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1章 邂逅
邂逅2
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静寂の満ちた早朝の住宅街に侵入する、グレーの乗用車。少女はなるだけ手早く助手席のドアを開けると、最小限の隙間から滑り下りた。まだ何か言い足りないらしい男に耳を貸す気などさらさらなく、温度を失った瞳で振り返る。
またなと馴れ馴れしい言葉を吐いた相手には辛うじて頷いただけだったが、満足そうにアクセルが踏み込まれるのを、門の前で黙って見送った。
全てが一瞬の出来事で、逃げ場を失くした少年はペダルを踏み込まず、咄嗟に左足を地面についていた。轢いても構う様子を見せない車に自転車をひっかけられないよう、塀にもたれるように車体を傾かせる。振り向いた先のヘッドライトの眩しさに目を細め、バランスを崩しそうな自転車を、膝を曲げた左足で懸命に支えていた。
ペダルを踏み込む時間があと三秒早ければ、見ないふりが出来たのに。
「誰か、見えちゃった?」彼の不運を想いながら、なんとか持ち直して息をつく少年に近寄る。
そして、少年が差し入れたばかりの新聞を引き抜いた。彼はというと、昨日同様に目を伏せさせ、無言で首を横に振った。車内の人間の顔を見通すにあたって、薄闇のヘッドライトは人の目には強すぎた。
「ふうん」恐らく彼は嘘などついてはいないだろうが、彼女はそっけなく息を吐く。
叔父にとっては、彼は偶然通りかかっただけのただの新聞配達の少年だ。記憶に残す必要すらない存在だ。
それでも彼女は、緩く丸めた新聞で、自身の肩をとんとんと叩いた。「まあね」口元だけで軽く笑い、少年を一瞥する。
「誰にも言うなよ、殺すから」
まだ陽も昇らない静寂の中、決して大きくない少女の声に、彼は一度頷く。口を開くどころか目を合わせることもしないまま、彼女の脅迫に小さく頭を下げると右足を踏み込む。
いざとなれば刺してしまうか、せめてこのナイフや薬の入った重い鞄で頭を殴り、気絶させて記憶を奪おうかとも思っていたが、それを実行せずに済んだ幸運に、彼女は軽く頭を振った。
「ばかやろう」
誰に向けたのか自分さえわからない言葉を、ただ一言、アスファルトに零した。
「おはよ」
眠れない少女が、いっそう眠れなくなる缶コーヒーを手にしたまま声をかけると、少年は「おはようございます」と丁寧に呟いた。俯いた視線を新聞受けに向け、さっさと前かごから取り出した一部を突っ込む。まるで先日の脅迫文句などすっかり忘れてしまったような彼の姿を、彼女は指で持った缶を軽く振りながら眺めていた。
「あんた、中学何年?」
問いかけると、彼はようやく首を曲げて彼女を視界に入れた。
「中三です」
彼がぽつりと落とす言葉に、少女は納得して頷く。細身で痩せているが、今年で十五歳だと言われれば、なるほど、それ以上にも以下にも見えない。
「じゃあ、私の二つ下なんだ」
そう返すと、ほんの一瞬だけ、暗い瞳が少女の目を見た。見つめる、というほどの時間などない。確認するように向けただけだ。
「高校生、なんですか」
「そうよ。私のこと幾つだと思ってんの」
責めたつもりなど彼女にはなかったが、彼は再び視線を外してしまった。
「考えたことなくって……」
ハンドルを握りしめる彼が、ごめんなさいと呟いた理由が少女にはわからなかった。
致命的に会話のキャッチボールが下手なやつだ。人の目すら見やしないで。
遠のく自転車の軋む音はやがて聞こえなくなり、その頃には、昇り始めた朝陽のおかげで、夜霧は少しだけ白く染まり始めていた。
またなと馴れ馴れしい言葉を吐いた相手には辛うじて頷いただけだったが、満足そうにアクセルが踏み込まれるのを、門の前で黙って見送った。
全てが一瞬の出来事で、逃げ場を失くした少年はペダルを踏み込まず、咄嗟に左足を地面についていた。轢いても構う様子を見せない車に自転車をひっかけられないよう、塀にもたれるように車体を傾かせる。振り向いた先のヘッドライトの眩しさに目を細め、バランスを崩しそうな自転車を、膝を曲げた左足で懸命に支えていた。
ペダルを踏み込む時間があと三秒早ければ、見ないふりが出来たのに。
「誰か、見えちゃった?」彼の不運を想いながら、なんとか持ち直して息をつく少年に近寄る。
そして、少年が差し入れたばかりの新聞を引き抜いた。彼はというと、昨日同様に目を伏せさせ、無言で首を横に振った。車内の人間の顔を見通すにあたって、薄闇のヘッドライトは人の目には強すぎた。
「ふうん」恐らく彼は嘘などついてはいないだろうが、彼女はそっけなく息を吐く。
叔父にとっては、彼は偶然通りかかっただけのただの新聞配達の少年だ。記憶に残す必要すらない存在だ。
それでも彼女は、緩く丸めた新聞で、自身の肩をとんとんと叩いた。「まあね」口元だけで軽く笑い、少年を一瞥する。
「誰にも言うなよ、殺すから」
まだ陽も昇らない静寂の中、決して大きくない少女の声に、彼は一度頷く。口を開くどころか目を合わせることもしないまま、彼女の脅迫に小さく頭を下げると右足を踏み込む。
いざとなれば刺してしまうか、せめてこのナイフや薬の入った重い鞄で頭を殴り、気絶させて記憶を奪おうかとも思っていたが、それを実行せずに済んだ幸運に、彼女は軽く頭を振った。
「ばかやろう」
誰に向けたのか自分さえわからない言葉を、ただ一言、アスファルトに零した。
「おはよ」
眠れない少女が、いっそう眠れなくなる缶コーヒーを手にしたまま声をかけると、少年は「おはようございます」と丁寧に呟いた。俯いた視線を新聞受けに向け、さっさと前かごから取り出した一部を突っ込む。まるで先日の脅迫文句などすっかり忘れてしまったような彼の姿を、彼女は指で持った缶を軽く振りながら眺めていた。
「あんた、中学何年?」
問いかけると、彼はようやく首を曲げて彼女を視界に入れた。
「中三です」
彼がぽつりと落とす言葉に、少女は納得して頷く。細身で痩せているが、今年で十五歳だと言われれば、なるほど、それ以上にも以下にも見えない。
「じゃあ、私の二つ下なんだ」
そう返すと、ほんの一瞬だけ、暗い瞳が少女の目を見た。見つめる、というほどの時間などない。確認するように向けただけだ。
「高校生、なんですか」
「そうよ。私のこと幾つだと思ってんの」
責めたつもりなど彼女にはなかったが、彼は再び視線を外してしまった。
「考えたことなくって……」
ハンドルを握りしめる彼が、ごめんなさいと呟いた理由が少女にはわからなかった。
致命的に会話のキャッチボールが下手なやつだ。人の目すら見やしないで。
遠のく自転車の軋む音はやがて聞こえなくなり、その頃には、昇り始めた朝陽のおかげで、夜霧は少しだけ白く染まり始めていた。
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