深海の星空

柴野日向

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3章 ノンフィクション

家族

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 日付を超えたアナログ時計の針が示すのは、零時半。電車もバスも、明け方の発車を待つばかりの時間だ。
「始発って、何時に出るんだろ」
 泣きはらした目を擦り、ベッドの端に腰かけた少女が呟いた。
「えっとね……」
 正面に立ち尽くして壁掛時計を見上げていた少年は、元通りに直した手帳をぺらぺらと捲り、ページを指でなぞる。彼の手帳には、街を去る電車の時刻表もメモ書きがされていた。
「駅によって違うけど。一度家に帰るなら、緑が丘の方が近いよね」
 高校へ向かうためいつも利用する駅の名だったが、彼女は首を傾げた。
「それと中央だったら、どれぐらい時間違う。どっちが早い」
「緑が丘だったら、ニ十分遅くなる」
「そんなの駄目。さっさとしないと」
「それなら、中央にしよう。迎えに行くよ」
 彼の提案に、彼女は頷いた。
「上りと下り、どっちがいい」
「早い方」この街を出る時刻は少しでも早い方がいい。
「じゃあ、上りの五時五分」
「ほんとに便利だね、その手帳」
 少女の誉め言葉に、少年は未だに濡れて光を反射する瞳を瞬かせ、少し照れくさそうに、しかしどこか誇らしげに微笑む。
「自転車で、駅まで急いで頑張れば、三十分ぐらいで着くから」
「それなら、三時くらいにここ出よ」
 別れの言葉を口にできずとも、少々の準備と気持ちの忘れ物をしないために、ともすれば一生戻れない家に帰る時間が、ふたりには必要だった。

 それぞれ順番にシャワーを浴びて元の通りに着替えると、ベッドに横になる。瞳を濡らす涙を洗い流す姿は、どちらも相手に見せたいものではなかった。
「寝ないの」
 左手側で仰向けになる少年に、横を向いた少女が話しかけた。
「寝ちゃって、起きられなかったら困るし。それに、頭が冴えちゃって、眠れない」
「私も」
 少女の不眠はいつものことだったが、毎日規則正しい生活を送っている少年も、今はすっかり眠ってしまう気にはならなかった。二人は、木目の見えない低い天井を見上げ、シーツに身を預け、眠れない時間を過ごす。
「ねえ」少女が呼びかけると、少年は振り向いた。「お母さんとお父さんのこと、好きなの」
 彼女の問いかけに、彼は目を細めると微笑んだ。
「好きです」静かな声。「家族三人、みんな、ぼくは大好きです」
 生みの母親と、育ての父親と、片親の違う弟。その三人を、彼女に向けるにはいくらか違う感情を持って、彼は彼女同様に愛していた。
「だから、喜んでもらうと、本当に嬉しかった」
 自力で手にした新聞配達の賃金で、頼まれてもいないお使いに自主的に向かう彼は、家に帰って向けられる笑顔を目にすることに、大きな意味を見出していた。家族の一員として自分の役割を果たし、認めてもらうことが、孤独な心の支えだった。
「そこまでしないと、いけないの」
 だが、それは条件付きの四人家族だ。そうでなければ、家族は三人と一人に別れてしまうのだから。
「勝手にしてるだけなんです」それでも彼は優しく笑っている。「母も、父も、ぼくと同じ。不器用で、上手な家族の接し方が分からないだけ。時々、誕生日を忘れちゃうだけなんです」
「それって、相当悲しいことだよ」
「精いっぱいなんです、みんな」誰にも祝われない、思い出しもされない自分の生まれた日を、彼は幾度か過ごしたことがあった。だがそこに悪意など微塵もなく、どうしても埋められない溝と、後悔に暮れる両親の心を知っていれば、彼が愛しい家族を恨むはずがなかった。
「母は……お母さんは、ぼくが熱を出した日、会社を休んで一日中傍にいてくれた。お父さんは、小さい頃、父親参観に来てくれて、帰りには手を繋いでくれた」
「それって、あんまり珍しいことじゃないよ」
「それでも、家族がすることだから。ぼくらには、家族でいるってことが難しくって、だけど、一生懸命家族でいるんです。形だけだとしても、お互いを、頑張って大事にしてきてるんです」
 その中で、たった一人の弟は無邪気に明るく育ってきた。残酷な事実などまだまだ知る由もなく、保育園に迎えに来る優しい兄を待ちわびているのだ。「あの子が全部知ってしまえば」嘗て彼が言った「全て」の意味を、ようやく彼女は理解した。
「じゃあ、それならさ……」
「でも、限界はあった。ぼくは、気が付いてた。ずっと前から、本当は」
 彼女が迷いを口にする前に、彼は視線を彼女から天井に戻し、きっぱりと言い放つ。
「ぼくが、新聞配達を始めたのが、その理由なんです」
 腹の上で軽く両手を組み、吐息のような言葉を逆さまに天井へ落とす。彼の瞳に映るのは、現在ではなく心に残る過去の光景。
 少年は、ゆっくりと語り始めた。
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