深海の星空

柴野日向

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3章 ノンフィクション

最善の殺し方

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 ふうと長くため息をつき、少女は背もたれに深く身を預ける。少年も腰をかけ直し、流れるように彼女に問いかけた。今日は暑いね。そんな言葉が続きそうなほど、滑らかに。
「殺すって、どうするの」
「どうしようか。時間がないからね。穏便に、理科室から劇薬盗んで、なんて準備できないし。轢き殺してみるにしても、車の運転とかよくわかんないし」
「時間がないって」
「タイムリミットよ」
 人を殺すにしても、簡単にはいかない。その上、失敗できない今回には、既に時間制限が設けられていた。その時は、今も刻一刻と正しく均等に迫ってきている。
「明日迎えに来るってさ。学校も辞めて一緒に暮らそうとかほざいてたけど、つまり、そういうことよ。お母さんは上手く言いくるめられるだろうし。あの人に嫌われたくないんだから」
「やっぱり、直接やるしかないのかな」
「多分ね」
「住んでる所とか、分からないの。そこに行って、上手くいくチャンスを探せば」
「まあ、変わってなければ知ってるけど。けどね、さっき言ったでしょ。叔父さん以外に三人もいた。あの時も車に乗ってたし、多分、あいつらの誰かの車だよ」
 三人を強調し、彼女は人差し指から薬指までの三本指を立てて軽く振ってみせる。
「ろくでなしどもだからさ、当日だし、集まって家に入り浸ってる可能性大ね。そこにわざわざ行くなんて、まさに飛んで火にいるってやつじゃない」
「不意打ちでも、やっぱり敵わないかな」
「おっさん四人よ。私はもうやられてるから知ってるけど、怖いぐらい身体でかいし、力も強かった。骨折られるかと思った。だから私は勝てないし、あんただって、まだこんなに細いじゃん」彼の腕を取り、軽く振ってみせる。「せいぜい中三のガキんちょなんだからさ。二人合わせても、大人一人分になるかもわからない。もし叔父さん一人だったとしても、一か八かで失敗したら全部終わり。なんにもしないより、ずっと酷い終わり方」
「……」
 彼女の正論に、彼は悔しげに項垂れて黙ってしまった。膝に垂らした両腕を見つめ、どれほど意気込みがあろうと敵いはしない時の残酷さに、果てのない無力さを感じて打ちひしがれてしまう。「こんな終わり、あんまりだ」ぽつりと床に落とした言葉が、転がった。
「ひとつだけ」
「ひとつだけ……?」
 おうむ返しに口にする少年に、「そう」と彼女は頷いた。たった一つだけ存在する、人を上手に殺す方法を口にした。
「最後の最後。本当のぎりっぎり。明日の夜、うちに来るじゃん、叔父さん。その時に、やっちゃうの」
 決して聞き逃さないよう真剣に向き合う彼に、彼女も真っ直ぐに顔を向けた。決していつもの冗談で茶化す空気など持たず、彼の前髪を通してその瞳を見つめる。
「敷地に入るのは、きっと叔父さん一人だよ。全員で入ってくる必要ないし。その時さ、私、二階で寝たふりしてるから。お母さんには具合が悪いとか何とか言って。だけど、あの人が私の部屋まで来るの、お母さんは拒否しない。反感買うの嫌だから」
 菜々ちゃんに用事がある等、どうでもいい理由をつけて、叔父は母が呼んでも下りてこない彼女を自ら迎えに来るだろう。それに例え不信感を抱こうとも、母親がそれを嫌がり追い返すはずがないのだ。
「それで、私の部屋まで来るじゃん、叔父さん。その時ね、あんたに刺して欲しいの」
「ぼくが……」いよいよ自分の出番が来たことに、彼は息を呑む。
「あの人、脳みそ猿未満だからさ、私がベッドに転がって弱々しくしてたら、ちょっとぐらい手出してくるよ。クズだから。お母さんにバレなきゃ、そんぐらいする。それで近寄ってきた時、私が刺してもいいんだけど、正面からじゃ気づかれたらおしまいだし。後ろから思いっきりって方が、ずっと確実でしょ」
 彼女の言いたいことを理解し、少年は自分の役割を把握する。
「あんたが部屋に隠れてて、叔父さんが私を襲おうとしたら。その時がきっと、最後のチャンス」
 予め、母に気づかれないよう彼が部屋に隠れ、後に叔父がやって来る。倫理観など元来捨て去った男は、自分の手にしたい少女が誘うような真似を見せれば短絡的に手を出すだろう。無防備になるのは、脂の乗ったその背中。刺して殺すにはもってこいの、最善の隙。
「私、あんたが聞きたくない台詞、いっぱい垂れ流すからさ。演技でもいっつもやってるから自信あるし。本物にしか聞こえないよ。それまで、耳塞いどいていいから」
「大丈夫です、それぐらい」
 今更どうということはないと、彼は大きく頷いた。それ以上に、自分が人間を刺し殺す感触を想像しているように、無意識に左手を軽く開いては握りしめている。
「あーあ。こうするしか、もう思いつかないや」うんざりだとばかりに背もたれに背をぶつける彼女は、彼の方をちらりと見て軽く笑ってみせた。
「心配しないでよ、大丈夫だから。勝手に私だけ逃げたりして、あんた一人のせいになんて、絶対にしない。ただの私の手足だったんだからさ。殺人教唆ってやつ」
「同じだけって、さっき言いました。あなたと同じじゃないと、同罪の共犯じゃないと嫌だ」
 どこまで真面目なんだと笑いながら、彼女は自分の鞄のチャックを開いて右手を突っ込んだ。滅多に触れない底板を手探りで捲り、目当てのものを取りだす。
「使ったことないけどさ」
 これまで隠し続けていたナイフの存在に、少年は一度目を見張ったが、今となっては文句を言うほど驚きも不満も抱くことはなかった。いつでも相手を、または自分自身を終わらせられるという、彼女の心に長年平穏をもたらしていた、あまりに胸の詰まる悲しい武器だった。
「貸してください。ぼくが持っておきます」
 彼は彼女の言葉を待たず、ナイフを鞘ごと彼女の手から引き抜いてしまう。
 新品の様子を確かめている彼を見ながら、「あんたに、ナイフなんて似合わないね」と少女は感想を漏らす。きょとんと顔を上げた彼は、そうだねと笑う。その笑顔に、とてもではないが、刃物など似合わない。あの眼鏡よりも遥かに浮いた存在だと、少女も笑った。
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