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1章 邂逅
それぞれの物語1
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少女とともに足元の毛布を被ると、少年はどこかほっとした風に小さく息をついた。
すぐ隣でその様子を見ながら、少女は話さなければならないことを考える。今更だが、黙っておくのは彼にとって非礼すぎるし、なにより知っていてほしいとも思ったのだ。
「見てたでしょ」
彼には二度も見られてしまった。相手の顔もわからなかったとはいえ、その現場を、自分の良くない姿を二度も彼の目に晒してしまった。
「あの人、私の叔父さんなんだ。血が繋がってるの。嫌でしょ、そんなのと繋がってるなんて。引いちゃうよね。私、随分前から汚れてるんだ」
「叔父さんって……」
「そう。正真正銘、お父さんの弟。ろくでなしだよ、自分の兄貴の娘に手出すなんてさ。クズ過ぎるでしょ」
ああ、まただ。少女は思う。彼の瞳に影が落ち、悲しそうな色が浮かぶ。当の自分はかろうじて笑ってるっていうのに、この少年が先に落ち込んでしまうんだ。
「家族は、なんて言ってるの」
「見て見ぬふりだよ」少女は自嘲気味に笑った。
もう五年も前からなのだ、母親は確かに勘付いている。五年前に比べ随分頻度は上がり、そのせいで慣れたくもないのに慣れは確かに存在した。そうでなければ、きっとどこかで発狂していたに違いない。同じ屋根の下に住む娘がそんな状況にあるのに、母親が何一つ気づかないはずなどない。
「うち、お父さんいなくってさ。お母さん、あの人がいないとダメになっちゃった。嫌われたくなくって、気づいてるくせに私と取り合ってる気になってる。馬鹿だよね、その前に娘なのに。こんなのさ、気持ち悪いでしょ」
家族は、随分と歪んでしまった。この毛布の中のように温かかったはずのすべては、静寂の中に冷え切って凍えてしまった。過ぎた贅沢なんてこれっぽちも望んだことはなかったのに、味方は誰一人、いなくなってしまった。
「どう、嫌いになった?」
微笑む彼女の頬を、眦から零れる涙が伝った。
それを彼の指先がすくう。悲しみを抱く彼は、優しく笑う。
「あなたはあなただから、なにがあっても変わらない。悲しんでいたあなたを、ぼくが嫌いになるわけなんてない」
止めようとしていた涙が、止まらなくなった。
ひきつった声が喉に引っかかる。胸がまた苦しくなる。心が熱に焼かれ、次から次へと涙がこぼれる。
嗚咽を漏らし、少女は泣いた。こんなに優しい言葉は、家族が減ってしまってから一度も聞いたことがなかった。いや、人生で初めてかもしれない。この種の優しさを、こうして受け取ることが出来るなんて。ここまで汚れてひねくれた自分を、実の母親でさえ目を背けるような存在を、受け入れてもらえるだなんて。
自分がひどく弱っていることに、少女はようやく気が付いた。長年蓄積されてきた爪痕は、見ないふりをしている内に、冷めた心にいつの間にかぽっかりと穴を空けていた。だからこそ、彼の言葉は温かく、深く深く、身体中に染み渡ってくる。
大好きだ。本当に、彼が大好きだ。
少年は、優しい表情のままでいる。いくらでも泣いていいんだと言葉なく言っている。だからこそ、今は彼の思いやりに縋り、少女は自然と声が消えてしまうまで、ただ泣いていた。
肩の震えと嗚咽がおさまり、濡れる瞳から雫がこぼれなくなると、少女は少年と同じように笑顔を返した。それを見た彼も、いつもと同じ穏やかな表情で目を細めてくれる。
「どうしたんだろ、私。おかしいよね。情緒が壊れちゃったみたい」
「それだけ辛いことが、十分にあったんだよ。何もおかしいことなんてない」
「泣き方なんて、とっくに忘れてたはずなのにね。あんたのせいで、思い出しちゃった」
くすくすと、二人は二人にしか聞こえない声で笑った。互いの体温で温まる柔らかな毛布の中が、心地よくて仕方ない。
「父親は、帰ってこないの」
やがて彼が問いかけた。
「死んじゃったんだ、事故で」
驚きに目を丸くする彼に、彼女は続ける。
「私をかばって、死んじゃったんだ」
この先を促していいのか、彼は迷っている。大丈夫だよというように、彼女はシーツに置かれた彼の左手に自分の右手を被せた。
「私が小学校二年生のときね、お父さんとバスでひまわり畑を見に行ったの。でも、そこに着く前、山道の途中で、車が突っ込んできたんだ」
法定速度をゆうに二倍は超えた速度で走るワゴン車は、カーブを曲がり切れなかった。酒に酔った無免許の大学生が、降り出した雨に濡れた路面で器用な運転など出来るはずがなかった。アスファルトにはブレーキの痕跡すら残さず、車はバスの横腹に激突した。
「そのバスで死んじゃったのね、お父さんと、前に座ってた人、三人。他にも頭から血が流れてたり、骨が折れて飛び出してたり、ぐったりして動かなかったり。そんな人たちが周りにいたよ」
「でも、父親が庇ってくれたんだよね」
「そう。私を抱きしめてさ。信じられない判断力だよね」無意識に、少年の手を包む手に力がこもる。「すごかったよ。潰れた車に、身体ごと潰されて、ガラスの破片が身体中刺さりまくってんの。でもね、生きてたんだ、そのすぐ後までは」
少女は時折、忘れたい事故を懸命に思い出す。
「抱きしめてくれる腕が温かくて、心臓の音が、耳じゃなくて、身体からね、聞こえてきた」
止まらない時間の流れに、川面を流れる木の葉のように、遠ざかって消えてしまいそうな記憶を少女は追いかける。忘れたい記憶に囲まれる忘れたくない存在を、あの日の確かな父親の鼓動を、全身で懸命に思い出すことを何度でも繰り返している。それでも、時が経てばいつかは全てが跡形もなく消えてしまうという恐怖は、いつだって傍にある。
「山道だったし、雨も降ってたから、救急車、なかなか来なくって。そのまま別々に運ばれて。その間に、お父さん、死んだんだ。知らないうちに」
身体中に包帯を巻かれた少女が目を覚ますと、真っ赤に目をはらした母親に抱きしめられた。止まらない涙を流し号泣する母の腕の中で、誰かの言葉を聞いた。
――目が覚めて、よかったね。
だが何が良かったのか、少女にはさっぱりわからなかった。これなら、目など二度と覚めない方が、ずっと良かったのに。
「私がさ、わがまま言って、途中でお父さんと席替わったんだ。エアコンが寒いとかそんなこと言って。だから……」少女は微笑んでかぶりを振った。「窓際に座ってたの、ほんとは私だったのに。まだ小さかったしさ、代わりになれなくっても、本当なら、私も一緒に逝くべきだったのにね」
少女の懺悔と未練を静かに聞いていた少年は、小さく口を開いた。
「あなたは、大丈夫だったの」
「ひじ掛けでさ、思いっきり頭打って。骨折れたし血も出たし、内耳って習ったでしょ、あそこまでぐしゃぐしゃでさ。手術したんだけど、これ以上はーだって。でもまあ、それですんだかな」
折れた骨がくっつき流血が止まっても、弱ってしまった左耳の聴覚が完全に回復することはない。中途半端な障害だけが、彼女の身体には残ってしまった。
「賢いあなたの父親なら、あなたがこれから抱く後悔もきっと悟っていたはずだよ。それでも助けたかったんだ。一緒に、だなんてことは実の父親なら思わないよ。ましてや、自分だけ助かる真似だなんて」
彼女の瞳をまっすぐ見つめ、少年はひとつひとつ言葉を選び、決して間違えないよう丁寧に紡ぐ。
「どうしても、父親はあなたを助けたかったんだ。自分の命よりも守りたくて守ったんだ。席を替わった後悔なんて、絶対に思ってないよ。あなたは生きるべき、愛されるべき人なんだよ」
やはり彼は、少女が思った通りだった。仕方ないね、なんて笑うはずなどなかった。
「ありがとう」と少女がほほ笑むと、それを見てようやっと嬉しそうに笑った。
すぐ隣でその様子を見ながら、少女は話さなければならないことを考える。今更だが、黙っておくのは彼にとって非礼すぎるし、なにより知っていてほしいとも思ったのだ。
「見てたでしょ」
彼には二度も見られてしまった。相手の顔もわからなかったとはいえ、その現場を、自分の良くない姿を二度も彼の目に晒してしまった。
「あの人、私の叔父さんなんだ。血が繋がってるの。嫌でしょ、そんなのと繋がってるなんて。引いちゃうよね。私、随分前から汚れてるんだ」
「叔父さんって……」
「そう。正真正銘、お父さんの弟。ろくでなしだよ、自分の兄貴の娘に手出すなんてさ。クズ過ぎるでしょ」
ああ、まただ。少女は思う。彼の瞳に影が落ち、悲しそうな色が浮かぶ。当の自分はかろうじて笑ってるっていうのに、この少年が先に落ち込んでしまうんだ。
「家族は、なんて言ってるの」
「見て見ぬふりだよ」少女は自嘲気味に笑った。
もう五年も前からなのだ、母親は確かに勘付いている。五年前に比べ随分頻度は上がり、そのせいで慣れたくもないのに慣れは確かに存在した。そうでなければ、きっとどこかで発狂していたに違いない。同じ屋根の下に住む娘がそんな状況にあるのに、母親が何一つ気づかないはずなどない。
「うち、お父さんいなくってさ。お母さん、あの人がいないとダメになっちゃった。嫌われたくなくって、気づいてるくせに私と取り合ってる気になってる。馬鹿だよね、その前に娘なのに。こんなのさ、気持ち悪いでしょ」
家族は、随分と歪んでしまった。この毛布の中のように温かかったはずのすべては、静寂の中に冷え切って凍えてしまった。過ぎた贅沢なんてこれっぽちも望んだことはなかったのに、味方は誰一人、いなくなってしまった。
「どう、嫌いになった?」
微笑む彼女の頬を、眦から零れる涙が伝った。
それを彼の指先がすくう。悲しみを抱く彼は、優しく笑う。
「あなたはあなただから、なにがあっても変わらない。悲しんでいたあなたを、ぼくが嫌いになるわけなんてない」
止めようとしていた涙が、止まらなくなった。
ひきつった声が喉に引っかかる。胸がまた苦しくなる。心が熱に焼かれ、次から次へと涙がこぼれる。
嗚咽を漏らし、少女は泣いた。こんなに優しい言葉は、家族が減ってしまってから一度も聞いたことがなかった。いや、人生で初めてかもしれない。この種の優しさを、こうして受け取ることが出来るなんて。ここまで汚れてひねくれた自分を、実の母親でさえ目を背けるような存在を、受け入れてもらえるだなんて。
自分がひどく弱っていることに、少女はようやく気が付いた。長年蓄積されてきた爪痕は、見ないふりをしている内に、冷めた心にいつの間にかぽっかりと穴を空けていた。だからこそ、彼の言葉は温かく、深く深く、身体中に染み渡ってくる。
大好きだ。本当に、彼が大好きだ。
少年は、優しい表情のままでいる。いくらでも泣いていいんだと言葉なく言っている。だからこそ、今は彼の思いやりに縋り、少女は自然と声が消えてしまうまで、ただ泣いていた。
肩の震えと嗚咽がおさまり、濡れる瞳から雫がこぼれなくなると、少女は少年と同じように笑顔を返した。それを見た彼も、いつもと同じ穏やかな表情で目を細めてくれる。
「どうしたんだろ、私。おかしいよね。情緒が壊れちゃったみたい」
「それだけ辛いことが、十分にあったんだよ。何もおかしいことなんてない」
「泣き方なんて、とっくに忘れてたはずなのにね。あんたのせいで、思い出しちゃった」
くすくすと、二人は二人にしか聞こえない声で笑った。互いの体温で温まる柔らかな毛布の中が、心地よくて仕方ない。
「父親は、帰ってこないの」
やがて彼が問いかけた。
「死んじゃったんだ、事故で」
驚きに目を丸くする彼に、彼女は続ける。
「私をかばって、死んじゃったんだ」
この先を促していいのか、彼は迷っている。大丈夫だよというように、彼女はシーツに置かれた彼の左手に自分の右手を被せた。
「私が小学校二年生のときね、お父さんとバスでひまわり畑を見に行ったの。でも、そこに着く前、山道の途中で、車が突っ込んできたんだ」
法定速度をゆうに二倍は超えた速度で走るワゴン車は、カーブを曲がり切れなかった。酒に酔った無免許の大学生が、降り出した雨に濡れた路面で器用な運転など出来るはずがなかった。アスファルトにはブレーキの痕跡すら残さず、車はバスの横腹に激突した。
「そのバスで死んじゃったのね、お父さんと、前に座ってた人、三人。他にも頭から血が流れてたり、骨が折れて飛び出してたり、ぐったりして動かなかったり。そんな人たちが周りにいたよ」
「でも、父親が庇ってくれたんだよね」
「そう。私を抱きしめてさ。信じられない判断力だよね」無意識に、少年の手を包む手に力がこもる。「すごかったよ。潰れた車に、身体ごと潰されて、ガラスの破片が身体中刺さりまくってんの。でもね、生きてたんだ、そのすぐ後までは」
少女は時折、忘れたい事故を懸命に思い出す。
「抱きしめてくれる腕が温かくて、心臓の音が、耳じゃなくて、身体からね、聞こえてきた」
止まらない時間の流れに、川面を流れる木の葉のように、遠ざかって消えてしまいそうな記憶を少女は追いかける。忘れたい記憶に囲まれる忘れたくない存在を、あの日の確かな父親の鼓動を、全身で懸命に思い出すことを何度でも繰り返している。それでも、時が経てばいつかは全てが跡形もなく消えてしまうという恐怖は、いつだって傍にある。
「山道だったし、雨も降ってたから、救急車、なかなか来なくって。そのまま別々に運ばれて。その間に、お父さん、死んだんだ。知らないうちに」
身体中に包帯を巻かれた少女が目を覚ますと、真っ赤に目をはらした母親に抱きしめられた。止まらない涙を流し号泣する母の腕の中で、誰かの言葉を聞いた。
――目が覚めて、よかったね。
だが何が良かったのか、少女にはさっぱりわからなかった。これなら、目など二度と覚めない方が、ずっと良かったのに。
「私がさ、わがまま言って、途中でお父さんと席替わったんだ。エアコンが寒いとかそんなこと言って。だから……」少女は微笑んでかぶりを振った。「窓際に座ってたの、ほんとは私だったのに。まだ小さかったしさ、代わりになれなくっても、本当なら、私も一緒に逝くべきだったのにね」
少女の懺悔と未練を静かに聞いていた少年は、小さく口を開いた。
「あなたは、大丈夫だったの」
「ひじ掛けでさ、思いっきり頭打って。骨折れたし血も出たし、内耳って習ったでしょ、あそこまでぐしゃぐしゃでさ。手術したんだけど、これ以上はーだって。でもまあ、それですんだかな」
折れた骨がくっつき流血が止まっても、弱ってしまった左耳の聴覚が完全に回復することはない。中途半端な障害だけが、彼女の身体には残ってしまった。
「賢いあなたの父親なら、あなたがこれから抱く後悔もきっと悟っていたはずだよ。それでも助けたかったんだ。一緒に、だなんてことは実の父親なら思わないよ。ましてや、自分だけ助かる真似だなんて」
彼女の瞳をまっすぐ見つめ、少年はひとつひとつ言葉を選び、決して間違えないよう丁寧に紡ぐ。
「どうしても、父親はあなたを助けたかったんだ。自分の命よりも守りたくて守ったんだ。席を替わった後悔なんて、絶対に思ってないよ。あなたは生きるべき、愛されるべき人なんだよ」
やはり彼は、少女が思った通りだった。仕方ないね、なんて笑うはずなどなかった。
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