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1章 雨宿りはいらない
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校門を出て十メートルぐらい塀に沿ったあたりに、旭はいた。私が息を切らして走ってくるのに、驚いた顔を見せた。
「そんな走ってこんでもええのに」
はあはあと呼吸をする私を見て、困惑している。私は絶対に後ろを振り向かない。振り向くなんて出来やしない。ほんの少しだけ息を整えてから、さっさと歩き出した。旭は怪訝な顔をしつつもついてくる。
「なんで来たの」
「そんな嫌やったんか」
「いいから!」
思わず語気を強めてしまう。学校から少し離れた頃、黙っていた彼は自分の鞄に手を入れて、その手を私の前で開いた。
「これ、昨日図書館に忘れとったから。宝物なんやろ」
彼の右手に乗っているのは、月と星のキーホルダー。
「図書館にあったの?」
「床に落ちとるんを見つけたんや。誰かに踏まれでもしたら壊れるかもしれんし、今日渡そうと思た」
大事なキーホルダーがなくなっているのに気付いたのは、昨日、早めに帰宅して飼い犬の散歩を終えてからだった。すっかり日が暮れていたから道を辿るのは無理があったし、きっと放課後に寄った図書館だとも思った。とっくに閉館時間だったから、翌日の放課後に職員さんに尋ねようと思っていたんだ。
「ありがとう……」旭の手から受け取って、どこか壊れていないか確認する。手作りの月と星は、最後に見た時と同じ姿で、大きな傷が入った様子もない。ただ、チェーンが切れてしまっているだけ。
「それなら、連絡してくれたらよかったのに」
「俺も渡そう思て鞄に入れてから、昨日はそのまま忘れとったんや。それで今日の昼に思い出して連絡したんやけど、見てへんかったやろ」
はっとして、鞄からスマホを出してみる。約一時間ずつおいて、旭から数回メッセージが届いていた。でも今日の昼休みは友だちとのお喋りが盛り上がっていて、放課後も結々と談笑していたから、そもそもスマホを確認していなかった。
「今日は、俺、図書館行く予定なかったんやけど。途中に桜浜があるから、寄ってみたんや」
「もしかして、みんなに声かけてたの」
「いや、そんなことせえへん。一年っぽい生徒にちょっと声かけて、無理やったら諦めるつもりやった」
「それでも、よく辿り着いたね。誰が一年生かなんて分からないのに」
見た目で知らない人の学年を推し量れるものだろうか。私は首をひねる。
「二人組の女子が外から帰ってきてて、片方が先輩って呼んでたから、多分呼んだ方は一年やと思たんや。放課後の部活中やろうし、三年は引退しとる可能性があるやろ。それなら先輩は二年で、もう一人は一年やろうなと思った。制服やから文化部やろうし、梓に近い人間やと考えたんや」
「へー……」
私はそんな間抜けな返事しかできなかった。一瞬で推察して一年生を見つけるなんて、やっぱり西ノ浦に入ったのは運なんかじゃないじゃんか。そして彼の思惑通り、声をかけられた生徒は私の同級生だった。彼女が、凡人の私の知り合いだったのは運だけど。
「……悪かったな」
言葉通りばつの悪い顔で、旭は謝る。
「いや、そういうつもりはなかったんやけど……なんか言われたりしたんやろ」
「え、いや、あの」
彼が私を探していた事情を知ると、怒る気になんてなれるわけがない。
「あ、旭は、私に早く届けようとしてくれただけなんだよね」キーホルダーを乗せた手のひらを突き出す。
「探しとったらあかんしな」
「それなら、謝ることないよ! 私こそごめん。届けてくれてありがとう」
これが私の宝物だと知っていて、だからこそ一刻も早く届けようとわざわざ手渡してくれた。その気持ちが素直に嬉しくて笑いかけると、やっと旭も安心したみたいだった。今度は失くさないよう、鞄にしっかりキーホルダーをしまう。
「……それで、こっち帰り道なんか」
勢いのまま歩いている方向は、いつもの図書館とは真逆だった。
「ううん……つい、学校から離れたくて。旭はこっちの方角なの」
「俺はこっちや。駅から電車に乗る」
