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11章 記憶
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それでも彼女への訪問を欠かさない生徒が一人いた。
同じ手芸部員だったという五十川修は、毎週末、電車を乗り継いで彼女を見舞った。
「榎本さん、調子はどう」
年末、彼は今年最後の土曜日にも病室を訪れた。
「ご飯は、食べられるようになった?」
「うん。少しずつだけど、食べられるようになってきたよ」
「それはよかった」彼は心底ほっとしたようだった。「食べないと、人間元気にならないからね」
彼は他の友人たちとは違い、積極的に彼女の記憶を取り戻そうとした。学校での思い出をたくさん語り、少しでも彼女の記憶に引っかかりがないかを探り、これが駄目ならあれ、あれが駄目ならこれと様々な話をした。
「ごめん、疲れちゃったかな」
「ううん。そんなことはないけど」脇のパイプ椅子で心配そうにする彼に、ベッド上に座る彼女は目を伏せる。
「ごめんなさい。五十川くんのことも、思い出せなくて」
「俺のことなんかいいって。それより……」そう言いながら彼も口をつぐむ。
沈黙が病室を満たす。年明けには大部屋に移る予定だが、今は二人しかいない個室だ。院内のざわめきが遠く、気の重い静寂が沈む。床頭台のデジタル時計は、秒針の音も立ててくれない。
「……私、薄情だよね」
「榎本さんは悪くないよ」
見舞いに来た友人の誰もが、凛にはとても大切な人がいたのだと言った。まず思い出すなら彼のことだと、皆が口を揃えた。凛は友人を大事にしたが、それよりも一途に愛する人がいたのだと。
中学時代の高校見学の時から一緒だった。青南高校に入ってクラスが違っても、いつもそばにいた。一年生の誰もが知っているほど仲良しだった。並んで弁当を食べ、図書室で勉強し、部活がない日は共に駅まで歩いた。彼の隣に居る凛はなにより幸せそうだったと、誰もが証言した。どんな友人と一緒にいる時よりも、嬉しくて仕方がない笑顔だった。彼女は真っ直ぐに彼を愛していたし、彼も凛を大切にしていた。
――らしい。
「雨宮翔太……」
何度も聞かされて覚えた名前を、凛は口の中で呟く。思い出したのではなく、覚えた名前。今となっては彼のことを何と呼んでいたのかも思い出せない。雨宮くん? 翔太くん? それとも呼び捨て? 彼が自分を何と呼んでいたのかも、分からない。名前も顔も、なにひとつ浮かんでこない。背はどれぐらい? 髪型は? 雰囲気は?
「……もう、学校に来てないんだよね」
「来てないよ、あいつ」五十川は困ったように笑った。「どこ行ったんだろうな」
彼は凛が事故に遭う数週間前から、学校に来なくなっていた。今はもう、友人や担任が電話をかけても、その番号自体が使えなくなっているそうだ。彼は今時の高校生にしては珍しく自分用のスマートフォンを持っていなかったから、その時点で誰も連絡を取れなくなってしまった。
五十川は、担任から聞き出した彼の住所にも向かったらしい。だが既に一度訪問していた担任の言う通り、彼の住んでいたはずの部屋はもぬけの殻になっていた。いや、それは少し違う。部屋には貴重品を除き、食器も布団も家電製品も、そのままに残っていた。まるで人間だけがひょっこりいなくなった部屋だった。
「夜逃げ、だっけ……」
「じゃないかって管理人は言ってた」
行方を示唆する書置きもないが、誰かと争った形跡もないことから、警察にも事件性は薄いとされた。むしろ彼と一緒に暮らしていた伯母が愛人の家から金を盗み逃げたのだと、近所では噂されている。その伯母も行方をくらましていることから、「夜逃げ」という説が有力視されていた。
とにかく、雨宮翔太は、消えてしまった。
「いいやつだったのに。勉強できたし、友だちだっていたし。逃げなくても、あいつ一人ならきっとどうにかなったのにな」五十川は悔しそうだ。「こんな消え方しなくてもいいのに」彼にとっても、雨宮翔太は大事な友人だったのだ。
