63 / 80
10章 約束
2
しおりを挟む
いよいよつまみ出されるのだろうか。家まで誰かがやって来るのはそういうことだろう。
だが、怖いという気持ちはない。なるようになれ。どうにもならないなら、それまでだ。部屋のチャイムが鳴った時、翔太はぼんやりそう思った。
だるく重い身体を持ち上げ、目を擦りながら玄関に向かう。いつの間にか外はすっかり暗くなっていて、空気は随分と冷えていた。靴につま先を引っ掛け、鍵をひねる。ゆっくりとドアを押し開けた。
驚きに、翔太はぽかんと口を開けた。同時に、自分はまだ夢を見ているのだと思ったが、頬に触れる風は冷たく現実的だった。
「悦っちゃんに聞いたの。この場所」
制服姿の凛が、廊下に立っている。
「入れて」
思いつめた顔で、きっぱりと彼女は言った。
「どうして……」
「話があるの」
「俺はないよ」
「私があるの」彼女はじっと翔太を見つめている。「お願い、聞いて」
半ば強引に、凛はドアを開けて部屋に入る。彼女の剣幕に押される翔太が部屋の奥に後ずさると、強張った表情の彼女があたりを見回しながら後に続く。
カップラーメンの容器、ビールの空き缶、吸い殻の溜まった灰皿。そんなもので溢れるテーブル。床は埃っぽい。灰色のキッチンを通り過ぎ襖を開けて自室に入ると、翔太は敷きっぱなしの布団を蹴とばしてスペースを開けた。そんな彼を見ながら、凛は畳に正座をする。
「……痩せたね」
彼女は微笑んだ。あまりに悲しそうなその表情を、翔太は立ったまま見下ろす。
「空っぽなんだよ」
音がしそうなほど、身体が軽い。動く度に、骨や内臓がからからと音を立てそうだ。
「……わかるよ」
「知ったかぶりするなよ」
「翔太……」
冷たく見下ろす彼を見つめ、彼女は両手をつき深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」彼女の謝罪は、まるで悲鳴のようだった。
「……謝らないでよ」翔太は苦く呻く。
「ごめんなさい。たくさん奪って、傷つけてしまって。あなたの人生を辛いものにしてしまって、本当にごめんなさい」
こんなの違う。そう思う翔太の目の前で、彼女は額を畳に擦り付ける。
「全部、私たち家族のせいなの。お父さんがおかしくなったのは、私たちが負担だったからなの」これは、彼女の懺悔だ。「私がもっといい子だったらよかった。私がいなければ、きっとお父さんはあんなことをしなかった。あなたの家族を壊す真似なんて、しなかった。あなたの身体を傷つけたりもしなかった……!」
「やめてよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい……ごめんなさい」
「やめてってば」
「ごめんなさい。許してなんて、言いません。ごめんなさい、本当に……」
「凛!」
翔太は膝を折った。懸命に彼女が堪える嗚咽を聞いた。それでも彼女は「ごめんなさい」と壊れたように小声で謝り続けている。
「ごめんなさい……私のせいなんです。ごめんなさい」
いつも元気で、優しい凛。だがこれが、本当の彼女の姿なのだ。殺人犯の娘という業を細い肩に負い、重すぎる責任を感じて周囲に謝罪し続ける、孤独な女の子。死刑を免れた父親と、自分を捨てて逃げた母親に代わり、たった一人残された彼女は謝り続けている。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい」
私はね、山吹なの。夏に海岸で聞いた彼女の台詞を、翔太は思い出した。花が咲いても、実のならない徒花。花など見せかけだと悲しそうに言っていた。しかし、罪の重さに苦しむ少女は、それでも必死に眩しい花を咲かせてきた。もう一度前を向こうと懸命に足掻き、家族の分も他人を思いやって精いっぱい生きてきた。
――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
どれだけ孤独だったろう。どれほどの涙を流し、寂しさに押しつぶされ、絶望の夜を越えたのだろう。この小さな身体で。空っぽの身体で――。
胸が詰まり、息が苦しくなる。「凛……」愛しい名前を、優しく呼ぶ。
震える肩に両手をやり、そっと上を向かせた。涙にぬれた顔、泣き腫らした両目。それを見ると、何かが弾けた。
両腕で、翔太はしっかりと凛を抱きしめた。嗚咽を漏らして震える細い身体が二度と離れないよう、両腕に力をこめる。
「凛のせいじゃない」
その声が濡れてしまう。
「俺たちは、何も悪くない」