「どこか行くの」
足を止めて、旭は少し考える素振りを見せる。私は黙って返事を待つ。
「先生のとこや」
「先生って、旭に訓練してくれてるっていう人?」
「そうや。特に用があるわけやないけど、たまに会いに行くんや。七瀬も来るか?」
思わぬ誘いに、私はすぐさま返事ができない。
「別に、用事があれば無理にとは言わんで」
「用事なんかはないけど……」
一緒に金星を見上げた日から、私たちは図書館を出てわかば公園で話をすることも増えた。ぷちも含めて、借りてきた本を見せ合ったり、世間話をしたり。図書館ではそれなりに声量に気を遣っていたから、自由に笑い声をあげられる時間は楽しくて、私は気に入っていた。
でも、ろくに男友だちもいない私は、ちょっとした誘いにも戸惑ってしまう。こんな時、小夏ちゃんみたいに「行く行くー」なんて言えたら、ずっと可愛げがあるのに。
「ええよ、俺も思い付きで言うただけやし」
そう言って背後を振り返る旭。それなら今日はここでお別れ。そういう素振り。
「ううん、ついてく」
「いや、ええってば」
「帰ってもなんにも用事ないし、茶太郎の散歩当番でもないし、その、課題もそんなに出てないし」思いつく限りの言葉を並べる。「やることないし、折角ならついてくよ」もっと話していたいから。言い訳は思いつくくせに、そんな一番の理由が口から出てこない。
話していたい。自分がそう思っていることに気が付いて、私は内心でびっくりする。
「ほんなら、行くか」彼は私の動揺に気付かない顔で頷いた。「そんな遅くならんと思うし、電車で十五分くらいや」
そして私たちはまた歩き出した。
旭ともっと話したい。私はそんな風に思っていた。そのことに気付くと、むしょうにむず痒くなって、なんだかやたらと恥ずかしい。私にとっての彼は、いつの間にこんなに近い人になっていたんだろう。
でも、自分からそんな言葉を口にする勇気がない。「もっと話したいから、お茶でもしよう」。もう高校生なんだから、これぐらいの台詞、あっさり口にしてもいいはずなのに。もし旭に断られたらと想像すれば、その台詞は喉より奥、まだ胸の中にあるうちに潰れてしまう。
なんて情けないんだろう。男の子に興味を示してこなかったツケがここでやってくるなんて。もっと結々みたいに考えて、経験値を積む努力をしてくるべきだった。異性だからって、まともに友だちらしく付き合うことさえ出来ないんだから。
「なあ」
すっかり黙り込んでしまった私の横で、同じように何かを考えていたらしい旭が言った。
「付き合ってくれへん?」
しばらく黙って、沈黙の末に、私の喉からは「へえ?」と小さな変な声が出た。
付き合って。初めて言われた聞き慣れない言葉が、頭の中で何度もリフレインする。付き合って。付き合って。うそうそうそ。私がそんなこと言われたの?
視線を上げると、何でもない顔の旭と目が合った。私は慌てて俯き加減に目を落とす。
「嫌やったらええねんで」
「え、あ、えっと」
そんな即答を求められましても。放課後の教室の時と同じように、一気に体温が上昇する。でも、あの時よりきっと三℃は高い。だって、今日こんな台詞を言われるだなんて思わないじゃんか。
「だって、その……」
どうしよう。どうしよう、どうしよう。
異常事態の私を見て、旭は「あ」って声を漏らした。
「すまん。言葉足らずやった。付き合って欲しいところがあるんや」
「……え?」
「男一人やと行きにくくてな。せやから、今度一緒に行ってくれたらありがたいんやけど」
「そういうこと……?」
私の間抜けな顔を見て、旭は何もかもを察してしまった。顔の半分で困って、もう半分では堪え切れずに笑っている。
今度は恥ずかしさで更に体温が二℃上昇した。もう熱中症で気絶しそう。
「言い方が悪かったな、悪気はないんや」そして彼は私の顔を指さした。「真っ赤やで」
次には明確な怒りが湧いてきて、それに恥ずかしさと変な肩透かしの感触と、いろいろな感情がごちゃまぜになって。
「ばか!」私は笑う彼の肩を思い切り叩いた。「変な言い方しないでよ! 今のは旭が悪い!」
「せやな。ぜーんぶ俺が悪いな」
「だったら笑うな! ばか! ばーか!」
