深海の星空

柴野日向

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4章 宣戦布告

少年A

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 とある少年の凶行は、計画的な殺人未遂だととられる、極めて凶悪なものだった。十五歳の少年が、嘗て自分の母親を襲った男に復讐を仕掛けた事件は、世間の格好の暇つぶしとなった。
 少年はアルバイトの新聞配達先の家で、自分の母を犯した本当の父親が出入りしているのを不幸にも目撃し、男の殺害を企てた。地元ならば、配達を行う自分を見知った顔は多すぎる。その後知らぬ街へ逃亡するためにも、男が懇意にしているその家の少女を囮に使い、男を誘き寄せようとした。
 その少女と犯人の少年が朝に言葉を交わすのを見たという近隣住民も存在し、一緒に帰るのを目撃した同級生もいた。自分を想ってくれる少女の心さえ蹂躙した卑劣な犯罪だと、偉いコメンテーターは画面の中で頷いてみせた。
 だがこの事件が世間の注目を浴びた理由は多数あり、その一つが因果の中で生まれた彼の境遇だった。更に彼の父親であり今回重傷を負った男と、その仲間である男たちには、捜査の結果、隣県を主とする未成年の売春斡旋という罪状が見つかった。その範囲は手広く、彼らの情報網を使い、少年少女の居場所を辿ったのだという。十六年前の事件から一切の反省が見られない男の血を引き、片目の失明という重い障害まで負う結果となった少年に、僅かながら同情の声も聞かれた。

「たったの六年で、あいつは、母を脅し傷つけた罪を償ったと認められた」
 顔も名前も失った少年が、自ら口にする言葉が公開されることは少なかったが、精神鑑定にも異常がなく、至って落ち着いている少年は訴えたという。
「それで、許されることなどあるわけがないんです。それに、その六年は、母のみに対するものだったのですか。そこで生まれてしまったぼくには、何の言葉もなかったんですか。作られてしまったぼくは、どうして生きればいいんですか。ぼくは生きているのに、何故あいつは、みんなに許されているんですか」
 彼が長年抱いてきた悲痛な叫びだった。痛みだけを抱いて新たに生まれてしまった命の、痛切な嘆きだった。彼を父親と同類の犯罪者だと嗤うのは如何にも容易い。蛙の子は蛙と、同じ穴の狢だと、口汚いものは罵り見下した。そこで抱かざるを得ない彼の苦しみは、計り知れない。

「口数の少ない、真面目な子でした」彼が通っていた中学校の担任は、言った。「宿題も忘れず、朝が早くても遅刻さえしない、周りより少し大人びた子でした。まさかあの子が事件の当事者になるだなんて……。そんな想いを抱いていただなんて、全く感じられませんでした」
 マスコミが好むいじめなどの事実は認められなかったと、学校側は強く主張した。クラス内での友人関係は良好だった、彼に対するいじめは存在しなかった、目立つ行動さえ見受けられなかった。それでも、恐らく少年が弱くとも発していたSOSに気づけていたならばと、神妙な面持ちで校長は語った。
 近所でも、挨拶を返せる少年だった。転んだ近所の子どもを起こしてあげるのを見た。仕事先の専売所でも、毎日きちんと時間を守っていた。
 ――まさか、あの子が。
 誰もがそう言った。これまで目にも留めなかった「あの子が」と意外性を強調した。
 そんな彼は、名前を失った。誰にも興味を持たれず「まさか」の言葉さえこれまで聞かれないまま、世間の隅で細々と息をしてきた彼の思惑を確実にしたものが、一冊の手帳だった。何もかもを捨てても、ナイフと共にジャケットに忍ばせて最後まで持ち歩いていたのが、黒い革のカバーの大人びた手帳。少年Aの直筆の手記は、一部をニュースで朗読されれば、思春期の少年特有の危機を謳う文句だと訴えられた。この文章こそが、大人しく真面目な少年が持つ心の内の叫びだと、偉い人々は警鐘を鳴らした。

 何も知らないくせにと、少女が毒を吐くことはなかった。
 きちんと一限の授業に間に合う時刻。身を切る寒さの中、使い込んだ通学鞄を肩に下げ、駅のホームでもうじきやって来る電車を待っていた。会社員風の女性が寒さに手を擦り、マフラーを巻いた受験生が単語帳とにらめっこする列に並んで空を見上げる。吐く息は白いが、雪は降っていない。今日発売の週刊誌を手にした大学生が後ろに並んだ数分後、皆が待ち侘びる電車がホームへと滑り込んだ。
 見渡すと空いている席がちらちらとある。恐らく誰かの忘れ物と呼ぶよりも、わざわざ捨てるのが面倒だったのだろう。座席に放ってある週刊誌を手に取り、空いた隙間に彼女は腰を下ろした。座席の下、ふくらはぎあたりに吹きだす暖房の温みにほっと息をつく。膝に鞄を置き、暇つぶしになる記事があればと、ぱらぱらと紙面を捲ってみた。
 あれから母はいつの間にか新聞を解約してしまい、新たに契約を結ぶ様子もない。元々新聞をきちんと読んでいたわけではないが、今となってはテレビのニュース番組か、スマートフォンに流れる情報を眺める方法でしか、世間の実態を知る術がなくなってしまった。
 しかしゴシップ色が強く、探せば誤字すら見つかってしまうお粗末なそれには、役に立つとは言い難い記事がこれでもかと並んでいる。手を止めるに至る見出しが見つからない。
 だが彼女は、はたと手を止めた。
 その文の一部は、幾度も目に、耳にした。携帯画面で読み返し、ニュースキャスターが読み上げるのに聞き入り、前後の文が新たに追加されていないかと探し続けていたが、中々成果を得られなかった。彼が何をその手帳に書き連ねていたのか、それはすぐ隣にいた少女さえ知ることはなかったが、その全容が紙面には綴られていた。ページの下半分、右から左へと長く連なっている。
 殺人未遂の少年A。彼がナイフと共に持っていた、たった一冊の手帳。その最後のページにかけて、書き連ねられていた言葉。