躊躇う凛の両手が背に触れる。細い両腕は、やがて翔太を強く抱きしめた。
涙を流し、翔太と凛は抱き合った。ただただ繋がりたい相手を求め、泣き続けた。
やっぱり好きだ。どうしても大好きだ。泣きながら、翔太はようやくその感情を理解した。誰が何と言おうと、離れたくない。いつまでも凛と一緒にいたい。この繋がりだけは、手放したくない。
互いにしゃくり上げながら、少しだけ顔を離す。
「俺、もう何もないんだ」向かい合う凛の瞳が、涙できらきらと光っている。「バイト、クビになって、学校にも行けなくなった。伯母さんも逃げたから、この部屋も出て行かないといけない。全部が切れたんだよ」
辛い。辛い。ずっと辛くてたまらない。本当は、誰かと繋がっていたい。ひとりぼっちは、とても怖い。
そんな彼の弱音を、彼女は全て受け止めた。
「大丈夫だよ」小さな両手が、そっと翔太の頬を包む。
「まだ、私がいるよ。私はずっと、翔太の味方だよ」
翔太は嗚咽の隙間で「ありがとう」と言った。もう少しだけ、涙がこぼれた。
だが、怖いという気持ちはない。なるようになれ。どうにもならないなら、それまでだ。部屋のチャイムが鳴った時、翔太はぼんやりそう思った。
だるく重い身体を持ち上げ、目を擦りながら玄関に向かう。いつの間にか外はすっかり暗くなっていて、空気は随分と冷えていた。靴につま先を引っ掛け、鍵をひねる。ゆっくりとドアを押し開けた。
驚きに、翔太はぽかんと口を開けた。同時に、自分はまだ夢を見ているのだと思ったが、頬に触れる風は冷たく現実的だった。
「悦っちゃんに聞いたの。この場所」
制服姿の凛が、廊下に立っている。
「入れて」
思いつめた顔で、きっぱりと彼女は言った。
「どうして……」
「話があるの」
「俺はないよ」
「私があるの」彼女はじっと翔太を見つめている。「お願い、聞いて」
半ば強引に、凛はドアを開けて部屋に入る。彼女の剣幕に押される翔太が部屋の奥に後ずさると、強張った表情の彼女があたりを見回しながら後に続く。
カップラーメンの容器、ビールの空き缶、吸い殻の溜まった灰皿。そんなもので溢れるテーブル。床は埃っぽい。灰色のキッチンを通り過ぎ襖を開けて自室に入ると、翔太は敷きっぱなしの布団を蹴とばしてスペースを開けた。そんな彼を見ながら、凛は畳に正座をする。
「……痩せたね」
彼女は微笑んだ。あまりに悲しそうなその表情を、翔太は立ったまま見下ろす。
「空っぽなんだよ」
音がしそうなほど、身体が軽い。動く度に、骨や内臓がからからと音を立てそうだ。
「……わかるよ」
「知ったかぶりするなよ」
「翔太……」
冷たく見下ろす彼を見つめ、彼女は両手をつき深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」彼女の謝罪は、まるで悲鳴のようだった。
「……謝らないでよ」翔太は苦く呻く。
「ごめんなさい。たくさん奪って、傷つけてしまって。あなたの人生を辛いものにしてしまって、本当にごめんなさい」
こんなの違う。そう思う翔太の目の前で、彼女は額を畳に擦り付ける。
「全部、私たち家族のせいなの。お父さんがおかしくなったのは、私たちが負担だったからなの」これは、彼女の懺悔だ。「私がもっといい子だったらよかった。私がいなければ、きっとお父さんはあんなことをしなかった。あなたの家族を壊す真似なんて、しなかった。あなたの身体を傷つけたりもしなかった……!」
「やめてよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい……ごめんなさい」
「やめてってば」
「ごめんなさい。許してなんて、言いません。ごめんなさい、本当に……」
「凛!」
翔太は膝を折った。懸命に彼女が堪える嗚咽を聞いた。それでも彼女は「ごめんなさい」と壊れたように小声で謝り続けている。
「ごめんなさい……私のせいなんです。ごめんなさい」
いつも元気で、優しい凛。だがこれが、本当の彼女の姿なのだ。殺人犯の娘という業を細い肩に負い、重すぎる責任を感じて周囲に謝罪し続ける、孤独な女の子。死刑を免れた父親と、自分を捨てて逃げた母親に代わり、たった一人残された彼女は謝り続けている。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい」