あまりに恥ずかしくて、泣きたい気分で私は旭を叩く。ただ、泣きたいのはそれだけじゃなくて。
期待外れの悲しさが、ほんのちょっとだけ、私の心をつついていた。
「そんな走ってこんでもええのに」
はあはあと呼吸をする私を見て、困惑している。私は絶対に後ろを振り向かない。振り向くなんて出来やしない。ほんの少しだけ息を整えてから、さっさと歩き出した。旭は怪訝な顔をしつつもついてくる。
「なんで来たの」
「そんな嫌やったんか」
「いいから!」
思わず語気を強めてしまう。学校から少し離れた頃、黙っていた彼は自分の鞄に手を入れて、その手を私の前で開いた。
「これ、昨日図書館に忘れとったから。宝物なんやろ」
彼の右手に乗っているのは、月と星のキーホルダー。
「図書館にあったの?」
「床に落ちとるんを見つけたんや。誰かに踏まれでもしたら壊れるかもしれんし、今日渡そうと思た」
大事なキーホルダーがなくなっているのに気付いたのは、昨日、早めに帰宅して飼い犬の散歩を終えてからだった。すっかり日が暮れていたから道を辿るのは無理があったし、きっと放課後に寄った図書館だとも思った。とっくに閉館時間だったから、翌日の放課後に職員さんに尋ねようと思っていたんだ。
「ありがとう……」旭の手から受け取って、どこか壊れていないか確認する。手作りの月と星は、最後に見た時と同じ姿で、大きな傷が入った様子もない。ただ、チェーンが切れてしまっているだけ。
「それなら、連絡してくれたらよかったのに」
「俺も渡そう思て鞄に入れてから、昨日はそのまま忘れとったんや。それで今日の昼に思い出して連絡したんやけど、見てへんかったやろ」
はっとして、鞄からスマホを出してみる。約一時間ずつおいて、旭から数回メッセージが届いていた。でも今日の昼休みは友だちとのお喋りが盛り上がっていて、放課後も結々と談笑していたから、そもそもスマホを確認していなかった。
「今日は、俺、図書館行く予定なかったんやけど。途中に桜浜があるから、寄ってみたんや」
「もしかして、みんなに声かけてたの」
「いや、そんなことせえへん。一年っぽい生徒にちょっと声かけて、無理やったら諦めるつもりやった」
「それでも、よく辿り着いたね。誰が一年生かなんて分からないのに」
見た目で知らない人の学年を推し量れるものだろうか。私は首をひねる。
「二人組の女子が外から帰ってきてて、片方が先輩って呼んでたから、多分呼んだ方は一年やと思たんや。放課後の部活中やろうし、三年は引退しとる可能性があるやろ。それなら先輩は二年で、もう一人は一年やろうなと思った。制服やから文化部やろうし、梓に近い人間やと考えたんや」
「へー……」
私はそんな間抜けな返事しかできなかった。一瞬で推察して一年生を見つけるなんて、やっぱり西ノ浦に入ったのは運なんかじゃないじゃんか。そして彼の思惑通り、声をかけられた生徒は私の同級生だった。彼女が、凡人の私の知り合いだったのは運だけど。
「……悪かったな」
言葉通りばつの悪い顔で、旭は謝る。
「いや、そういうつもりはなかったんやけど……なんか言われたりしたんやろ」
「え、いや、あの」
彼が私を探していた事情を知ると、怒る気になんてなれるわけがない。
「あ、旭は、私に早く届けようとしてくれただけなんだよね」キーホルダーを乗せた手のひらを突き出す。
「探しとったらあかんしな」
「それなら、謝ることないよ! 私こそごめん。届けてくれてありがとう」
これが私の宝物だと知っていて、だからこそ一刻も早く届けようとわざわざ手渡してくれた。その気持ちが素直に嬉しくて笑いかけると、やっと旭も安心したみたいだった。今度は失くさないよう、鞄にしっかりキーホルダーをしまう。
「……それで、こっち帰り道なんか」
勢いのまま歩いている方向は、いつもの図書館とは真逆だった。
「ううん……つい、学校から離れたくて。旭はこっちの方角なの」
「俺はこっちや。駅から電車に乗る」
「どこか行くの」
足を止めて、旭は少し考える素振りを見せる。私は黙って返事を待つ。
「先生のとこや」
「先生って、旭に訓練してくれてるっていう人?」
「そうや。特に用があるわけやないけど、たまに会いに行くんや。七瀬も来るか?」