「俺、思ったんだ」彼はぽつりと呟く。
「思ったって、何を?」
「もしかしたら、榎本さんはさ……」
だがそこまで言いかけて五十川は黙り込み、凛も項垂れた。
「……そう、だったのかな」
皆が言うほど彼を愛していたのなら、きっと彼と一緒にいることを自分は望んだだろう。だからあの日、彼と共に逃げるために家を出たのだ。
「もしかして、私……」
それなら自分は、彼を裏切ったのだ。
「やめよう。ごめん、こんな話して」慌てて五十川は立ち上がる。「それだったらさ、あいつも見舞いに来るはずだよ。翔太が榎本さんのこと恨むはずなんてないから、それより会いたくて連絡してくるはずだって。今はきっと余裕がないんだよ。待ってりゃ向こうから何か言ってくる」
凛の顔からは一層血の気が引いていて、だから五十川はこれ以上話ができなかった。姿を消す数日前から翔太の様子がおかしかったことも、二人が共に弁当を食べるのをやめてしまった違和感も、話すわけにはいかなかった。ただでさえ身体を壊している凛は、自分の思い出せない大きな責任があるのではと思い悩み、苦しんでしまう。
だが彼女は「ありがとう」と笑った。
「教えてくれて嬉しいよ。それだけ誰かを愛して愛されてたっていうことを知られてよかった。私と一緒にいた人がそんなにいい人だったなんて、それだけで嬉しい」
「……あいつ、馬鹿だな。こんな彼女がいるのに、出てこないなんて」
少しだけ話をして、やがて五十川は帰っていった。また年が明けたら見舞いに来ると約束し、互いに身体に気を付けるようにと言い合った。窓の外では雪が降っている。凛がこの町で経験する、二度目で最後の冬だった。
同じ手芸部員だったという五十川修は、毎週末、電車を乗り継いで彼女を見舞った。
「榎本さん、調子はどう」
年末、彼は今年最後の土曜日にも病室を訪れた。
「ご飯は、食べられるようになった?」
「うん。少しずつだけど、食べられるようになってきたよ」
「それはよかった」彼は心底ほっとしたようだった。「食べないと、人間元気にならないからね」
彼は他の友人たちとは違い、積極的に彼女の記憶を取り戻そうとした。学校での思い出をたくさん語り、少しでも彼女の記憶に引っかかりがないかを探り、これが駄目ならあれ、あれが駄目ならこれと様々な話をした。
「ごめん、疲れちゃったかな」
「ううん。そんなことはないけど」脇のパイプ椅子で心配そうにする彼に、ベッド上に座る彼女は目を伏せる。
「ごめんなさい。五十川くんのことも、思い出せなくて」
「俺のことなんかいいって。それより……」そう言いながら彼も口をつぐむ。
沈黙が病室を満たす。年明けには大部屋に移る予定だが、今は二人しかいない個室だ。院内のざわめきが遠く、気の重い静寂が沈む。床頭台のデジタル時計は、秒針の音も立ててくれない。
「……私、薄情だよね」
「榎本さんは悪くないよ」
見舞いに来た友人の誰もが、凛にはとても大切な人がいたのだと言った。まず思い出すなら彼のことだと、皆が口を揃えた。凛は友人を大事にしたが、それよりも一途に愛する人がいたのだと。
中学時代の高校見学の時から一緒だった。青南高校に入ってクラスが違っても、いつもそばにいた。一年生の誰もが知っているほど仲良しだった。並んで弁当を食べ、図書室で勉強し、部活がない日は共に駅まで歩いた。彼の隣に居る凛はなにより幸せそうだったと、誰もが証言した。どんな友人と一緒にいる時よりも、嬉しくて仕方がない笑顔だった。彼女は真っ直ぐに彼を愛していたし、彼も凛を大切にしていた。
――らしい。
「雨宮翔太……」
何度も聞かされて覚えた名前を、凛は口の中で呟く。思い出したのではなく、覚えた名前。今となっては彼のことを何と呼んでいたのかも思い出せない。雨宮くん? 翔太くん? それとも呼び捨て? 彼が自分を何と呼んでいたのかも、分からない。名前も顔も、なにひとつ浮かんでこない。背はどれぐらい? 髪型は? 雰囲気は?
