響いていた。
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