思わぬ誘いに、私はすぐさま返事ができない。
「別に、用事があれば無理にとは言わんで」
「用事なんかはないけど……」
一緒に金星を見上げた日から、私たちは図書館を出てわかば公園で話をすることも増えた。ぷちも含めて、借りてきた本を見せ合ったり、世間話をしたり。図書館ではそれなりに声量に気を遣っていたから、自由に笑い声をあげられる時間は楽しくて、私は気に入っていた。
でも、ろくに男友だちもいない私は、ちょっとした誘いにも戸惑ってしまう。こんな時、小夏ちゃんみたいに「行く行くー」なんて言えたら、ずっと可愛げがあるのに。
「ええよ、俺も思い付きで言うただけやし」
そう言って背後を振り返る旭。それなら今日はここでお別れ。そういう素振り。
「ううん、ついてく」
「いや、ええってば」
「帰ってもなんにも用事ないし、茶太郎の散歩当番でもないし、その、課題もそんなに出てないし」思いつく限りの言葉を並べる。「やることないし、折角ならついてくよ」もっと話していたいから。言い訳は思いつくくせに、そんな一番の理由が口から出てこない。
話していたい。自分がそう思っていることに気が付いて、私は内心でびっくりする。
「ほんなら、行くか」彼は私の動揺に気付かない顔で頷いた。「そんな遅くならんと思うし、電車で十五分くらいや」
そして私たちはまた歩き出した。
旭ともっと話したい。私はそんな風に思っていた。そのことに気付くと、むしょうにむず痒くなって、なんだかやたらと恥ずかしい。私にとっての彼は、いつの間にこんなに近い人になっていたんだろう。
でも、自分からそんな言葉を口にする勇気がない。「もっと話したいから、お茶でもしよう」。もう高校生なんだから、これぐらいの台詞、あっさり口にしてもいいはずなのに。もし旭に断られたらと想像すれば、その台詞は喉より奥、まだ胸の中にあるうちに潰れてしまう。
なんて情けないんだろう。男の子に興味を示してこなかったツケがここでやってくるなんて。もっと結々みたいに考えて、経験値を積む努力をしてくるべきだった。異性だからって、まともに友だちらしく付き合うことさえ出来ないんだから。
「なあ」
すっかり黙り込んでしまった私の横で、同じように何かを考えていたらしい旭が言った。
「付き合ってくれへん?」
しばらく黙って、沈黙の末に、私の喉からは「へえ?」と小さな変な声が出た。
付き合って。初めて言われた聞き慣れない言葉が、頭の中で何度もリフレインする。付き合って。付き合って。うそうそうそ。私がそんなこと言われたの?
視線を上げると、何でもない顔の旭と目が合った。私は慌てて俯き加減に目を落とす。
「嫌やったらええねんで」
「え、あ、えっと」
そんな即答を求められましても。放課後の教室の時と同じように、一気に体温が上昇する。でも、あの時よりきっと三℃は高い。だって、今日こんな台詞を言われるだなんて思わないじゃんか。
「だって、その……」
どうしよう。どうしよう、どうしよう。
異常事態の私を見て、旭は「あ」って声を漏らした。
「すまん。言葉足らずやった。付き合って欲しいところがあるんや」
「……え?」
「男一人やと行きにくくてな。せやから、今度一緒に行ってくれたらありがたいんやけど」
「そういうこと……?」
私の間抜けな顔を見て、旭は何もかもを察してしまった。顔の半分で困って、もう半分では堪え切れずに笑っている。
今度は恥ずかしさで更に体温が二℃上昇した。もう熱中症で気絶しそう。
「言い方が悪かったな、悪気はないんや」そして彼は私の顔を指さした。「真っ赤やで」
次には明確な怒りが湧いてきて、それに恥ずかしさと変な肩透かしの感触と、いろいろな感情がごちゃまぜになって。
「ばか!」私は笑う彼の肩を思い切り叩いた。「変な言い方しないでよ! 今のは旭が悪い!」
「せやな。ぜーんぶ俺が悪いな」
「だったら笑うな! ばか! ばーか!」
あまりに恥ずかしくて、泣きたい気分で私は旭を叩く。ただ、泣きたいのはそれだけじゃなくて。
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