「……もう、学校に来てないんだよね」
「来てないよ、あいつ」五十川は困ったように笑った。「どこ行ったんだろうな」
彼は凛が事故に遭う数週間前から、学校に来なくなっていた。今はもう、友人や担任が電話をかけても、その番号自体が使えなくなっているそうだ。彼は今時の高校生にしては珍しく自分用のスマートフォンを持っていなかったから、その時点で誰も連絡を取れなくなってしまった。
五十川は、担任から聞き出した彼の住所にも向かったらしい。だが既に一度訪問していた担任の言う通り、彼の住んでいたはずの部屋はもぬけの殻になっていた。いや、それは少し違う。部屋には貴重品を除き、食器も布団も家電製品も、そのままに残っていた。まるで人間だけがひょっこりいなくなった部屋だった。
「夜逃げ、だっけ……」
「じゃないかって管理人は言ってた」
行方を示唆する書置きもないが、誰かと争った形跡もないことから、警察にも事件性は薄いとされた。むしろ彼と一緒に暮らしていた伯母が愛人の家から金を盗み逃げたのだと、近所では噂されている。その伯母も行方をくらましていることから、「夜逃げ」という説が有力視されていた。
とにかく、雨宮翔太は、消えてしまった。
「いいやつだったのに。勉強できたし、友だちだっていたし。逃げなくても、あいつ一人ならきっとどうにかなったのにな」五十川は悔しそうだ。「こんな消え方しなくてもいいのに」彼にとっても、雨宮翔太は大事な友人だったのだ。
「俺、思ったんだ」彼はぽつりと呟く。
「思ったって、何を?」
「もしかしたら、榎本さんはさ……」
だがそこまで言いかけて五十川は黙り込み、凛も項垂れた。
「……そう、だったのかな」
皆が言うほど彼を愛していたのなら、きっと彼と一緒にいることを自分は望んだだろう。だからあの日、彼と共に逃げるために家を出たのだ。
「もしかして、私……」
それなら自分は、彼を裏切ったのだ。
「やめよう。ごめん、こんな話して」慌てて五十川は立ち上がる。「それだったらさ、あいつも見舞いに来るはずだよ。翔太が榎本さんのこと恨むはずなんてないから、それより会いたくて連絡してくるはずだって。今はきっと余裕がないんだよ。待ってりゃ向こうから何か言ってくる」
凛の顔からは一層血の気が引いていて、だから五十川はこれ以上話ができなかった。姿を消す数日前から翔太の様子がおかしかったことも、二人が共に弁当を食べるのをやめてしまった違和感も、話すわけにはいかなかった。ただでさえ身体を壊している凛は、自分の思い出せない大きな責任があるのではと思い悩み、苦しんでしまう。
だが彼女は「ありがとう」と笑った。
「教えてくれて嬉しいよ。それだけ誰かを愛して愛されてたっていうことを知られてよかった。私と一緒にいた人がそんなにいい人だったなんて、それだけで嬉しい」
「……あいつ、馬鹿だな。こんな彼女がいるのに、出てこないなんて」
少しだけ話をして、やがて五十川は帰っていった。また年が明けたら見舞いに来ると約束し、互いに身体に気を付けるようにと言い合った。窓の外では雪が降っている。凛がこの町で経験する、二度目で最後の冬だった。
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