「僕は、母を犯し、僕という存在を作ったあの男を許せない」

 その一文から始まっていたが、本当の彼を知っていれば「許せない」という言葉を彼がその手で書いたということすら信じがたい。だが疑う者など、これを読む人々の中には存在しないのだ。

「あいつは、たった六年の刑期を過ぎれば、のうのうと一般人として社会で生き始める。なのに、無理矢理始めさせられた僕は、ゼロから一生苦しまなければならない。許されたあいつが憎い。誰が許そうと言っても、例え神様が認めたとしても、僕は絶対に許さない。
 だから僕が、僕のために復讐しなければならない。
 あいつは、僕の顔を見てもわからない。けれど、僕は忘れていない。やっと見つけた。復讐できるなら、捕まったって構わない。彼女には悪いけど、この計画の餌になってもらう。大事なものを奪われる悔しさを、あいつに少しでも、思い知らせてやる」

 重大な犯罪を犯した少年Aが書いた想いを誰もが知りたがり、文字として書き起こされたそれを聞けば、彼の危険性を口々に囃し立てた。無責任に同情し、怖い怖いと嗤った。自著に引用し、知った顔をする作家が現れ、匿名で名を隠す一般人は、作られた可哀想な子だと無闇に憐れんだ。
 だから、誰も知らない。終わりのページに雫が落ちて乾いた跡は、報道されないまま。最後の謝罪を書いた文字が、僅かに震え、崩れていたことなど、誰一人気づきさえしない。

「お母さん、お父さん、ごめんなさい。〇〇、ごめんなさい。僕は、悪いお兄ちゃんでした」

 少年は泣き虫だった。いつだって泣いていた。新聞を届けながら、学校に通いながら、弟の世話をしながら、いつも涙を流していた。それが表面に溢れないうちに、濡れた両腕で懸命に目元を拭いながら、伸びた前髪で涙目を隠し、誰の目にも触れない涙を流し続けていた。だから彼の濡れた瞳は、海のように美しかったのだ。
 それでも堪えられず、幾度か頬に伝わらせたそれが、少女に見せた全てだった。時折見せる穏やかな笑顔は、そんな涙の乾いた、ほんのひと時だった。

 独りぼっちの寂しさや、生まれてしまった苦しさに苛まれながら、少しでも家族の負担にならないよう高校を諦めアルバイトに早起きをする少年が、一体何をしたというのだろう。率先して家事を手伝い、遠回りをして自ら買い物に行く彼が、家族に謝ることなどあるのか。おやつを買い、遠出をすれば土産を選び、保育園まで弟を迎えに行く彼の一体どこが、「悪いお兄ちゃん」なのだろう。

「う……っ」
 涙はようやく枯れたはずなのに、彼女は濡れた声を漏らした。みるみるうちに目には涙が溢れ、熱い雫はぽろぽろと頬を伝って制服にしみを作っていく。
 前にかがむと、音を立てて雑誌が鞄の上から滑り落ちた。それを拾う気などないまま、膝の鞄に髪を垂らし、口元を押さえ、彼女は泣いた。肩が震え、零れて床に滴る涙は止まる様子がなく、気が付いた隣の女性客に声をかけられたがその中身すら聞き取ることなく、彼女は泣き続けた。
 自分は、誰よりも彼のことを知っている。彼は、見せてくれたのだ。両親にも見せられなかった苦しさを、少しずつ近づく距離の中で、教えてくれたのだ。自分は、こうして伏せられた彼の弟の名前も知っている。いい名前だと言った時、どれほど彼が嬉しそうに笑ったのか、その笑顔も十分覚えている。
 嗚咽が漏れる。
 あの時、眠る自分の隣で、どんな気持ちで、誰を想って彼はこの文字を書いたのだろうか。最悪の場合を想定し狂気を演じ切るために、大切な手帳を使い切って、愛しい家族への謝罪を胸に、辛い自分の人生を振り返っていたのだ。あの時に見た彼の瞳の光は、錯覚などではなかった。彼は確かに、横顔で泣いていた。
 どこか子どもっぽく幼さの残る彼は、自分よりはるかに早く大人になっていたのだ。
「……ありがとう」
 鞄に顔をうずめ、誰にも聞こえない泣き声で彼女は呟いた。
 彼の隣に居れば、安心できた。不眠がすっかり治り、心も体も深く寝入ってしまった。だが、彼が目を閉じ眠ってしまった姿など、一度も見ていないことを思い出した。
 あの最後の日、電車で共にもたれかかったが、彼が瞼を閉じる瞬間を目にした覚えはない。恐らく彼は、前日から一睡もせず、手を握り、隣を歩き続けてくれていたのだ。
 どれだけ彼が、自分を大切にしてくれていたのか省みる。彼と歩んだ道程は、狂おしいほどの愛情は、決して離してはならない、二つとして存在しない宝物だ。
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