深海の星空

柴野日向

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3章 ノンフィクション

足音

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 嫌な音が聞こえる。少しずつ、音は大きくなっていく。
 そんなもの聞こえないふりをして、少女はいつものようにからかいの言葉を口にし、少年は穏やかに笑ってそれを受け入れる。この日常だけでいいのに、どうしてこんな足音が聞こえてしまうのか。
 この音が意味する言葉など、気のせいだと懸命に彼女は背を向けた。「崩壊」の二文字など、あと半年もない日々の中で感じたくないと、思った。

 夜中の零時過ぎ。街は沈黙を守り、家々から人工の光は既に消え去っている。ぽつりと点在する街灯と、安い自動販売機が発する光に、集まった蛾が羽ばたくだけの秋の夜。
 言葉さえない無表情のまま、彼女は見覚えのない車に僅かな違和感を抱いた。門の前に停まったのは、いつものグレーの乗用車ではなく、夜闇に目立たない黒っぽいバン。車内を見通そうとしても、窓のスモークフィルムのおかげで中の様子ははっきりとしない。
 叔父が下りてきたのが予想していた運転席側ではなく、助手席側であったことに、少女は戸惑いを覚える。ちらりと見えた向こう側、運転席にはハンドルを握る知らない誰かがいる。
「誰、あの人」
 エンジン音にかき消えそうな声は相手に届いたはずだったが、少女の細い手首は答えを得られず握られる。ふつふつと、彼女の中に恐ろしい想像が浮かび上がる。
「ねえ、これって……」
「お母さんは、寝てるよな」
 やっとの思いで頷いた彼女に、醜い笑みを満足そうに浮かべると、早く去ってしまおうと叔父は彼女の手を引いた。
 スモークの奥で、黒い影が動いた。息を呑む彼女は足を引こうとしたが、既に後部座席のドアが開いた後では遅すぎた。背骨がささくれ立つような、悲鳴さえも掠れる恐怖に捕らわれる彼女へ、伸ばされる太い腕が四本。
 彼女が取り落した通学鞄を証拠隠滅にと拾い上げたその車は、深夜の町内を逃げるように去っていった。

 嫌だと一度叫び、殴られた時、少女は五年も前のことを思い出した。あの時も切れた口から血をこぼしていたと、当時と似通った虚脱感に身を任せてぽつりと思った。どれほどの気概も圧倒的な暴力には敵わない。いくら惨めで悔しくとも、今は心を殺して凌ぐしかない。五年前と異なるのは、そんな有難くもない学びだけだった。
 部屋に居るのは、五年分成長した少女と、その分老けた叔父と、叔父と同年代の彼女の知らない男が三人。
 殺せ。殺せ。自分を、殺せ。理由の解らない涙を無意識に乾かしながら、少女は一生懸命に自分の心を殺害し、全てが終わる時間を待ち続ける。身体に響く痛みに歯を食いしばる。嬉しくない誉め言葉には、屈辱を感じる余裕さえ失った。ただ、金になると言った誰かの含み笑いに、自分の未来を想像し、背筋を凍らせた。
 時間の感覚が分からない。だから、いつも通りに見上げた天井で、板の木目を数えようと目を凝らした。しかし、白くくすんだ壁紙の貼られた部屋に、そんなものは存在しなかった。
 一人が、彼女の柔らかな頬を殴った手で、汗に湿る美しい髪を太い指に絡める。シーツに顔をうずめる少女が聞いたのは、投げやりかつ絶望的な台詞。
「もう薬はないんだ、菜々ちゃん」
 ソファーで煙草の煙をくゆらせる叔父へ、彼女は辛うじて視線を動かした。薬は今持っている分で最後だという。何か言おうと声の出ない口を動かすが、それが面白かったのか、四人の男たちは下品な笑い声をあげた。
「学校も行かなくていいように、お母さんには言っておくから、問題はないよ。菜々ちゃんだって、学校は嫌いだって聞いたぞ」
 それでもと言いたかった。
 だが潰れてしまった喉は上手に声を出してくれない。詰まった胸では呼吸さえ難しい。彼女は形にならない言葉を、誰にも届かないそれを、シーツの上にぽたぽたと落とすだけ。
「どうせ、つんぼのカタワなんだ。大した将来なんてねえよ」
 醜悪な本音を不幸にも拾い上げてしまった少女は、飽きない誰かに触れられながら、涙も声も出せないまま、ただひとりの名前を呼んだ。望んだ。絶望的な諦めの中で、たったひとつの愛しい希望を想うことだけが、崩壊してしまう心を支える、残された唯一の方法だった。
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