私はね、山吹なの。夏に海岸で聞いた彼女の台詞を、翔太は思い出した。花が咲いても、実のならない徒花。花など見せかけだと悲しそうに言っていた。しかし、罪の重さに苦しむ少女は、それでも必死に眩しい花を咲かせてきた。もう一度前を向こうと懸命に足掻き、家族の分も他人を思いやって精いっぱい生きてきた。
――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
どれだけ孤独だったろう。どれほどの涙を流し、寂しさに押しつぶされ、絶望の夜を越えたのだろう。この小さな身体で。空っぽの身体で――。
胸が詰まり、息が苦しくなる。「凛……」愛しい名前を、優しく呼ぶ。
震える肩に両手をやり、そっと上を向かせた。涙にぬれた顔、泣き腫らした両目。それを見ると、何かが弾けた。
両腕で、翔太はしっかりと凛を抱きしめた。嗚咽を漏らして震える細い身体が二度と離れないよう、両腕に力をこめる。
「凛のせいじゃない」
その声が濡れてしまう。
「俺たちは、何も悪くない」
躊躇う凛の両手が背に触れる。細い両腕は、やがて翔太を強く抱きしめた。
涙を流し、翔太と凛は抱き合った。ただただ繋がりたい相手を求め、泣き続けた。
やっぱり好きだ。どうしても大好きだ。泣きながら、翔太はようやくその感情を理解した。誰が何と言おうと、離れたくない。いつまでも凛と一緒にいたい。この繋がりだけは、手放したくない。
互いにしゃくり上げながら、少しだけ顔を離す。
「俺、もう何もないんだ」向かい合う凛の瞳が、涙できらきらと光っている。「バイト、クビになって、学校にも行けなくなった。伯母さんも逃げたから、この部屋も出て行かないといけない。全部が切れたんだよ」
辛い。辛い。ずっと辛くてたまらない。本当は、誰かと繋がっていたい。ひとりぼっちは、とても怖い。
そんな彼の弱音を、彼女は全て受け止めた。
「大丈夫だよ」小さな両手が、そっと翔太の頬を包む。
「まだ、私がいるよ。私はずっと、翔太の味方だよ」
翔太は嗚咽の隙間で「ありがとう」と言った。もう少しだけ、涙がこぼれた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤマネ姫の幸福論
ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。
一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。
彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。
しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。
主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます!
どうぞ、よろしくお願いいたします!
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

金字塔の夏
阿波野治
ライト文芸
中学一年生のナツキは、一学期の終業式があった日の放課後、駅ビルの屋上から眺めた景色の中に一基のピラミッドを発見する。親友のチグサとともにピラミッドを見に行くことにしたが、様々な困難が二人の前に立ちはだかる。
美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness
碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞>
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。
最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――?
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。
過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。
恋と呼べなくても
Cahier
ライト文芸
高校三年の春をむかえた直(ナオ)は、男子学生にキスをされ発作をおこしてしまう。彼女を助けたのは、教育実習生の真(マコト)だった。直は、真に強い恋心を抱いて追いかけるが…… 地味で真面目な彼の本当の姿は、銀髪で冷徹な口調をふるうまるで別人だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる