深海の星空

柴野日向

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2章 深海の星空

ノートと約束1

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 朝の邂逅が偶然ではなく必然へと変わり出した頃、高校へ向かう緑ヶ丘駅の花壇に咲いていた紫陽花が雨に濡れる日も、次第に減りはじめた。自転車のタイヤを滑らせる雨の季節が過ぎると、羽化した蝉たちが夏を引き連れてやって来る。
 下校時にしょっちゅう遠回りをし、近所の人から「みどり公園」と呼ばれる広い公園の前を通るようになったのは、流石に気まぐれだと素直でない少女は頷いた。あいつがいればラッキー。それぐらいで十分だろう。
「よう」
 男らしい掛け声に、少年は白いシャツの背を大袈裟なほどびくりと震わせ、振り向いた。
 暑い夏の放課後、午後三時を過ぎた時分、向こうのグラウンドでは小学生が駆け回り歓声を上げている。それから離れ、ミンミンと蝉の絶叫が降り注ぐ中、少年は切り株を模した小さな手洗い場に跪いて、抱えている布を一心に水で濯いでいるところだった。
「桜庭さん……」
 虫の声にもかき消えそうな少年の声に、少女は眉を寄せて首を傾げ、露骨に睨みつける。
「菜々さん……」彼は少しかすれた声で言い直し、右腕で額の汗を拭う。「こんなに早く、どうしたんですか」
「サボっちゃった」途端に、向日葵のような眩しく明るい笑顔を少女は咲かせた。
 つまんないし、と付け加えるように通学鞄を軽く振る。自習に割り振られる木曜の六限、教室にこもっているぐらいなら、家で昼寝でもしている方が精神衛生上ずっと有意義だ。だが、そんな不真面目な女子高生の事情など知らない彼は、中学校よりも放課時刻が遅く、更に電車を乗り継いで通っている彼女と鉢合わせるとは思いもしなかったのだ。
「あんたこそ、何やってんの」
 しゃがみ込んだままの少年の手元を、少女は覗き込む。彼が手元でくるくると丸めた布の塊は既にぐっしょりと濡れていて、夏の乾いた地面にぼたぼたと雨を降らせている。それが随分と土色に汚れた体操服であることは、二年前に彼と同じ中学校に通っていた少女にはすぐに見抜くことが出来た。
「……さっきの時間、五時間目体育で」
 少年は泥だらけの体操服を軽く開いて見せる。袖に入っている刺繍の苗字さえ読み解くのが困難なほど、泥にまみれた体操服は裏側まですっかり汚れてしまっていた。
「なにそれ、ぐしゃぐしゃじゃん」
「転んだんです」
「どう転べば、そんだけ汚れんのよ」
「グランドの隅、水飲み場ありますよね。あそこで転んで、水で地面が濡れてたから……」
 へえ、と顔を上げた少女は背を伸ばす。「新聞配達なんかしてんのに。だっさ」そしてからかうように笑う。
 そんな無慈悲な言葉に対し、少年は肯定も否定もしないまま再び背を向け、流水に腕を突っ込んでしまった。
 家の洗濯機で直接洗うには、少々しつこい汚れだ。まだ時間が経たないうちに、少しでも泥を落としておきたいのだろう。
 そんな少年に少女も背を向け、小さな砂場を抜けて水屋のベンチに腰を下ろした。一息ついた隣には、無防備にチャックを開いたままの彼の白いエナメルの鞄。体操服など学校ですぐに洗えばいいものを、彼はわざわざ公園までやって来ていたらしい。
 あいつは、勉強なんてしてるのか。ふと興味が湧き、少女は無遠慮に鞄を覗き込んだ。懐かしい数学や国語、音楽の教科書に、無地のA4ノートが数冊。
 勝手に一冊拝借する。あの朝見た手帳の文字と同じ筆記で、「理科」と表紙には書かれていた。中を開くと、水素と酸素を組み合わせた水の分子式。分子と原子の説明が、彼らしく細かく丁寧に書かれている。ただそのページは一度真っ二つに千切れてしまった後で、セロハンテープできっちりと修復されていた。
 パラパラと捲ると、所々で同じように、一度千切れたページをテープがくっつけている。そうして彼の文字を通り過ぎ、白紙のページを繰ってたどり着いた裏表紙の裏面で、少女は思わず息を呑んで手を止めた。何重にも修正テープでなぞられ、消したいものを消し続けたかさぶたのような凹凸の上。そこには黒の、恐らく油性のマジックで言葉がひとつ書き殴られている。

 死ね

 誰にでも読み解ける太く大きな文字の筆記は、散々連なっている彼の字体とは明らかに異なる。その周囲にも似たような文字が書かれているのだろうが、もったいないと思うほどの量のテープでそれらは覆い隠されていた。
 ノートから顔を上げ少女は少年の方に視線をやったが、彼は彼女が自分の鞄を漁っていることに気づいているのかいないのか、背を向けて額の汗を拭っている。そうして彼が両手で広げた体操服の背中に刻まれた泥は、本人がどれほど器用に転んでもつけることなど不可能な、靴跡のしま模様をみせていた。
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